名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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 シューロがとった行動は、実に単純なものであったが、同時に危険が伴うものでもあった。
 細い腕に抱いた羅頭蛇の卵は、その時が来るまで己の懐に入れておかねばならない。愛した番いの卵を抱いたこの腕で、今は羅頭蛇の卵を抱いている。それが、一時的なこととはいえ、気持ちに翳りが差してしまうのは必然であった。
 
 あれから、シューロはその身を叱咤するように、仇である羅頭蛇を探し回った。シューロとラトの関係を知っているもの達が周辺の海域には多かった。そのせいか、シューロが一人でいることを気にかけてくれるものもいた。
 昔は言葉が通じずにいた為か、意思の疎通を図ることは叶わなかった。しかし、ラトが死んでから他のものたちがシューロに語りかける言葉が少しずつわかる様になっていた。
 皮肉なことだ。この変化を真っ先に伝えたい相手はもういないというのに。ねぐらから離れた途端にシューロの知覚に変化が生じるだなんて。
 
 羅頭蛇は、冷たい海域を好む。ラトに教えてもらった彼自身のことを、当たり前とはいえ仇に当てはめるのも嫌だった。シューロは心を殺して、ラトの記憶と海のものたちの言葉を繋ぎ合わせてここまできた。
 シューロは海亀の先導で、仇である羅頭蛇の居場所を突き止めた。シューロ自身のことなんて歯牙にもかけてはいないだろう羅頭蛇の意表をつくのだ。
 
 木材が千切り取られたかのような、歪な形に破損した客船のいくつかが折り重なって、オブジェの様になっている。船底に空いた穴が、大きなギザ歯を見せつける魔物の様にも見える。そこは、船の墓場であった。
 小さな魚が、群れを成して回遊している。それらが細かな点にも見えてしまうほどの大きな沈没船が、羅頭蛇のねぐらである様だった。
 
 シューロの心は、不思議と凪いでいた。己の死に様を想像する余裕さえあった。
 黒髪が、そんなシューロの腕にそっと巻き付いた。己の防壁でもあるそれが、いつでも展開できるように備えた。

 命を賭すつもりで挑むのに、深層心理では死にたくないと思っているのかもしれない。もう、今のシューロに生き続ける理由なんてないというのに。

 もし、この卵の強奪が成功してしまったら、陸に逃げよう。失敗をしてしまったら、潔くラトを食らったあいつに食われて、死んでしまおう。

 仇討ちを行ってしくじったとしても、生き汚く足掻いてまで成し遂げたい何かがあるわけではない。ラトが死んだ今、シューロに残された物なんて何もないのだ。
 羅頭蛇の糧になるのは癪だが、同じ殺され方をしたら、シューロはラトの魔力と混ざり合うことができるかも知れない。子孫を残せない異種族同士、子を作るという証は残せなくても、共に居続けたいという本懐も遂げられるかもしれない。

 浅はかで命を手放すような考えが、シューロの心の自由を奪う。踏み出した一歩は、生きることに投げやりになった愚者の一歩だ。シューロは己の生きた証を刻みつけるかのように、海底の砂を踏みしめながら、仇の待つねぐらへと歩みを進めた。

 夜の海の暗さに、少しずつ色味が混じり始めた時間帯、間も無く朝焼けが照らし、海は目覚め始めるだろう。シューロは薄暗い海の中をゆっくりと進む。日の出前の僅かな時間を狙ったのは、羅頭蛇が寝静まっている隙に目的を果たすためだ。
 ラトは、夜遅くに眠り、陽が昇る前に目を覚ましていた。あいつも同じ羅頭蛇であるなら、おそらく睡眠の時間も大きくは変わらないだろう。
 暗く静かな場所で、体をまっすぐにしている時は浅い睡眠。そして、警戒心を解いて深く眠りについているときは、体をまるくしている。どれも、ラトと暮らしてきたシューロだからわかる、羅頭蛇の癖の様なもの。
 シューロは慎重に沈没船の入り口まで辿り着くと、そっと内部を覗き込む。がらんどうの薄暗い内部では、大きな魔物が丸くなって眠っていた。

「……深く眠っている、やるなら、今しかない。」

 シューロの言葉は、確信に満ちていた。船の内部では、仇である羅頭蛇の魔力が幅を利かせている。襲われるわけはないという羅頭蛇の自負が、シューロをここまで招かせた。
 大きな体は蜷局を巻いている様であった。喉元の卵を守っているのだろう。シューロは静かに体を浮かせると、羅頭蛇の側まで泳ぐ。
 水が揺れないように黒髪を広げ、身を任せる様にして水中を滑る。大きな羅頭蛇の顔の側まで慎重に近づくと、シューロは体の位置を逆さにした。
 重ねた両手を、器の形に開いた。そっと丸い球状の水を作り出す。シューロが使うことのできる収納魔法は、一度に一つだけの物しかしまえない。だが、今はそれだけで十分だった。
 
 両手に収まった、宝石の様に美しく輝く羅頭蛇の卵。シューロはそれを片腕に抱くと、決して眠る羅頭蛇には触れないよう、体のバランスをとる。
 羅頭蛇を起こさぬように卵をすり替えるには、シューロは不安定な姿勢で動きを最小限に抑えなくてはいけない。

ーあった……!

