上 下
203 / 318
安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ

湖畔の国リーニャ-2

しおりを挟む
 店主の背に続き、立ち入った建物の内部は小綺麗な空間だ。広さは宿屋の一室程度で、余計な調度品が置かれていないためかすっきりと広く見える。待合のための椅子もなく、気分を和ませる花瓶の一つもない。広い部屋の中に、客人が騎獣の預け入れ手続きをするめの木造りのカウンターがある。それだけの空間だ。無垢の壁材には煤一つついてはいないから、相当新しい建物なのだろう。湖畔の国リーニャが観光客で賑わうようになったのは、つい最近のはずだ。大通りの北端にある「馬屋街」という場所自体が、観光客の来訪に合わせ新設された地域なのであろう。石畳の敷かれぬ土の道、真新しい無垢材の建物。味気のない街並みにも納得だ。

 店主はカウンターの内側に立つと、ゼータに向けて真四角のメニュー表を差し出した。鮮やかな色合いの、真新しいメニュー表だ。ゼータはメニュー表の最上部に視線を走らせる。

―基本料金:騎獣一頭につき銀貨10枚(保証料銀貨3枚込み)
―基本料金内サービス内容:獣房(個別、寝藁付き)、餌(朝・夕)、ブラッシング

「基本料金内に、騎獣に不自由がないだけのサービスは含まれているんですよね?」
「もちろんさ。獣房には寝藁をたっぷりと敷いてあるし、餌をけちるような真似はしない。ただ基本料金内で提供できる餌は家畜用の飼料に限られるから、舌の肥えた魔獣であれば追加料金を支払うことをお勧めする。グラニは雑食だから―」

 女性の手が、カウンター台の内側にある紙の資料を忙しく捲る。

「じゃが芋、人参、キャベツ、大根を小さく刻んだ物と、鶏の生肉。一食につき銀貨一枚で、そいつをボウル一杯提供できる。特別に与えて欲しい餌があれば、都度相談には応じるよ」
「そうですか…」

 リーニャを出た後の目的地はまだ定まっていない。行く先によっては数日野宿が続くだろう。ゼータが温かな寝床で身体を休めることはもちろんだが、足となるグラニも食える時に食っておいて損はない。
 ならば基本料金である銀貨7枚に、朝夕の食事を追加し銀貨2枚、合計で銀貨9枚の出費だ。予想外の出費ではあるが、手痛い出費というわけではない。ゼータは笑みを絶やさぬ店主の顔を眺め、それから建物にたった一つある窓の外を眺め見た。建物の裏手側を望む窓だ。磨き上げられたガラス窓の外側には騎獣用の獣房がある。広々とした個別房が、見えるだけで十数。そのほとんど騎獣で埋まっている。丁度夕食時のようで、作業服を着た配膳員が餌入れに餌を流し入れていた。ばけつ一杯の飼料が基本で、騎獣の身体の大きさに合わせて柔軟に量を加減している。追加料金の餌を頼んでいる客人は多いようで、大半の騎獣の餌入れにはボウル一杯の餌が追加されていた。草食獣には瑞々しい青草、肉食獣には新鮮な生肉、雑食獣には細かく刻んだたくさんの野菜、それといくらかの生肉。水入れの水も、配膳の度に入れ替えるようだ。下手をすれば王宮の厩舎以上に、管理が行き届いている。
 ゼータは数度頷き、店主の女性へと視線を戻した。

「ここに決めます。うちの子を宜しくお願いします」
「まいどあり。大切に世話させてもらうよ。悪いが、書類を一枚書いとくれ」

 店主は白い歯を見せて笑い、ゼータの目の前に題名のない一枚の紙を差し出した。名前、居住国名、滞在の目的、滞在宿の名称、預入日数、希望するサービスの内容、その他特筆事項。豪快な筆文字が、白い紙の上に並んでいる。名前の欄にゼータ、居住国名の欄にドラキス王国、滞在の目的欄に観光と書き入れたところで、ゼータははたとペンを止めた。滞在宿はまだ決まっていない。

「すみません。宿泊する御宿をまだ決めていないんですけれど、空欄で良いですか?」
「構わないよ。万が一のための連絡先として、記入してもらっているだけだ」

 滞在宿の名称は空欄のままに、ゼータは記入を続ける。預入日数一拍、希望するサービスの内容は餌の追加が2食分。ペンを置き、書き終えた書類を見直すゼータに向けて、女性店主が顔を寄せる。

