SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 五章 コロッセオの騎士編

48 胸騒ぎ(挿絵あり)

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 憧れていた陽光は厚い雲に覆われ、冷たい雨粒が自身の頬を打った。満身創痍の体に染み渡り、口内は雨独特の匂いと混じって錆びた味に侵される。
 地獄から這い上がれば、そこには楽園があると信じていた。けれど実際に待っていたのは、水に濡れた冷たい世界だけ。楽園なんてありはしなかった。初めから希望なんてなかった。
 分かりきっていたことだろう―――この世界は残酷なのだと。

「君、大丈夫か?」

 雨音に交じって聞こえたその声に力なく顔を上げる。自分とは違って育ちの良さそうな少女だ。傘によって顔は隠れているが、全体的な体つきや格好からして高貴さが漂う。その雰囲気に、噂で聞く貴族なのだと知った。
「……何の用だ、クソ野郎。俺を笑いにきやがったのか。いいご身分だな……俺に構うんじゃねえ」
「その格好では、吠えても大して怖くはないな」
 そちらの人間からしたら今の自分はゴミ同然だと言うのに。彼女はゆっくりと近づき、目の前に立った。
「死にかけている人間を前に笑えるものか。私に噛みつきたいのであれば、元気がなくては適わないぞ?  私は強いからな」
 健康的な肌を濡らす雨粒は弾かれて、ゆっくりと頬を伝う。差し出された傘によって見えた少女の瞳は、曇りなき蒼さで、その中に自分の見たかった空を見た気がした。