 シューロの心臓が、トクンと跳ねた。羅頭蛇の喉元に大切に飾られたそれは、間違いなく番いであるラトの卵だ。シューロは目の奥が熱くなった。ラトとの繋がりを前にして、泣きそうになってしまったのだ。それでも、泣くのは今じゃない。

 小さな鱗の一枚が、シューロの顔ほどの大きさだ。羅頭蛇の顎の下に潜り込んで卵を奪うのは骨が折れそうであった。それでも、時間は決して無限ではない。
 羅頭蛇が一呼吸をするたびに、泡がゆっくりと浮かび上がる。時折身じろぐ体の動きに気をつけながら、シューロは目の前の卵にそっと触れた。

ーラト、

 シューロの胸が、切なく泣いた気がした。その手に持った仇の卵を、そっと下から押し付ける様にして、少しずつ、慎重にラトの卵を押し出していく。喉元の吸盤と、卵のわずかな隙間に海水が入り込む。そのまま転がす様にしてラトの卵を手に入れた。
 まだ体温が微かに残っていた。シューロはそれを片腕に抱くと、ゆっくりと羅頭蛇の体の隙間を抜ける様に後退していく。
 その時、深い眠りに落ちている羅頭蛇の側で、何かが動いた。

「……っ、」

 入り口付近を回遊していた小さな魚の群れが、中まで入ってきたらしい。そのまま、羅頭蛇の漏らした泡の一つが群れにあたって弾けると、それに驚いた一匹が列を乱す様にして羅頭蛇の体にぶつかった。
 
 その瞬間、シューロは弾かれた様にその場を離れた。ここまで上手くいっていた筈だった。それなのに、どうして予期せぬタイミングでこんなことが起こるのだろうか。
 黒髪を広げて、水中を滑空するように沈没船から飛び出すと同時に、背後で威圧感が一気に膨れ上がった。

「ーーーーっ、くそ、くそ!!っぅあ、っ!!」

 海が悲鳴をあげるような、それほどまでに強い衝撃が水を通して体を貫く。大きな音とともに破裂した何かが、己の視界を横切った。いくつもの木端がシューロに襲い掛かる。あんなに大きな沈没船が、一瞬にして吹き飛んだのだ。
 シューロはラトの卵を胸に抱いたまま。その身を水流に押し出される様にして飛ばされた。海の中が一瞬にして荒れる。四方から襲いくる水圧に揉まれながらも、距離を稼ぐことはできた。それでも、まだ終わりではない。シューロは、自ら触れてはならないものに手を出した。
 その代償が、今背後で目を覚ましてしまったのだ。

「痴れ者が…!!」
「ぁ、くっ……!」

 水を震わせて広がった、羅頭蛇の声。その咆哮は威圧を放ち、その場にいた小型の魔物や魚たちの意識を容易く奪う。
 シューロの心臓が、嫌な音を立てた。黒髪をシールド状に展開していたおかげで恐慌状態には陥らなかったが、距離を置いた場所でも届いてしまう状態異常に、力の差をまざまざと見せつけられたのだ。
 シューロはラトの卵を慌ててしまい込むと、両手から視界を遮る泡を、辺り一面に繰り出した。その泡を突き破る様にして、鋭い速さで繰り出された水魔法が、シューロの横切った岩礁を砕く。
 初級魔法を繰り出すあたり、威嚇にとどめている。それは、無駄な殺生はしないという本能がそうさせているのだろう。それでも。シューロは屈することができない。ラトの卵を手にした今、再び手放すことなんてできるわけがないのだ。

「お前が、お前が殺したんじゃないか!!お前がボクから、ラトを奪ったんじゃないか!!」

 ボクから番いを奪っておいて、卵まで取り上げるのか。それが、本能だとしても、ボクだけは絶対に許さない。
 シューロは泣いていた。ラトとの約束を破ってまで行動をしている己を、ラトが見たら一体どう思うのだろうか。そんなことを考えて、きっと許してくれないだろうなということが容易く想像できてしまった。
 
「殺されたくなければ、お前の手にしているものを私に返せ……!!」

 ひときわ大きな水の音がして、背後から羅頭蛇の怒声が聞こえてきた。シューロは己の魔力が探知されたのに気がつくと、慌ててその身を上昇させた。
 背後に迫ってきた拘束魔法を、身を翻す様にしてかわす。それに捕まれば、いよいよシューロは逃げ切ることができない。

「貴様が触れていいものではない!!お前にその権利など、最初からないのだ!!」

 言葉の刃が、シューロの心を切り付ける。
 水中でも威力が衰えない攻撃を避けながら、シューロは目の前を泳いでいた鰯の群れへと突っ込んだ。
 視界一面が、銀色の体を持つ小魚たちに覆われる。群れはシューロの突然の乱入に迷惑そうな様子であったが、構っていることはできない。
 羅頭蛇の魔力探知の精度は、そこまで高くはない。だからこそ、何かに遮られていれば逃げ切れると思ったのだ。シューロは、鰯の群れに紛れたまま、時折背後を振り返りながら海上を目指した。
 羅頭蛇を怒らせてしまった今、きっとこの海の中にシューロの逃げ場なんてないのだ。ラトと過ごした海を捨てて、シューロはラトの卵と共に陸へと逃げる。これが、正しい選択であるかはわからない。
 
 海鳥が、海面に現れた魚の群れに反応して水を突き破ってくるのを前に、シューロは力一杯手を伸ばした。目の前で揺らぐ光に向かって、まるで、助けを求めるかのように。




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