鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

邯鄲へ

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 鄧禹は南䜌なんれんに到着すると騎馬隊へ小休止を命じると、自身は数騎をともなって近くの高台へ上がった。そこは蓋延が戦場を俯瞰ふかんするため登った高台だったが、同じ方向からやってきて同じ場所を望見ぼうけんしようというのだから、偶然というより自然なことだったかもしれない。
 しかし鄧禹が見た風景は、蓋延の見たそれとまったく別物だった。
「おお…!」
 鄧禹も、付き従ってきた数騎も、同時に同じ声をあげた。彼らが見たのは、ちょうど劉奉の軍が崩れ、倪宏の軍へ雪崩れ込んでゆくところだったのだ。
「お見事です、蓋将軍」
 それは自分が指示した難業を蓋延が実現した証だったからである。感嘆の声は短かったが鄧禹の蓋延への敬意は他の誰よりも深く大きいものだった。
 

 しかしこの状況では鄧禹も何もせず傍観するしかなかった。いま戦場は濁流と化した大河と同じで、よほどの大軍でもない限り、飛び込んだとてその流れに翻弄され消滅するしかない。
「新たな流れができるまでもう少し待つのみか」
 もどかしさを持て余しながら鄧禹は深く息をつき、馬上ばじょう腕を組んだ。


 戦いは劉秀軍の勝利が確定したが完勝にはあと一歩というところである。倪宏の兵の中には北へ脱出しようとあがく者もいて、それが自然発生の行動ではなく明確な指示の産物だと見て取ると、鄧禹は深く息を吐きながら今度は敵将を賛嘆さんたんした。
「さすが倪宏だ。この状況でなおあきらめない」
 あきらめないと言ってもここから敗勢を挽回するなどと非現実的なことをかくしているわけではない。一人でも多くの兵を落ち延びさせ、彼らを糾合きゅうごうし、その上で復讐戦を挑もうとしているのだ。
 だがそうとなれば鄧禹としてもやることが見えてくる。
「可能な限り倪宏の戦力を削らなければ」
 銅馬の兵に対しては、将来劉秀の兵になる可能性もあるだけに「あまり殺したくない」という心情が湧いた鄧禹だが、実は倪宏の兵に対しても同様の気持ちがある。しかし倪宏の統率力が存在する以上、彼らは何度でも敵としてあらわれるだろう。それもただ数が多いだけの烏合の衆ではなく強大な集団として。
 王郎を滅ぼし、倪宏を殺すか服属させない限りは「生かして活かす」などと甘いことは言っていられないのだ。


「ん……」
 高所から戦場を見降ろしていた鄧禹はいぶかしげに目を細めた。倪宏の敗残兵の一部が一塊ひとかたまりとなり移動してゆく。一兵一兵の大きさ、色、速さの不統一さからいって即席の騎兵部隊らしい。彼らは混沌が続く戦場からわずかに離れると岩場の陰に隠れる。
 奇襲のための伏兵であることは明らかだった。
「まずい…」
 それを見た鄧禹はにわかに顔色を変えた。
 混沌は収まり始めている。つまり劉秀の追撃が本格的に始まるということである。その追撃隊へあの伏兵たちの奇襲が成功したらどうなるか。追撃の手が鈍り、下手をすると倪宏を逃がしてしまうかもしれない。そうでなくとも劉秀軍に要らざる損害が出るのは避けられず、完勝であるこの戦いで無駄に兵を死なせることになるだろう。
「戻るぞ! あの伏兵部隊を撃破する!」
 同じ光景を見ている随伴ずいはんの兵たちへ告げると、鄧禹は小休止を命じ待機させている自身の騎馬隊へ向けて高台を駆け降り始めた。


 そのような経緯で鄧禹は劉秀本隊も見逃していた伏兵を発見し、宣言通り撃破することができたのだ。
 このあとの彼らの追撃について『後漢書』景丹列伝には「追撃十余里(4以上)。敵兵死傷多数」と記されている。


こうして劉秀は大勝をおさめたが、倪宏軍が決して弱軍ではなかったのは劉秀軍も少なからぬ傷を負ったことからも明らかだった。
 劉秀軍の突撃は劉奉の潰走に巻き込まれての崩壊に付け込んだ形で、確かにそれは多大な効果があったのだが、それでもなお、かなりの数の倪宏兵は反撃を試み、劉秀の兵を迎え撃ったのだ。それでも全体の敗勢を覆すことは不可能で、最終的に全面潰走へ陥ったのだが「もし劉奉軍の兵が倪宏の兵ほど強ければ確実に我らは負けていた」と、戦いの後に呉漢ごかんが真剣な表情で鄧禹に語ったように、薄氷の勝利だったには違いない。


「さて、邯鄲はどうなっている。もう落ちてしまったか」
 倪宏は逃してしまったが、しかしとにかくこの勝利によって彼の経戦能力は完全に奪い、戦後処理も終えた劉秀は、背後の不安なく王郎おうろうのいる邯鄲かんたんへ進撃できるようになった。そこで気になるのは邯鄲の戦況である。邯鄲へはすでに更始帝の将である謝躬しゃきゅうが派遣されており、包囲攻城をおこなっているはずなのだ。倪宏との戦いに集中していた劉秀はあえて邯鄲へは目を向けずにいたのだが、彼の軍師である鄧禹はそうはいかない。目前の事態に全力を傾けながらも、視界は中原すべてを覆っている。邯鄲へも定期的に偵騎を放っていたのだが。
「我らが鉅鹿を離れたときから何も変わっておりませぬ」
 鄧禹はいささか苦笑しつつ劉秀へ答えた。邯鄲を包囲した謝躬だが、いまだ陥落させることはできず、膠着状態というのが偵騎たちの報告だった。その攻め方も凡庸であり、あるいは凡庸以下であったかもしれない。邯鄲は一国(趙)の首都だっただけに鉅鹿以上の堅城で、その意味では攻略に時間がかかるのは仕方ないかもしれないが、それにしても、という内容らしいのだ。
「我ら以上に稚拙へたとのことであります」
 偵騎たちの細かな報告と彼らの感想をまとめた鄧禹は、攻城戦が不得手な自分たちを引き合いに出して評し、それを聞いた劉秀も「それはひどいな」と苦笑する。だが鄧禹としてはもう一つの報告の方が重要であった。
「そしてそのような謝躬をいまだに退けられぬあたり、王郎も、彼の側近たちの用兵もさほどのものではないということです」
「なるほど、それはそうだな」
「それでいて戦いは続いておりますゆえ、互いの兵も疲弊しはじめていることでしょう。明公との、これは好機です。我が軍が邯鄲へ進撃し、王郎を討ち果たせば、勝者は謝躬ではなく明公とのということになります」
 このタイミングで乗り込んでゆき、謝躬が疲労させた王郎を討つ。漁夫の利であり、いささか小狡こずるいと言えるかもしれないが、この際は結果がすべてである。北州に覇をとなえるには、この機を逃すわけにはいかない。それを理解する劉秀もうなずいた。


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