「うちに来い、手当してやる」

 世界は残酷だ。けれど、あの一瞬に見えた世界はとても美しいと、そう感じた。





 周囲の風景は彩りあるものから、青々とした緑葉へと変わっていた。雲ひとつない澄み切った青空が、窓の向こうに広がっている。季節が移り変わり、約四ヶ月。ブラッディ家に訪れた夏も終盤に差し掛かっていた。
「にしても、朝からひでぇ暑さだ……こんじゃあ、蒸し肉なっちまう」
 パタパタと手で仰ぎ、座り込んでいるエプロン姿の男に「あら、暇そうね」とどこか圧のある声が飛んだ。ピンと背中を伸ばすと同時に「うおっ!」と男が立ち上がり、振り返る。
「いっそ、蒸し料理にでもなってシアン様の栄養になった方が、幾分か役に立つかもしれないわね」
「こ、怖ぇこと言うなよ……第一、ブラッディ家に相応しいコックは、オレしかいねぇだろうがよぉ!」
「あら。何を勘違いしているのかしら。貴方の代わりぐらいいくらでもいるわ」
 ニコニコとした表情から零れる辛辣な言葉。怠惰なコック、フレディはそれを聞いて「勘弁してくれよぉ」と青ざめる。
「あっ、いた……あの……ロバータさん……」
 通りかかった大人しそうなメイドが後ろから声をかけた。まだ十代後半程の若さで、きっちりと揃えられた前髪にハーフアップの茶髪をしている。が、ロバータは気づいていないらしい。
「全く、貴方はいつもいつも……」
「あの……」
「これで料理の腕がなかったら、料理される側だったんでしょうね。まあ、坊っちゃんに貴方みたいな臭い肉は食べさせられないけれど。せいぜい、犬か家畜の餌かしら」
 ロバータの物騒な言葉に、メイドはそそくさと退散しようとする。まるで殺人鬼と出くわしたかのような反応だ。けれども、傍にあったバケツに躓き、盛大に転けてしまった。大きな音に反応して、二人が驚いたように振り返る。
「あら、誰かしら……」
 バケツを頭に被っている人物を見て、ロバータが慌てて歩み寄った。その間、メイドの脳内では緊迫感の煽る不協和音が警鐘の如く鳴り響く。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 食べないでぇ! 美味しくないです!」
「別に食べないわよ……その声、リアちゃんね。大丈夫?」
 震え上がるメイドのリアに、ロバータは眉を下げた。バケツを取ってやり、優しく肩に手を置く。
「うっ、ひぃ……すみません……てっきり、見てはいけない場面を目撃した口封じにバラバラに殺されて、その遺体を主人の料理に紛れさせて殺人をもみ消しにするのかと……!」
「あらあら。最近流行りのサスペンス小説かしら。相変わらずネガティブ妄想が激しいのね。ダメよ~そんなことばかり考えてちゃ。根暗な人間になっちゃうんだから」
 頬に手を当てニコニコと返すロバータに「……実際、やってもおかしくないだろぉよ」とフレディがボソリと呟く。
「何か、言ったかしら?」
「なぁんでもねぇよ! それより誰でぇ、こいつは!」
 視線を向けられ、慌ててフレディが顔を逸らした。相変わらず、穏やかな見た目とは裏腹に物騒なメイド長だ。
「リアちゃんはクレアさんのとこの娘さんよ。もう、ひと月前から働き始めてる……少しは仕事仲間に興味を持ちなさいよね」
「あー……クレアのとこの」
 ブラッディ家には少人数の使用人が住み込みで働いている。クレア・エイマーズもブラッディ家で働くメイドの一人だ。使用人達は代々荘園内で庶民同様家庭を築くので、リアのように親子で使用人として主人に仕えることも珍しくはない。ちなみにクレアは大の派手好きである。
「お前、あいつとは違って、なんか地味だな」
 ハッキリと言ってみせるフレディにロバータが「気遣いが削ぎ落とされているわよ」と背中を強く叩いた。痛がるフレディに「い、いいんです」とリアが止める。
「私、母さんとは違って暗いし、仕事覚えるのも遅くて……本当に地味なので……印象に残らないのも仕方がないです。よく言われますし……」
 あはは、とリアは言葉にできる笑い声を上げた。縮こまり、眉は常に下げ気味で、見るからに暗いオーラを漂わせている。
「あらあら。そんなに陰気臭くならなくても。リアちゃんにもいいところはあるじゃない……」
「本当ですか……?」
 期待を込めた眼差しでリアがロバータを見つめる。けれど、ロバータはただニコニコとこちらを眺めるばかりだ。
「えっ、あの……ロバータさ……」
「そういえば、こんな所にくるなんてなにか用事があったの?」
 話を切り替えられ、何もいい所がないのだとリアは肩に重力がかかる。が、すぐにハッと顔を上げた。
「じ、実は、赤目の子を探していて……ミシェルさんから頼まれたんです。ロバータさんなら知っているかと……」
「ああ、ツグナ君ね。そういえば今日はまだ見ていないわ」
 どこに行ったのかしら、と頬に手を当て、ロバータが明日の方向を見ながら考える。「あの坊主なら、日が昇ると同時に出ていっちまったよ」二人の会話に割ってフレディが告げた。
「オレはこの屋敷で一番早く起きるからな。仕込みやら、なんやらで……」
「ど、どこに……」
「多分、村の方だろぉ。いつもはもう少し遅くに出ているが……今日はなんかあんのかねぇ」
「そうですか……」
 どうしようかと目線を下ろしていると、フレディから「なにか急ぎの用事でもあったのかぁ?」と問いかけられる。
「シアン様がお呼びのようで……見つけたら報告してほしいと……」
「なるほどなあ……まあ、そのうち帰ってくるだろ」
 頭をかいて適当にあしらうフレディに「そうですよね……分かりました」とリアは見るからに沈んだ様子で俯く。せっかくミシェルさんの役に立てると思ったのに。そんな不満を持ちながらも「ありがとうございます」と一言付け足してから深々とお辞儀した。
「見かけたら、教えてください」
 悲しみを引きずりながら、足早に部屋を出て行こうとする。が、先程取ったバケツにまたも足をぶつけ、その場で悶え苦しんだ。
「あら、大丈夫? 目が悪いのかしら」
「いっ、いえ……大丈夫です……」
 こちらを振り返って痛そうにしながら何度も会釈し、今度こそ部屋を出ていった。
「随分ドジな奴なんだな」
「元気があっていいじゃない。なんだか以前のツグナ君をみているみたい」
 数ヶ月前の記憶を振り返り、ロバータが微笑んでいると、フレディから「そうだったか?」と返ってくる。
「そうよ。初めはビクビクして、まともに会話ができなくって。話が終わったら即座に逃げようとしていたのよね……まるで調理場で見つかった時のネズミみたいな子だったわ。それで、よく転んだり壁にぶつかったりしていたのよ」
 懐かしいわあ、と自分の孫のように成長を感じ、しみじみとするロバータに「そう考えるとだいぶ変わったんだな」と隣にいたフレディもまた、当時を思い出して言った。
「ええ……やっぱり人って変われるものなのね。坊っちゃんも、変われるといいんだけど……」
 窓のすぐ近くに生えた木の枝から鳥が飛び立つのを見て、ロバータは切なげに呟いた。



