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第一章 北州編
伏兵撃破
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思わぬ好機に逸って突撃を命令した劉秀だが頭は冷静だった。右へ右へと押しやられている倪宏軍の動きを見て取ると、突撃する自軍へさらなる命令を伝えたのだ。
「右翼このまま突進、左翼やや緩め! そのまま敵の左側面へ突っ込め!」
この命で劉秀軍は左へ弧を描くような動きで倪宏軍へ突撃する型となった。右へ雪崩れ込んでゆく倪宏軍の左前面から側面にかけてを強烈に殴りつけたのだ。
この攻撃により倪宏軍はさらに右へ追いやられる形となる。そしてその先には内海と見まがうほどの巨大な湖が待っていた。
「止まれえ!」
誰が叫んだかわからない。それだけ大多数の兵の口が同じ言葉を叫んだ。だが叫ぶだけでは止まれない状態を潰走と言う。倪宏軍の兵は必死にとどまろうとする戦友を押しやりながら、自らも巨大な水の連なりに没してゆく。
それでも倪宏は良将だった。崩壊した指揮系統の中、手の届く範囲、声の届く範囲にいる兵へは的確な指示を出し、手近にいた士官を八方に走らせ、自らの命令を伝えようとしていた。
「右へ走れ。さらに右へだ。そのまま弧を描くように走って北へ逃れよ!」
劉奉軍に右斜めへ押し込まれている自兵をさらに右へ曲がらせ、水没をまぬがれさせようというのである。
だがすでに人馬の奔流ができてしまっている以上これは至難であった。それでも後方は比較的流れはゆるやかで、兵たちはなんとか北へ向けて足を動かしはじめる。そしてその動きを見て取った他の兵の中には「あれについてゆけば助かる」と気づく者もいるはずであった。それにより可能な限り兵を救い、糾合し、報復戦をおこなわなければならない。でなければ単に倪宏個人の矜持が傷つけられたにすまず、彼の王郎陣営での序列にも大きく響いてくるのだ。
「この戦いは負けだ。それはもう仕方がない。だが劉奉の阿呆に巻き込まれての没落などしてたまるか!」
倪宏の怒号には真実がこめられていた。
倪宏の兵は半数近くが劉奉の兵に巻き込まれて入り乱れ、どちらの兵やらわからない状態になっている。しかしそれ以外の兵はなんとかその災厄からまぬがれ、倪宏の命令に従って北へ逃れ始めていた。
「そうだ、他の者も続け! そうすれば助かるぞ」
倪宏の意を汲んだ士官たちは、必死に兵たちへ声を放つ。そのせいか北へ向かう兵も徐々に増えてきた。この動きは後方に布陣していた兵に顕著で、このまま北へ逃走すれば生き残れる可能性が高い。なぜなら劉秀軍の追撃は混乱する前方の倪宏兵(と劉奉兵)たちが自然と防壁となり、支障をきたすはずだからだ。前方の兵には悪いがこの際はありがたい。
「まだ運は我らにあるぞ! 走れ、走れ。北へ走れ!」
自らの武運をあらためて信じる気になった倪宏は、声を嗄らし兵を励ます。その声を聞いた敗残兵たちは生へ向かって疾走した。
敗残の倪宏兵は北へ生の道を見つけたことで、一時息を吹き返した。しかしその余力は今すべて逃走に使わなければすぐにでも死に背中をつかまれ、引きずり込まれてしまう。逃げ切るにはまだまだ走らねばならず、予断は許さない。
倪宏もそのことを理解しており、彼自身もまた安全圏へ逃れることを第一としていた。しかし劉秀が混乱・混濁する倪宏+劉奉兵を排除し、自由に追撃できる態勢になったなら、無防備な背中を襲われる自軍の逃走兵たちにどれだけの被害が出るかわかったものではない。
それゆえ倪宏は伏兵を置くことにした。が、大規模なそれを用意する余裕はない。狙いはあくまで追撃に対する牽制であった。
「よいか、追撃の腹背へ襲い掛かれ。攻撃も長い時間は必要ないし、具体的な戦果もいらぬ。そなたらに危険が及ぶ前にとっとと逃げ出せ。あくまで追撃隊を驚かせ、一時的にでも足を止めさせればよいのだ。それだけで助かる兵の数は増えるし、連中が追撃を再開してもさらなる伏兵を警戒することになり、その分足が鈍るはずだ。よいな、そなたらも必ず逃げおおせよよ。そなたらも貴重な兵力なのだからな」
