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妄執

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 何も出来ないまま、シューロはただ吠えただけだった。まるでこの身の慟哭吐き出すかのように、羅頭蛇が去った後も地べたに這いつくばったまま動けなかった。
 羅頭蛇の理が、なんだというのだ。シューロは、ラトが大切にしていた種族としての在り方を前に、初めて怒りを覚えた。
 シューロの大切を奪う権利が種族としての在り方だというのなら、一生かかっても理解することはできないと思った。
 こんな、こんな身の内を焼くような悲しみに苦しめられるくらいなら、ラトと一緒に殺して欲しかった。目の前で番いが食われるのを見せつけられ、この身をラトとの約束で縛られた。
 寄り添い合う幸せを身に味わわせて、ラトは何も言わずに突然死を受け入れた。生きて欲しかった。本能に身を投じる争いなんて、二度と来て欲しくはなかった。
 シューロは、掌から血が滲むほど拳を震わせる。カリュブディスでも、鮫でも、他の魔物でも構わないから今すぐ殺して欲しかった。今すぐラトの元へと連れて行って欲しかった。それが許されないというのなら、ラトと出会う前の孤独な己を受け入れるから、過去に戻して欲しかった。
 
 シューロが強い願いを海に捧げても、皮肉なまでに血に引き寄せられるものは居なかった。願わない時に限ってくる癖に、そう思うと運からも見放されたらしいと自嘲した。




 あれから、シューロを一人にしたラトに憤って、憤った己に対して苛立ちをぶつける日々だった。
 ラトを食い殺した羅頭蛇は、まだ近くの海域にいるらしい。シューロは、ラトと暮らしたねぐらに籠ったまま、負った傷の手当てすら怠るように、ただ空虚な日々を生き汚く過ごしていた。
 食事も口にせぬまま、日にちだけが過ぎていく。細かった体はさらに肉を減らし、飢餓で死ぬのをただ待つように、貝のように微動だにしなかった。
 時折、記憶がシューロの涙腺を馬鹿にするのだ。もういないラトの声がして、生きることを急かす様にして呼びかけてくる。うるさい、ラトの真似をするな。頼むから、同じ声で話しかけないで。
 その度に小さな手のひらで両耳を覆い、蹲る。縋るよすがを失ったシューロの心は、酷く疲弊していた。

 横たわったまま、数日動かずに過ごしていたせいか、シューロの体は舞上がった砂によって汚されたままだった。
 水の流れは変わらない。巻き上げられた砂に埋もれる手のひらを見つめながら、ただ時が過ぎるのを待った。

 ぽこりとした泡が、岩礁の隙間から零れ出る。海の青を吸い込んだそれが、シューロの眼の前でゆっくりと浮かび上がっていく。
 虚ろな金色の瞳は、それを無感動に映していた。


「……ラトの、たまご」

 はくりと震える唇から発せられた言葉は、シューロの瞳に光を戻すには充分だった。
 声は、酷く掠れていた。それでも、シューロは喉を使って、随分と久しぶりに心を音にした。

 ラトは、負けた相手の卵を守ることが礼だといった。闘いに勝った方の卵を運命に任せて、負けた相手の卵を守るんだって。

「っ、そうだ、……たまご、を、」

 それに気がついた瞬間、機能をしていなかった脳が酸素を得たかのように、思考は呼び覚まされた。砂を振り払うかのようにして、勢いよく起き上がる。ラトが残した卵は、きっとあいつが持っている。まだ、ラトの縁は残っていると思ったのだ。
 ラトと闘った海域に、放置された羅頭蛇の卵が残っている筈だ。喉元に飾られたラトの卵を交換すれば、シューロはラトの生きた証を胸に抱くことができる。
 同じラトが生まれてくるわけがない。そんなことは十分にわかっている。それでも、シューロはラトの稚魚に会いたかった。エゴでもいい、理に反すると、怒られてもいい。シューロの縁はそれ以外にあり得ない。
 
 シューロは、そんな妄執に囚われてしまった。ラトが悲しむだろうことを頭の片隅に追いやったのだ。それほどまでにシューロの心は限界だった。
 心の防衛本能が、愚かな考えを誘引したのだ。ラトと共に過ごした時のシューロのままではいられなかった。
 これは、絶対にしくじることは出来ない。その為にも羅頭蛇の卵を手にしなくてはいけないのだ。目的が定まった今、シューロを動かしているほとんどは衝動だ。
 ラトが欲しい、願うなら共に死にたかった。それが許されないのなら、シューロの好きな様にする。
 たとえ、羅頭蛇の怒りをかって殺されようとも構わない。全力を出した結果がそれなら、構わないのだ。