 屋敷を出る時は薄暗かった空も、今では群青色に塗り替えられ、柔らかそうな白の巨塔を聳え立たせている。気がつけば、自身の真上まで日が昇っていた。
「すっかり正午になっちまただべ」
 忙しぇ時にどうもない、と独特の話し方で男が少年に声をかける。土まみれになりながら畑から出てくると、白髪の少年ツグナは「これぐらい平気です」と汗を拭った。伸ばしかけの短髪は以前とは違い、左右対称的に鬢が整えられている。
「これ、今回の賃金だ」
「あっ、ありがとうございます」
 渡されたのは数枚の銅貨。これだけでは何も買えないようなはした金だ。けれどもツグナは嬉しそうにそれを受け取り、軽くお辞儀してボロい麻布の袋にしまう。
「今日はどこのえさ行ってぎだんだぁ?」
「早朝にスミスさんのところで羊の放牧と掃除。あと、今日から新しくブラウンさんのところでも同じように牛舎の掃除をやりました。その後にここで畑仕事? です?」
 丁寧に答えながら、畑横にある小さな井戸で手を洗う。その姿を見て感心したように、男は「ツグナ君はよぐ働ぐ子だべなあ」と返した。
「なもかも文句言わずに働ぐ子だって村でもでらっと有名人だよ。そのうぢ皆がごぞってツグナ君さ頼みだすかもな。忙しくなっぞぉ」
「その方がいいです。目標があるから……」
 パッパと手を払い、水を地面に飛ばすツグナに「ご領主様の命令がい?」と首を傾げる。
「家賃代(その他込み)一括払いで百五十万だったな? この調子じゃ一生終わらねぁぞ。そもそも、おいでも稼ぐなんて無理だ」
 腕を組む男に「まあ……屋敷に置いてもらっているから……」とツグナは眉を下げた。世間一般の家賃相場なんて自分が知るはずもない。それに、伯爵家で衣食住が揃っているなら、むしろ良心的とまである。
「いっそ、おいの家の子になるが? ツグナ君来だら嫁も喜ぶ」
 その言葉にハッとして顔を上げる。嬉しかったが、自分を養うだけの余裕がきっとあるわけじゃない。お世話になっている分、更に迷惑をかけたくないなと思い「大丈夫です。ありがとうございます」と間を開けてから返した。誘われたのは今日だけで三回目だ。ここのところ、どの家からも毎日誘われている気がする。
「……まあ、おめが帰ってくる場所はこごもあるってごど覚えでだらえ。気向いだ時にでも頼るどえ」
 ポンッ、と肩に手が置かれる。少し驚いたが、必要とされて嬉しそうに「……はい」と目を細めた。前は他人に触れられることが怖くて苦手だったが、今ではむしろ安心する。
「さで、仕事も終わったし昼飯一緒さ食うが?」
 手を離し、地べたに置かれた荷物の中から男が大きめの弁当を取り出した。「これから屋敷の方で用事があるので」それを横目にしつつ、ツグナはショルダーバッグを肩にかける。
「珍しぇだな。今日はもう終いが?」
「はい」
 何やら忙しない様子を見て、男が「そうがい」と地面に腰を下ろした。
「じゃあ、まだ明日も同じ時間さ頼んだ」
「はい、お疲れ様です」
 男に見送られ、ツグナは再度お辞儀をすると、屋敷に続く道を歩き出した。