伏兵部隊の長や兵に細かく狙いを説明したあと、倪宏は彼らの生還も厳命した。劉秀への報復のために一人でも多く兵が欲しいという事情があったにしても、彼らを案ずる心に嘘はなく、それだけに伏兵部隊の長や兵は奮い立った。
伏兵部隊は全員騎兵だった。素早く攻撃を仕掛け、素早く引くには騎兵が最も適している。ただし数は多くないし、逃走してきた騎兵の寄せ集めだけに連携は皆無に等しい。突撃をかけ、すぐに引く。これ以外にできることもすべきこともなかった。しかしそれだけでも追撃隊を牽制するには充分であろう。
臨時に倪宏から任命された伏兵部隊の長は、緊張をたたえながらも確かな戦気をもって南を注視していた。劉秀の追撃隊は、当然そちらの方角からやってくる。果たして、やってきた。
追撃隊は倪宏の伏兵部隊同様すべて騎兵だった。歩兵は劉奉の敗残兵に邪魔されまだ再編ができていないのかもしれない。ゆえに使える騎馬隊だけを先行させたのだろう。
劉秀が保有する騎馬隊すべてを発したわけではないだろうが、それでも千騎近くはいる。倪宏伏兵部隊の十倍以上である。
覚悟はしていた伏兵部隊長だが、さすがに息をのみ、しかしあらためて腹を据え直すと、背後の部下へ突撃の準備をするよう指示する。機は敵騎馬隊が通り過ぎた瞬間、横合いから突進し、連中の脇腹に刃を突き立てるようにえぐるのだ。一撃離脱。そのあとは一目散に逃げるのみである。
「……」
敵騎馬隊の馬蹄の音がどんどん大きくなり、埋伏している場所まで振動が伝わってくる。
あと少し。もう少し…
そして馬蹄と砂煙があと三十も数えないうちに目の前にやってくるのを見て取った隊長は右手を上げ、突撃命令の準備をする。
と、その瞬間だった。猛々しい喚声が至近で鳴り響いた。
「イヤアアァァアア!」
隊長も伏兵たちも驚き、反射的に振り返る。と、そこには一団の騎馬隊がいた。当然劉秀の追撃隊ではない。しかも彼らは明確な戦意と敵意を持って自分たちに襲いかかってくる。明らかに敵であった。
「あ……」
伏兵たちは愕然というより唖然とした。この騎馬隊はいったいどこから、どのように湧いてきたのか。そもそもどこの騎馬隊なのか。敵ならば劉秀の騎馬隊なのか。
彼らの脳にそのような疑問が瞬間的に湧いては消える。これこそが彼らがどれほど驚き、どれほど自失していたかの証明になるだろう。なにしろそんな暇はまったくなかったのだから。
突進してきた騎馬隊は、伏兵部隊を一撃で粉砕した。
すでに誰が隊長かもわからないほど入り乱れた伏兵部隊は、埋伏場所から悲鳴と怒号を上げながら押し出されるように飛び出し、一散に北へ向かって逃げ出した。その光景に劉秀の追撃騎馬隊も驚き、思わず馬速がゆるんでしまう。彼らは伏兵の存在にまったく気づいておらず、もし彼らの奇襲が成功していたらかなりの被害を受け、追撃のための時間を浪費することになっただろう。倪宏の狙いは誤っていなかった。
馬速はゆるめたが止まってはいない追撃隊へ、倪宏の伏兵部隊を粉砕した騎馬隊が走り寄り、並走しはじめた。その騎馬隊の長が隣を走る追撃隊へ向けて大声で怒鳴ってくる。
「このまま! このまま追ってくだされ!」
若々しいその声に追撃隊の長――呉漢は思わぬ援軍の正体を知った。
「将軍か!」
「呉将軍、このまま追撃を。一気に倪宏を壊滅させましょう!」
鄧禹の方も並走する騎馬隊の長が呉漢であることを確認すると、挨拶もせず声をあげる。それを聞いた呉漢も大きくうなずいた。
「心得た。話は後ぞ!」
呉漢は近くにいた副官へ鄧禹の指示を他の騎馬隊へも伝えるよう命ずると、自ら背後の部下を煽り追撃の速度をあげる。「他の騎馬隊」というようにこの追撃隊は一つではなく、複数の将の率いる騎馬隊の混成部隊だった。内訳は、呉漢、寇恂、景丹、銚期、そして驚くことにというべきかあきれたことにというべきか、蓋延の部隊まで入っていた。
鄧禹もこの段階ではそのことを知らないが、もし知れば彼の無事を喜びつつも、その桁外れの活力にあきれもしただろう。鄧禹は蓋延が「劉奉軍を倪宏軍へぶつけるように潰走させてほしい」という自分の指示を達成してのけたことは知っていたのだ。それだけでも一大事業で大いに疲労しているはずであろうに追撃隊にまで加わるとは。