「御宿は未定と言ったが、当てはあるのかい」
「いえ。大通りで目についたところに入ろうかと思っています」
「ふぅん、そうかい」

 意味ありげな相槌を打ち、店主はゼータからふいと視線を逸らした。

「これは独り言なんだけどね。大通りの御宿はお勧めしない。サービスの割に値段が割高だ。手頃な値段で泊まろうと思えば、裏通りの御宿がお勧めだね。狙い目は目立つ看板を掲げていながらも、客引きを雇っていない御宿。客引きの人件費も、宿泊料金に含まれるからねぇ」

 ゼータがそろりと視線を上げれば、店主はつんとそっぽを向いていた。情報も立派な商品であるとは、枯草色の少年の一件で学んだばかり。しかし独り言と前置きをしたのだから、この情報に対する対価はいらぬということだろう。ゼータも表立っての謝辞は述べず、軽く頭を下げるに留める。ゼータの会釈を見て、店主はまた白い歯を見せて笑う。

「さて、サービス内容の確認だ。お預かりする騎獣はグラニ一頭。食事は朝夕の2回、それぞれに銀貨一枚分の追加付き。明朝のブラッシングは基本料金内のサービスだ。騎獣を引き取りにくる時間は決まっているかい?」
「今日のうちに用が済めば、朝一で引き取りに来る予定です」
「ならブラッシングは一番乗りで済ませておこうか」

 女性の指先が、書類の右端に文字を連ねる。
―早朝引き取り、ブラッシング最優先

「あとは注意事項だ。まず補償金について。お預かりした補償金銀貨3枚は、通常であれば騎獣の引き取り時に返却する。ただし騎獣が暴れて馬屋の備品を壊したとき、作業員に怪我を負わせたときは、損害回復費用としてこちらで頂くことになる。世話側の不手際という可能性もあるから、余程の惨事でなければ保証金以上の追加料金を頂くことはない」

 なるほど。ただの預かり金と安易に考えていたが、中々良心的な仕組みである。

「騎獣の引き取りは正午が刻限だ。刻限を過ぎた場合には、自動的に連泊扱いとさせてもらう。ただし自動更新は3度まで。4度目の更新までに騎獣を引き取りに来なかった場合には、所有権を放棄したものと見なす。大切な騎獣がどうなろうと、文句は言わないこった」
「実際にいるんですか?騎獣を引き取りに来ない人」
「騎獣を預けたまま死んじまう客が、たまにいる。ベアトラ国王の即位後リーニャ周辺の魔獣討伐は進んだが、それでも街に入って来る魔獣は後を絶たない。特に南部地域には田畑や牧草地が多いから、魔獣が住み着いていてもすぐには気付かないんだ。広大なとうもろこし畑を見に行ったまま帰らなかった、なんて観光客もいるね」
「…それは、気の毒です」

 千年の安寧を保つドラキス王国の国土にも、魔獣は出没する。害のない中型以下の魔獣であることがほとんどだが、年に数度は大型の魔獣が出没し、王宮軍に討伐依頼が舞い込むのだ。伝説と言われる強大な魔獣が突如として出現し、王宮軍総出で討伐に赴くという事態も稀にある。海沿いの街に凶暴なクラーケンが出現し、討伐に赴いた王宮軍に多大なる犠牲者を出したのは、ほんの20年前の出来事だ。いつの時代であっても、どこの場所であっても、人は魔獣と共存する他無いのである。

「確認事項は以上だ。質問がなければ代金の支払いに移らせてもらう。基本料金銀貨7枚、保証金銀貨3枚、それに追加の餌代で銀貨2枚。占めて銀貨12枚のお支払だ」
「支払いは、金貨でも良いですか?」
「もちろん」

 ゼータは上着の内ポケットに手を差し入れ、革の小袋を取り出した。革紐を解き、取り出した一枚の金貨をカウンターの真ん中に置く。輝く金貨を摘み上げた店主は、竜の模様が彫り込まれた金貨に眺め入る。流石ドラキス王国産、見事な金貨だ。店主の唇からは感嘆の息が漏れる。
 間もなくして店主はカウンターの内側に金貨を仕舞いこみ、代わりに釣りの銀貨を取り出した。ゼータの差し出した金貨には程遠い、鈍い輝きを放つ銀貨だ。十数の銀貨が、じゃらじゃらと音を立ててカウンターに落ちる。

「旧バルトリア王国産の銀貨は質が悪くてさ。リーニャで使用する分には不都合はないが、ドラキス王国に持ち帰るのはお勧めしないよ。土産でも買って使い切ってくれ」
「わかりました」

 ゼータは転がる銀貨を指先でつまみ、革袋の中に仕舞い入れた。十数の銀貨を仕舞い入れた革袋はずしりと重たい。店主の助言通り、リーニャ滞在中に積極的に使うのが吉だ。すっかり膨らんだ革袋を上着の内ポケットに仕舞い込み、ゼータは店主に向かって頭を下げた。