「少し遅くなっちゃったな」
 見上げた太陽は、既に西側へ傾き始めていた。屋敷に来たばかりの時は一日経つ事さえ遅く感じたというのに。なんだか不思議だ。
「みゃお」
「ん?」
 屋敷の前庭までつき、足早に歩みを進めていると、一匹の黒猫が低木の影から現れた。瞳孔の開いた金目がじっとこちらを捉えている。
「あっ、ミャーミャか」
 鳴きながら寄ってくるミャーミャに、ツグナは歩みを止め、踵に座った。手を伸ばすと、頭突きするようにしてミャーミャが頬擦りしてくる。
 ミシェルの一件が終わってすぐだろうか。怪我したミャーミャを道端でみつけ、手当して以来どうにも懐かれてしまい、現在に至った。一度は屋敷で飼おうとしたが、あのシアンに許されるはずもなく、結局庭でこっそり餌をやっている。ミャーミャの名前は文字通り、鳴き声からだ。ちなみに雄である。
「お前は僕がいつ帰ってきても、寄ってくるんだな」
 どこかで見張っているのか、なんて、呆れたように手の甲で頭を撫でつつ、ショルダーバッグを探る。出てきたのは、先程差し入れで貰った牛乳だ。ぬるくなってはいるが、まだ冷たさが瓶に残る。
「これ、シアンの紅茶用にあげようと思っていたやつだけど……いいや」
 確か餌用に隠していた小皿があるはず。屋敷の前から低木を数えて、腕を突っ込み、根元付近にあるものを取り出すと、その小皿に牛乳を注いだ。地面に置かれた瞬間、飛びつくようにしてニャーニャが飲み始める。
「美味しいか? 良かった……ああ、シアンの事は気にするなよ。正直今、あいつと話しづらいからさ……これで良かったんだ……」
 ふと、地下牢のことが頭に過ぎって、瞬きした。話しづらさを感じるようになったのは、きっとあの時からだろう。
 屋敷に来たばかりの時は、シアンも何かと面倒見のいい優しいやつだった。それは今でもよく覚えている。目に映る全てが怖くて不安だったけれど、初めて会ったのがあのシアンだったから、自分はここまで回復できたのだ。その優しさがシアンの都合だったのも何となく理解していた。
 そういう先のことを考えて、理想的な判断を下すやつだと知っているから。だから、井戸下の地下牢で「お前の判断は間違っていない」と本音で言ったのだ。別に古城で撃たれたことを責めたりなんてしないし、寧ろ感謝している。それをシアンにも伝えたつもりだった。負い目を感じて欲しくなかったから。
 けれど、何故だかあの日を境にして、シアンとの間に壁が出来てしまったようなのだ。それは、例えるなら教会の時、レイと喧嘩した後の微妙な距離感や胸苦しさとよく似ている。だが、今回はどちらかが謝れば済む問題ではなさそうなのだ。
「なあ、ミャーミャ。僕、あいつになにかしたのかな……ミシェルならすぐにあんたはここがだめだ~って言ってくれるのに……あいつが、分からない」
 前みたいに会話が続かなくなった、という事実だけが明白だ。以前続いていた分の違和感が、胸のモヤとしてある。シアンの口数も減ったせいか、自分からどう声をかけたらいいのか分からない。元々考えがわからなかったが、最近はもっと理解が出来なかった。
 前は当然のようにできていたのに、何故こんなに上手くいかないのだろう。
「他人の心理を完全に把握することは出来ない、か」
 舞踏会の時にシアンに言われた事を口にする。紳士的な伯爵が殺人鬼だったり、家族思いの優しい神父が性的虐待をしていたり。いつも強気なミシェルにも抱えるものがあった。シアンにも、失った家族と守るべきものがある。でも、それ以上にもっと、別の何かがあるような気がしたのだ。執事さんが言っていた過去とはまた違う何かを―――
「っ……! げほっげほっ……はぁ……っ」
 胸苦しさのままに激しく咳き込む。手で押えてみれば生暖かい感触が指の隙間を通って地面にぽたぽたと滴り落ちた。鉄錆の味に、ゆっくり口を離すと、手は一面真っ赤に染められている。
「また……っ……げほっ、げほっ……っ」
 止むことなく滴り落ちるそれは牛乳に入ってしまい、ツグナはハッとして小皿をミャーミャから取り上げた。低木の影にそれを捨てる。荒くなった息を整えながら「ごめん……も、終わり……だ」と蹲った。
 最近は毎日のように吐血している。ヴェトナの時からずっとだ。二人の反応をみてもあまりいい症状とは言えないのだろう。余計な迷惑をかけたくないので隠してはいるが、バレるのも時間の問題だ。
 仕事用のショルダーバッグからタオルを取って口元を拭っていると、背後から「ツグナ様」と声がかけられた。心臓が飛び上がると同時に体を上下し、慌てて血のついたタオルをショルダーバッグの中へ入れ、振り向く。
「ジェフリーさん……!」
 目の前に立っている白髪の紳士はジェフリー・ランバート―――もとい、シアンの執事だ。声を聞くなりツグナの背筋がピンとし、その勢いで立ち上がる。そうしてから、慌てて足元の血を払い、分からないように地面と馴染ませた。
「す、すみません。時間……せっかく取っていただいたのに……」
「いいんですよ。可愛らしいお客さんもいるみたいですから」
 目を細めて笑ってみせる執事に、ツグナは「あっ」と声を漏らし、口を何度か開閉させて言い訳を考える。けれど単純な脳ではシアンのように適当なことが思いつかない。
「その子は確か以前、怪我の手当てをした……こんなに大きくなられたんですね」
「あ、あの。このこと……シアンには……」
「大丈夫ですよ。シアン様の猫嫌いも本当に困ったもので……」
 アレルギーもあるんでしょうけど、と執事が楽しそうに笑ってみせる。けれど、ツグナの顔は変わらず強ばったままだ。
「それで……お願いしていたやつ、これから出来そうですか?」
「ああ、そういえばそうですね……まあ、約束ですから。少しの間なら行けるでしょう」
 なにやら呟く執事にツグナは首を傾げた。「場所を変えましょうか」続けられた言葉に、足元のミャーミャをみて「そうですね」と答える。前を歩き出す執事に、一度屈んでミャーミャを撫でてから「また今度な」と後を追った。
 ミャーミャはその背後で、低木の影に捨てられた真っ赤な牛乳をぺろぺろと舐めていた。