「なんで、もっと早く気が付かなかったんだろう。」

 掠れた声が言葉を紡ぐ。シューロの表情は抜け落ちたまま、ヒクリと口端が震えただけだった。



 またあの場所に戻ることが、どれほど勇気のいる行動だったかなんて、知る者はもういないだろう。
 シューロ以外は日常を取り戻しつつある。それに気がついたのは、シューロを引き留めるかのようにラトが語りかけるからだ。
 どこに行くんだ、シューロ。変わらない声で、そして、相変わらずの大きな体で。だから、振り払うようにシューロは塒を出た。
 ラトが死んだこの場所で見つけた新たな営みの跡を前に、強い衝動が込み上げてくるのを、シューロは必死で堪えた。
 優しくなんて、出来そうになかった。シューロは、歩くたびに溢れてしまいそうな心臓を支えるかように胸元を押さえ、下手くそな呼吸を繰り返しながら、一歩一歩砂地を踏んだ。

「……っ」

 細い糸で、心臓を締め付けられている様な心地だった。この場所で、ラトが食われた。シューロの目の前で白い花を咲かせながら、その鱗を海に溶かして消えたのだ。
 骨の一本も残してはくれない。記憶だけを刻みつけられたまま、最後は触れることも許してはくれなかった、シューロの番い。
 真夜中、闇が一面を支配する海の中で、シューロの金色の瞳だけが不自然に輝いていた。

 苦しんで死ねばいい。ラトを殺したあいつが、ラトよりもひどい死に方で死ねばいい。

 シューロは、身の内に染み込む黒い衝動に体を侵されていた。死ぬとしたら、きっとあいつに食われて死ぬのだろう。だから、シューロはあれだけ忌諱していた毒性の強い貝を食う様になった。
 食われた時、シューロの体に蓄えた毒で、羅頭蛇が死ぬように。ただそのことだけを考えて、己の命を維持することを選んだ。
 
 シューロが動けなくなった場所に戻ってきた。岩を千切り取ったかの様な岩礁はそのままである。そして、あの時と同じ位置に立った。
 金色の瞳が、瞬きをせずに正面を見据える。シューロの瞳の奥に、何度も繰り返されるあの時の光景。記憶が刺激され、手が震えてくる。それを握り込むことで堪える。

「ラト……」

 一歩、また一歩と歩みを進める度に、記憶からひきずり出された二頭の羅頭蛇が、シューロの体を通り抜けていくかのように演舞を始める。
 決められた手順に沿った、美しくも畏怖を抱く羅頭蛇の闘い。光で縁取られた輪郭は何度も長い尾で打ち合い、シューロを置いてどんどんと遠ざかっていく。
 足取りはもつれる様に蹌踉めきながら、シューロの眼にしか映らぬ幻影に遊ばれるようにして、一点を目指す。
 シューロの歩みよって舞い上がった白い砂が、紗をかけるかの様にして姿を覆い隠した。滑稽だ。幻影に踊らされているようで愚かであった。
 こんなところに卵なんてないのではないか。頭のどこかではそう思っていた。ラトが死んでから、もう数日が経っている。波に流されるようにして、シューロの知らない場所まで運ばれているんじゃないかと思った。

「……なんで、」

 だから、卵がシューロの目の前にぽつんと現れた時、何かの罠かと思ってしまった。

 岩礁が円形にその一帯を囲んでおり、まるで大きな岩がどこかへ移動してしまったかのように歪にへこんだ海底は、珊瑚と貝類の死骸が降り積もった場所にあった。
 砂地の柔らかさとは違う、素足で踏み締めるにはわずかな痛みが伴う。海底を歩かぬものなら気にもとめない環境だ。一歩踏み締める。シューロの柔らかな足に突き刺さった幾つもの欠片も厭わずに、石灰同士が擦れ合う耳障りな音を聞きながら、ゆっくりと歩み寄る。
 死骸が降り積もったそこを寝床と決めたように、白い砂地の一部を薄青に染めた大きな存在感。

 羅頭蛇の鱗の一部が変化する、海の魔石のように青く美しい卵がそこにあった。

「ーーーーーーーーっ、」

 シューロの金色が、キュウと細まった。己の黒髪の末端にまで魔力を帯びたかと思うと、目にも止まらぬ速さで黒髪が動いた。水を裂くかの様な勢いで一撃が振り下ろされたのだ。
 辺りに敷き詰められた珊瑚や貝の死骸が砕け、粉塵の様に破片が舞う。パキン、という空虚な音がした。シューロは表情のないまま、ただ無言で卵を見つめている。
 シューロの黒髪は、卵を掠めるかの様にして海底を貫いていた。頭に血が登り、ラトを殺した羅頭蛇の卵を砕いてしまいそうになったのだ。
 卵は海の光を纏ったままそこにあった。シューロの僅かに働いた理性が、衝動を抑えたのである。
 
 黒髪が、ゆっくりとシューロの腕に巻き付いた。尖った死骸を踏む不快感をものともせずに、ゆっくりと卵へ歩み寄る。シューロはその掌で包み込む様にして卵を手に取った。

「……ボクのエゴで、お前を振り回す。それだけは詫びておく。」

 抑揚のない声だった。無邪気に笑う、あの日のシューロが幻だったかのように、冷たい声であった。
 海は、シューロの大切なものを犠牲にして悲しみの青を深くしていった。だからこそ、シューロも何かを犠牲にして、己の心を取り戻す。これは、当然の権利に他ならない。この自己暗示は衝動にも似ていた。
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