「蓋将軍が明公のお味方でよかった」
とはこの戦いが終わった後の、苦笑とともに漏らされた鄧禹の偽らざる真情だった。
「右翼このまま突進、左翼やや緩め! そのまま敵の左側面へ突っ込め!」
この命で劉秀軍は左へ弧を描くような動きで倪宏軍へ突撃する型となった。右へ雪崩れ込んでゆく倪宏軍の左前面から側面にかけてを強烈に殴りつけたのだ。
この攻撃により倪宏軍はさらに右へ追いやられる形となる。そしてその先には内海と見まがうほどの巨大な湖が待っていた。
「止まれえ!」
誰が叫んだかわからない。それだけ大多数の兵の口が同じ言葉を叫んだ。だが叫ぶだけでは止まれない状態を潰走と言う。倪宏軍の兵は必死にとどまろうとする戦友を押しやりながら、自らも巨大な水の連なりに没してゆく。
それでも倪宏は良将だった。崩壊した指揮系統の中、手の届く範囲、声の届く範囲にいる兵へは的確な指示を出し、手近にいた士官を八方に走らせ、自らの命令を伝えようとしていた。
「右へ走れ。さらに右へだ。そのまま弧を描くように走って北へ逃れよ!」
劉奉軍に右斜めへ押し込まれている自兵をさらに右へ曲がらせ、水没をまぬがれさせようというのである。
だがすでに人馬の奔流ができてしまっている以上これは至難であった。それでも後方は比較的流れはゆるやかで、兵たちはなんとか北へ向けて足を動かしはじめる。そしてその動きを見て取った他の兵の中には「あれについてゆけば助かる」と気づく者もいるはずであった。それにより可能な限り兵を救い、糾合し、報復戦をおこなわなければならない。でなければ単に倪宏個人の矜持が傷つけられたにすまず、彼の王郎陣営での序列にも大きく響いてくるのだ。
「この戦いは負けだ。それはもう仕方がない。だが劉奉の阿呆に巻き込まれての没落などしてたまるか!」
倪宏の怒号には真実がこめられていた。
倪宏の兵は半数近くが劉奉の兵に巻き込まれて入り乱れ、どちらの兵やらわからない状態になっている。しかしそれ以外の兵はなんとかその災厄からまぬがれ、倪宏の命令に従って北へ逃れ始めていた。
「そうだ、他の者も続け! そうすれば助かるぞ」
倪宏の意を汲んだ士官たちは、必死に兵たちへ声を放つ。そのせいか北へ向かう兵も徐々に増えてきた。この動きは後方に布陣していた兵に顕著で、このまま北へ逃走すれば生き残れる可能性が高い。なぜなら劉秀軍の追撃は混乱する前方の倪宏兵(と劉奉兵)たちが自然と防壁となり、支障をきたすはずだからだ。前方の兵には悪いがこの際はありがたい。
「まだ運は我らにあるぞ! 走れ、走れ。北へ走れ!」
自らの武運をあらためて信じる気になった倪宏は、声を嗄らし兵を励ます。その声を聞いた敗残兵たちは生へ向かって疾走した。
敗残の倪宏兵は北へ生の道を見つけたことで、一時息を吹き返した。しかしその余力は今すべて逃走に使わなければすぐにでも死に背中をつかまれ、引きずり込まれてしまう。逃げ切るにはまだまだ走らねばならず、予断は許さない。
倪宏もそのことを理解しており、彼自身もまた安全圏へ逃れることを第一としていた。しかし劉秀が混乱・混濁する倪宏+劉奉兵を排除し、自由に追撃できる態勢になったなら、無防備な背中を襲われる自軍の逃走兵たちにどれだけの被害が出るかわかったものではない。
それゆえ倪宏は伏兵を置くことにした。が、大規模なそれを用意する余裕はない。狙いはあくまで追撃に対する牽制であった。
「よいか、追撃の腹背へ襲い掛かれ。攻撃も長い時間は必要ないし、具体的な戦果もいらぬ。そなたらに危険が及ぶ前にとっとと逃げ出せ。あくまで追撃隊を驚かせ、一時的にでも足を止めさせればよいのだ。それだけで助かる兵の数は増えるし、連中が追撃を再開してもさらなる伏兵を警戒することになり、その分足が鈍るはずだ。よいな、そなたらも必ず逃げおおせよよ。そなたらも貴重な兵力なのだからな」
伏兵部隊の長や兵に細かく狙いを説明したあと、倪宏は彼らの生還も厳命した。劉秀への報復のために一人でも多く兵が欲しいという事情があったにしても、彼らを案ずる心に嘘はなく、それだけに伏兵部隊の長や兵は奮い立った。