「あの、なんでわざわざこんな所に……?」
 執事に連れられやってきたのは、先程の位置からほぼ反対側にある屋敷横だ。キョロキョロと見回すツグナに「ここなら障害物も少ないですから」と執事が立ち止まる。木々に囲まれているし、これなら焼却炉近くの方が物もないような気がした。
「もうすぐ一年になりますね……早いものです」
 振り向いた執事の言葉にツグナは眉を顰めた。考えてみるがなんの事だか分からない。
「……えっと、何かありましたっけ?」
「ツグナ様がこの屋敷に来られて一年、という意味ですよ。その日はシアン様の誕生日でもあるので……特別な日なのです」
「はあ……」
 シアンが生まれた日―――確かその日は、彼の両親が亡くなった日でもあったはずだ。シアンにとっては決して喜べる日ではない。
「今年は特に多忙な年でした……こんなに大きな事件が重なったのは初めてです。このまま、何事もなく乗り越えられたらいいんですがね……」
 遠い目で語る執事に眉を顰める。「ああ、話が逸れてしまってすみません」切り替えるようにして返された言葉に、ぼんやりとしていたツグナは意識を戻した。
「最近は特に昔のことばかり思い出してしまって……私ももう、歳なんでしょう」
「いえ……僕も昔のことはよく思い出します」
 現状に納得出来ていない部分や不安、または満たされているからこそ過去のことを思いだす。シアンはそう、言っていた。自分の場合はきっと、これまでの人生で一番満たされているからだ。最も、実験施設以前の記憶は思い出せないのだが。
「……執事さんはなにか、 今に納得出来ていないことがあるんですか? 不安とか……」
 どちらかと言うと彼は前者のような気がした。言葉の終わりに、執事が目を伏せる。「そろそろ始めましょう」顔を上げられ、ツグナは続けて投げかけようとしていた口を閉じた。
「時間は有限ですから」
「……そう、ですね」
 気になる話し方だったが、本人に話す気がないうちは触れない方がいい。シアンと一緒に過ごしてきて、身についた持論だ。
「今日はお忙しい中、手合わせの時間をとっていただきありがとうございます」
「最後まで面倒みろと、シアン様の頼みでもありますから……私はいつでもいいですよ」

 真っ直ぐ向き合う執事に「では、失礼します」とツグナは駆け出した。
 素早く距離を詰め、蹴りを放つ。それを最低限の動きで執事が避けた。びゅん、風を切る音が大きく耳奥を打つ。
 やはり避けたか。ツグナは足を開いて身体をひねり、続けて蹴り入れる。が、頭を傾けられ、更に執事が拳で軽く突いた為、足の軌道が変わってしまった。
「……っ! まだ……っ!」
 近場に屈みこみ、地面に手をつきながら、足をかけるようにして回す。けれども、執事はツグナの足を軽く飛び越してみせた。リーチの短さが弱点として出てしまっているのだろう。
「右から拳」
「え?」
 右から振るったツグナの拳を、サッと頭を引くようにして避ける。齢六十とは思えない動きでそのまま後ろに回転し、着地した。
「一番始めにも言ったはずですよ。戦いは常に相手の動きを予測するものだと。これでは、また山篭りですかね」
「いっ!? いや、まだ……これぐらい準備体操というか……ですよ」
「それなら安心しました」
 その笑顔に威圧のようなものを感じ、ツグナは思わずたじろぐ。それを見て「今度は私からいきますよ」と執事が動いた。
 繰り出される連続のジャブ。それらの動きを予測し、全て手のひらで受け止めていった。拳、蹴り……絶え間なく続けられ、どんどん後退していく。
「くっ……」
 何度もなんどもボロボロになりながら覚えた動き。頭を回転させようとすると思うように体がついてこない。ふと、初めて執事に戦い方を教わった時のことを思い出す。


