だが、今では、自己開示の相手は親であるという若者も少なくない。それは友だちや恋人に自己開示するのはリスクがあるからだという。結局のところ、親子の心理的距離の近さが若者の自立の妨げになっているのではないだろうか。
親子の心理的距離が近いため、若者はさみしさを切実に感じることがない。ゆえに、親友や恋人にリスクを冒してまで自己開示する必要はないということになる。
発達心理学の知見からすれば、青年期には親子というタテの関係中心の生き方から、友だちなどヨコの関係中心の生き方へと移行していくものと考えられている。先述のように、私が以前実施した自己開示の調査でも、青年期の間に主な自己開示の相手が親から友だちに移行していくことが示されている。
だが、最近では、そのような移行がみられない学生も少なくない。そして、相変わらず最も身近で何でも話せるのは親だという。そこで問題になるのは、親の側の姿勢である。親の側に、わが子を自立に向けて駆り立てようという意識が乏しいのではないか。むしろ、いつまでも自分に頼ってくれているほうがさみしくないと思っているのではないかと邪推せざるを得ない発言を耳にすることもしばしばである。
自立すべき年頃になっても自立の力が育っていない巣立ちの病とされる不登校が、深刻な社会的問題として注目され始めた頃、自立できない子どもの背後には自立させない親がいると言われ、母性の暴走が問題とされたものだった。だが、このところ子どもを自立へと駆り立てることをしない親が目立つ。
子どものこの先の幸せを考え、自分のさみしさを堪えて、あえて突き放す親と、自分が今さみしいのは嫌だから子どもが大きくなってもベタベタして慣れ親しんでおり、子どもの自立の邪魔をしている親。どちらがほんとうにやさしいかを考えてみる必要がありそうだ。
親としての使命感をもたず、子どもの自立を促すことをせず、むしろいつまでも自分に頼るかわいい子でいてほしい、子どもが自立しないほうが自分はさみしくないといった自己中心的な態度を取るケースでは、子どもはいつまでも親に頼り、自立心の乏しい子になるだけでなく、親をさみしがらせないように自立することを躊躇しがちとなる。
そのような親の元にいて、ほんとうに自立心が乏しくいつまでも親にべったり依存する若者がいる一方で、そんな親を心の中で乗り越えながらも、ある種のさみしさに苛まれる若者もいる。
ある学生は、家族心理についての授業の後に、親としての使命感、わが子を一人前に育てて社会に送り出すという気持ちがまったくない親をもっているということが、自分としてはものすごくさみしい、もっと大きな存在の親をもっている友だちが羨ましいと話しに来た。
そうした親の側の問題は別にしても、子どもたちが青年期になっても自立へと駆り立てることのない親が多くなっているため、自立が進まず、そんな自分に自信がもてず、自己肯定感も高まらないという問題がある。
親と子は一世代ずれているのである。子どもはいつまでも親に頼っているわけにはいかない。親の側も、子の側も、親子の相互自立ということを念頭に置き、心理的距離について自覚しつつかかわっていく必要があるだろう。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)