「じゃあグラニを宜しくお願いします」
「あいよ、任せとくれ。良い旅を」

 良い旅を。店主の言葉を反芻しながら、ゼータは無垢材の建物を出た。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛などもう求めない

白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。 「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」 「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」 目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。 本当に自分を愛してくれる人と生きたい。 ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。  ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。 最後まで読んでいただけると嬉しいです。

陛下から一年以内に世継ぎが生まれなければ王子と離縁するように言い渡されました

夢見 歩
恋愛
「そなたが1年以内に懐妊しない場合、 そなたとサミュエルは離縁をし サミュエルは新しい妃を迎えて 世継ぎを作ることとする。」 陛下が夫に出すという条件を 事前に聞かされた事により わたくしの心は粉々に砕けました。 わたくしを愛していないあなたに対して わたくしが出来ることは〇〇だけです…

なんでも諦めてきた俺だけどヤンデレな彼が貴族の男娼になるなんて黙っていられない

迷路を跳ぶ狐
BL
 自己中な無表情と言われて、恋人と別れたクレッジは冒険者としてぼんやりした毎日を送っていた。  恋愛なんて辛いこと、もうしたくなかった。大体のことはなんでも諦めてのんびりした毎日を送っていたのに、また好きな人ができてしまう。  しかし、告白しようと思っていた大事な日に、知り合いの貴族から、その人が男娼になることを聞いたクレッジは、そんなの黙って見ていられないと止めに急ぐが、好きな人はなんだか様子がおかしくて……。

BLR15【完結】ある日指輪を拾ったら、国を救った英雄の強面騎士団長と一緒に暮らすことになりました

厘/りん
BL
 ナルン王国の下町に暮らす ルカ。 この国は一部の人だけに使える魔法が神様から贈られる。ルカはその一人で武器や防具、アクセサリーに『加護』を付けて売って生活をしていた。 ある日、配達の為に下町を歩いていたら指輪が落ちていた。見覚えのある指輪だったので届けに行くと…。 国を救った英雄(強面の可愛い物好き)と出生に秘密ありの痩せた青年のお話。 ☆英雄騎士 現在28歳    ルカ 現在18歳 ☆第11回BL小説大賞 21位   皆様のおかげで、奨励賞をいただきました。ありがとう御座いました。    

好きな人の婚約者を探しています

迷路を跳ぶ狐
BL
一族から捨てられた、常にネガティブな俺は、狼の王子に拾われた時から、王子に恋をしていた。絶対に叶うはずないし、手を出すつもりもない。完全に諦めていたのに……。口下手乱暴王子×超マイナス思考吸血鬼 *全12話+後日談1話

モフモフになった魔術師はエリート騎士の愛に困惑中

risashy
BL
魔術師団の落ちこぼれ魔術師、ローランド。 任務中にひょんなことからモフモフに変幻し、人間に戻れなくなってしまう。そんなところを騎士団の有望株アルヴィンに拾われ、命拾いしていた。 快適なペット生活を満喫する中、実はアルヴィンが自分を好きだと知る。 アルヴィンから語られる自分への愛に、ローランドは戸惑うものの——? 24000字程度の短編です。 ※BL(ボーイズラブ)作品です。 この作品は小説家になろうさんでも公開します。

闇を照らす愛

モカ
BL
いつも満たされていなかった。僕の中身は空っぽだ。 与えられていないから、与えることもできなくて。結局いつまで経っても満たされないまま。 どれほど渇望しても手に入らないから、手に入れることを諦めた。 抜け殻のままでも生きていけてしまう。…こんな意味のない人生は、早く終わらないかなぁ。

帝国皇子のお婿さんになりました

クリム
BL
 帝国の皇太子エリファス・ロータスとの婚姻を神殿で誓った瞬間、ハルシオン・アスターは自分の前世を思い出す。普通の日本人主婦だったことを。  そして『白い結婚』だったはずの婚姻後、皇太子の寝室に呼ばれることになり、ハルシオンはひた隠しにして来た事実に直面する。王族の姫が19歳まで独身を貫いたこと、その真実が暴かれると、出自の小王国は滅ぼされかねない。 「それなら皇太子殿下に一服盛りますかね、主様」 「そうだね、クーちゃん。ついでに血袋で寝台を汚してなんちゃって既成事実を」 「では、盛って服を乱して、血を……主様、これ……いや、まさかやる気ですか?」 「うん、クーちゃん」 「クーちゃんではありません、クー・チャンです。あ、主様、やめてください!」  これは隣国の帝国皇太子に嫁いだ小王国の『姫君』のお話。

処理中です...