『強くなるには、そうですね……まず課題として、ツグナ様は力の方に頼りすぎなのです。そのため、全体的に無理な動きをしておられる』
 強くなりたい、の宣言後。シアンは何故か執事の元に自分を連れていった。何でもシアンは、執事から戦い方を学んだという。たまにシアンが執事に弱気になるのは、彼が戦い方を教えてくれた師匠というのもあるらしい。
 少し不安になりながらもツグナは『はい』と目を伏せた。
『ですからまず、やることとしては、正しい体の動きを身につけていきましょう。
 例えば薪割りですと、ツグナ様は腕の力だけでやっておられますが、本来ならば両足を開き、体の軸を定めてから全身を使っていく必要があるのです。
 何においても動きには安定した力の出し方ができる体の動きがあるものです。そのために必要な体の作りは普段鍛えることで出来上がっていきます』
 分かりやすい例えに理解し、ツグナはなるほどと頷いた。けれどすぐに目を泳がす。
『あ、でも……その……僕の力は人より強いから……人を傷つけないか、怖くて……』
 自分は力の強さが普通でないと、この世界に出た時から理解していた。これまでも攻撃する瞬間には必ず躊躇いが入っていたぐらい。自分の力で人を殺めるのは、嫌だった。
『そうですね……ツグナ様の力は特殊ですから。現在は頼りっきりで振り回されている印象です。そのようにして力を恐れるあまり、体の動きに制限がかかっているのでしょう。それでは抑えるどころか逆に力が入ってしまい、コントロールができません。
 ですが、体の動かし方が分かれば、そちらに意識が集中するので、同時に力の抑え方というのも身についてくるはずです。つまり制限もしつつ、動きもなめらかになる、というわけですね』
 力に任せているくせ、力に脅えていたら体の動きも固くなる。執事の話をツグナは真剣に聞いた。
『なんか、難しいんですね……』
『そうですね。本来なら、鍛えることで自分の能力を高めていくと同時に、そういうのも身についていくものなのですが……何にせよツグナ様のような方は珍しいです。道のりは長いかもしれませんが、少しずつ一緒に頑張っていきましょう』
 優しげな表情にやる気が出て、ツグナは張り切りながら『はい!』と返事をした。後に思い知らされる地獄。今となっては懐かしい記憶だ。