伏兵部隊は全員騎兵だった。素早く攻撃を仕掛け、素早く引くには騎兵が最も適している。ただし数は多くないし、逃走してきた騎兵の寄せ集めだけに連携は皆無に等しい。突撃をかけ、すぐに引く。これ以外にできることもすべきこともなかった。しかしそれだけでも追撃隊を牽制するには充分であろう。
臨時に倪宏から任命された伏兵部隊の長は、緊張をたたえながらも確かな戦気をもって南を注視していた。劉秀の追撃隊は、当然そちらの方角からやってくる。果たして、やってきた。
追撃隊は倪宏の伏兵部隊同様すべて騎兵だった。歩兵は劉奉の敗残兵に邪魔されまだ再編ができていないのかもしれない。ゆえに使える騎馬隊だけを先行させたのだろう。
劉秀が保有する騎馬隊すべてを発したわけではないだろうが、それでも千騎近くはいる。倪宏伏兵部隊の十倍以上である。
覚悟はしていた伏兵部隊長だが、さすがに息をのみ、しかしあらためて腹を据え直すと、背後の部下へ突撃の準備をするよう指示する。機は敵騎馬隊が通り過ぎた瞬間、横合いから突進し、連中の脇腹に刃を突き立てるようにえぐるのだ。一撃離脱。そのあとは一目散に逃げるのみである。
「……」
敵騎馬隊の馬蹄の音がどんどん大きくなり、埋伏している場所まで振動が伝わってくる。
あと少し。もう少し…
そして馬蹄と砂煙があと三十も数えないうちに目の前にやってくるのを見て取った隊長は右手を上げ、突撃命令の準備をする。
と、その瞬間だった。猛々しい喚声が至近で鳴り響いた。
「イヤアアァァアア!」
隊長も伏兵たちも驚き、反射的に振り返る。と、そこには一団の騎馬隊がいた。当然劉秀の追撃隊ではない。しかも彼らは明確な戦意と敵意を持って自分たちに襲いかかってくる。明らかに敵であった。
「あ……」
伏兵たちは愕然というより唖然とした。この騎馬隊はいったいどこから、どのように湧いてきたのか。そもそもどこの騎馬隊なのか。敵ならば劉秀の騎馬隊なのか。
彼らの脳にそのような疑問が瞬間的に湧いては消える。これこそが彼らがどれほど驚き、どれほど自失していたかの証明になるだろう。なにしろそんな暇はまったくなかったのだから。
突進してきた騎馬隊は、伏兵部隊を一撃で粉砕した。
すでに誰が隊長かもわからないほど入り乱れた伏兵部隊は、埋伏場所から悲鳴と怒号を上げながら押し出されるように飛び出し、一散に北へ向かって逃げ出した。その光景に劉秀の追撃騎馬隊も驚き、思わず馬速がゆるんでしまう。彼らは伏兵の存在にまったく気づいておらず、もし彼らの奇襲が成功していたらかなりの被害を受け、追撃のための時間を浪費することになっただろう。倪宏の狙いは誤っていなかった。
馬速はゆるめたが止まってはいない追撃隊へ、倪宏の伏兵部隊を粉砕した騎馬隊が走り寄り、並走しはじめた。その騎馬隊の長が隣を走る追撃隊へ向けて大声で怒鳴ってくる。
「このまま! このまま追ってくだされ!」
若々しいその声に追撃隊の長――呉漢は思わぬ援軍の正体を知った。
「将軍か!」
「呉将軍、このまま追撃を。一気に倪宏を壊滅させましょう!」
鄧禹の方も並走する騎馬隊の長が呉漢であることを確認すると、挨拶もせず声をあげる。それを聞いた呉漢も大きくうなずいた。
「心得た。話は後ぞ!」
呉漢は近くにいた副官へ鄧禹の指示を他の騎馬隊へも伝えるよう命ずると、自ら背後の部下を煽り追撃の速度をあげる。「他の騎馬隊」というようにこの追撃隊は一つではなく、複数の将の率いる騎馬隊の混成部隊だった。内訳は、呉漢、寇恂、景丹、銚期、そして驚くことにというべきかあきれたことにというべきか、蓋延の部隊まで入っていた。
鄧禹もこの段階ではそのことを知らないが、もし知れば彼の無事を喜びつつも、その桁外れの活力にあきれもしただろう。鄧禹は蓋延が「劉奉軍を倪宏軍へぶつけるように潰走させてほしい」という自分の指示を達成してのけたことは知っていたのだ。それだけでも一大事業で大いに疲労しているはずであろうに追撃隊にまで加わるとは。
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