「……うっ!?」
 突然、突き出された手のひらに外したかと目線だけで見ていると、腹に勢いよく拳が突き刺さる。鳩尾辺りを正確に突かれ、一瞬だけ呼吸が出来なくなった。下を向いてハッとすると、丸くなった背中に高くあげた踵が振り下ろされる。
「かっ……あ……っ!」
 地面が近くなり、反射的に足を前に出して倒れるのを阻止する。少し顔を上げ、目線を執事に合わせようとした時。顎下から思いっきり蹴りあげられた。
「っ……!?」
 視界が揺らぐと同時に白み、意識が飛びそうになる。
 この人は一見穏やかそうで容赦のないところがシアンとそっくりだ。戦い方を教えてくれとシアンに言った時「泣くほど厳しい」と言われた意味が今なら分かる。
 終始笑顔のまま、毎日ボロボロにされ、山に放り投げられ―――今思い出すだけでも身震いが止まらない。実際、悪魔みたいな人だ。
 それでも、自分だって何もサンドバッグになりたいわけではないのだ。ここで倒れるわけにはいかない、そう拳を作る。
「……おや」
 構えていた足を執事が止める。後退したツグナは、後ろ足に力を入れてふらつきながら立った。カウンターで返そうと思っていたのに。流石、気づくのが早い。
「……っ」
 後ろ足に全ての重心がかかった瞬間、つま先を切り替え、執事の顔前に手のひらを突き出した。その目線のまま執事が避けると、腹に向かって拳が突き出される。が、執事は読んでいたのか腹前で拳を受け止めてみせた。先程の自分の攻撃と全く同じだ。
「おや、これは……っ」
 ガツン、鈍い音がした。少年が一番初めに突き出した腕で執事の肩を引き寄せると、そのまま頭突きしてみせる。これには執事も驚いた。何せ自分がみせた行動の一連と全く同じものを、応用して見せたからだ。むしろ、同じ技を使うことで先が読めるように油断させたのか。
 弾き出され、倒れそうになる執事に、ツグナは慌てて腕を伸ばした。執事は答えるようにして手を繋ぎ、かと思えば、そのままツグナの腕を引いて自身の体勢を戻した。
「えっ」
 一方逆にバランスを崩したツグナの下半身は後ろ蹴りされ、木の方へと顔から突っ込む。
「いっ~……!」
 幹を伝って木全体が大きく揺れた。顔を抑え、ツグナは蹲る。
「まだ手合わせ中ですぞ。相手に気遣いは結構。その隙がツグナ様を死に至らせます」
「うう……」
 淡々と告げられた言葉にツグナは鼻血を出しながら振り返った。初めて会った時は優しい人だと思っていたのに。本当に人間とは分からないものだ。
「おい、何をしている」
 聞き覚えのある声がぴしゃりと場の空気を切り裂き、肩を揺らした。一階窓からこちらを睨みつける金髪の人物に、息を飲む。
「シアン……」
 分け目が伸びて、だらしなく片目に前髪がかかっている青年と目が合う。不機嫌を映した碧眼はすぐさま自分から執事の方へ向けられた。
「先程からやけに騒々しいと思っていたが……おい、ジェフリー。俺はそいつを見つけたら、書斎に連れてこいと言ったはずだよな?」
「え?」
 何も聞かされていないと言いたげに、座り込んだまま執事を見上げる。シアンに威圧されても、執事は動じず「そういえばそうでしたね」と穏やかに笑って返した。
「最近どうも物忘れが激しいようで。私も歳ですね」
「おい……よくもそんなふざけた事が言えたものだな……老人は今すぐ解雇してやってもいいんだが?」
「フォッフォッフォッ。シアン様は短気なお方だ。それに、彼なら今ここにいるのですから、直接言えばいい話でしょう。まさか伯爵家の当主ともあろう方が、十代の子供を避けるなんて大人気ない事をするはずがございませんよね?」
 二人の会話にヒヤヒヤしていたツグナは、ふとここに来るまでの経緯を思い出す。そういえば、執事は先程の場所からわざわざ反対側のここを手合わせの場として選んだ。シアンの書斎横の庭を―――
「はあ……何が言いたい?」
「いえ。私は特に何も。それとも心当たりがあるのですか?」
「……本当に貴方はいい性格をしておられますね」
「それはお互い様でしょう」
 はあ、と重々しくシアンがため息をついた。少し間を開けてから「ツグナ」と久々に名前を呼ばれる。
「あ……え、えっと」
「話がある。今すぐ回って書斎にこい。ジェフリーもだ」
「……ここじゃダメなのか?」
「聞こえなかったのか? 書斎に来いと言っているんだ。さっさと来い……ついでにベイカーも途中で連れてこいよ」
 苛立った様子でシアンが力強く窓を閉めた。ポカンと口を開けたまま、しばらく窓を見つめる。
「……仕方ない。今回の手合せはここまでにしましょう。久々でしたが、なかなか動きが良くなっていましたよ……少し、安心しました」
 差し伸べられた執事の手を取って「ありがとうございます」とツグナが立ち上がった。胸のモヤモヤに耐えきれず「あの」と切り出す。
「もしかして、わざとここに連れてきたんですか?」
 それを聞いた執事は、ゆっくりと瞬きしてから「いいえ、偶然でしょう」とツグナの頭を撫でた。暖かく、重みのある手は、いつかのシアンを思い出す。
「早く行きましょうか。また怒られてしまいます」
 歩き出す執事の背中に、撫でられた頭を抑えた。こういう回りくどいのも、シアンとよく似ている気がする。血の繋がりはない筈なのに不思議だなと、ツグナも執事の後を追って歩き出した。



「遅い」
 威圧的なその声が、自分たちを呼び出した人物の第一声だった。革椅子に座ったシアンは、書斎デスクの前に立った三人を見つめる。
「あの、シアン様。話というのは……」
 メイドの一人、ミシェル・ベイカーはメンバーを見て、既に一抹の不安を感じているようだった。そう不安に思うな、とシアンが告げる。
「四年に一度の貴族会議がディオネールで行われることになった。日付は一週間後だ」
「貴族会議……」
 アルマテアには大きく分けて三つの政治機関が存在する。権威ピラミッドの最上が「王家」その下に王家の言伝を直接受け、国政の重要案件等を任されている政治組織「元老院」更にその下にあるのがシアンのような伯爵達による「貴族院」だ。
 基本的には元老院が国政全体を取り決めていくことになっている。が、それだけでは国全体をまとめあげていくことなんてできるはずがない。それぞれの地方を管理する伯爵たちは、四年に一度の貴族会議にて各地の報告、そしてこれからの方針などを討論し、元老院に結果を提出することが義務づけられているのだ。それが本来の役目である。
「……今年に限っては二度目だがな。知っての通り、全伯爵家代表が王都に集まる。それをつけ狙う者達も出てくるだろう。前回はジェフリーを護衛に連れていったが、今回は屋敷の管理を頼みたい。傭兵の手配も任せる。いいな?」
「承知致しました」
 目線を送られ、執事は胸元に手を当ててお辞儀する。そこまで関心のなさそうに流していたミシェルはハッと目を見開いた。
「そ、それはつまり……」
「ああ。ヴェトナの時と同様、護衛は君たち二人に任せたいんだ……やれるな?」
 嫌とは言わせない語気の強さ。鋭い碧眼を向けられ、ミシェルは「うっ」と押し黙らせられた。主人の頼みを断れるはずもない。ミシェルの横にいたツグナはそれを聞いて俯いた。
「えっと、その……期間はどれくらいで?」
「一週間だ。早く終われば三日で帰れる」
「はあ……確か、王都の方に別邸があるんですよね?」
「ああ。あちらにも色々揃っているから特に荷物も考えなくていい。各自、着替えだけは持っていけ。理解できたな?」
「……承知致しました」
 そう答えながら、ミシェルは先程から隣で俯いているツグナを横目にする。少し前は口喧嘩を繰り広げる二人の姿がよく見られたのに。今回の旅は、任務とは別件で面倒なことになりそうだ。
「では各自一週間後、よろしく頼む」
 その一言を最後に話が終わった。この状態で行きたくないなと、ツグナは重い足取りで書斎を出る。
「ツグナ様」
「……ジェフリーさん?」
 呼び止められ、力なく振り向いた。「あの……どうかしましたか?」書斎の入口付近で執事と完全に向き合う。
「舞踏会の後、私とした約束を覚えておられますか?」
「え?」
 急にどうしたのだろう。思わず考え込むが、時間が経ちすぎていてよく覚えていない。というか執事を連れていけばいいのに、なんて雑念が入り、思考の邪魔をした。
「私の代わりにシアン様を救って頂けないかと」
「あっ……」
 そういえば、シアンの過去を聞いた時にそんなことを約束したような気がする。だとしても何故このタイミングで再確認のようなことをするのだろう。「……少し、胸騒ぎがするんです」ツグナの心境を悟ったのか、執事が続けて付け足した。
「王都に付き添わないのが、今回初めてだからなのもあるのでしょう。王都は思っているよりも、危険なところですから」
「危ないんですか……?」
「ええ。権力者というものは厄介で、目的のためなら手段を選ばない……王都の中心街は貴族を守るよう厳重になっていますが、なにも貴族の敵がゴロツキや浮浪者というわけではないんです。寧ろ、最も警戒するべき敵は内側にいる。それを忘れないでください……」
 なんだか難しい話のように思えた。そもそも敵というのは誰なのだろう。今までは自分たちに立ち塞がる者達のことを指していたが、実際の輪郭はぼやけて明確ではない。自分は、シアンは、誰と戦っているのだろう。
「……僕に、できるんですかね。もし、できるんだとしても、どうすればいいか分からないです……」
 自信なさげに俯く。それを聞いた執事が「それなら」と切り出した。
「坊っちゃんの……シアン様の側にいてあげてください。ただそれだけでいいんです。どうか、よろしくお願いします」
「……分かりました」
 納得のできていない間を開けてから答える。断れるはずなんてなかった。何故こんなにモヤモヤするのだろう。傍にいるぐらい、執事さんにだってできるはずなのに。何故、そんなに必死で―――

 この時はまだ、あんな事になるなんて思いもしなかった。
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