松井証券は第104回定期株主総会を6月28日、東京・千代田区麹町の住友不動産半蔵門駅前ビル2階ベルサール半蔵門で開催する。総会終了をもって、松井道夫氏(67)は代表取締役社長を退任する。「会社の代表は社長で十分。二頭政治は百害あって一利なし」との信念から、会長や取締役として残らず、退任後は月収10万円の顧問となる。社業には一切口を出さない、と言う。
社長には、創業家以外から初めて和里田聰(わりた・あきら、49)氏が就任。1994年、一橋大学商学部卒。プロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト・インク(現P&Gジャパン)、リーマン・ブラザーズ証券、UBS証券を経て、06年、松井証券取締役。19年、専務取締役になっていた。和里田氏に松井氏は「自らの価値観、時代感で、思い切り暴れてほしい」とエールを送る。
松井氏の退任に伴い、創業家の代表として長男・道太郎氏(32)が取締役に就く。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。QUICKを経て18年に松井証券に入社。19年から「新しい松井証券」を創るための社長直轄プロジェクトを担当している。
松井証券の歴史は古い。今日まで同族経営を貫いてきた。創業者は松井房吉。三重県桑名市出身の相場師だ。1918(大正7)年5月、日本橋兜町で個人営業の松井房吉商店を創業。「売りの房吉」の異名をもつ。第一次世界大戦後の20(大正9)年3月の株価大暴落で売りまくり、巨万の富を得た。箱根塔ノ沢温泉で、当時、人気俳優だった阪東妻三郎と張り合って豪遊したという逸話が残る。夢枕に弁天様が立ったことから、箱根登山鉄道塔ノ沢駅の構内に銭洗弁天を祀る祠を寄贈した。
南満州鉄道など国策会社の株式を買っていたため、敗戦で株券は無価値となり、房吉は財産のほとんどを失った。49(昭和24)年、長男、武が事業を継承。3代目社長は武の実弟の正俊。老舗だが、同社は弱小証券会社の域を出なかった。
武の娘婿の松井道夫氏が中興の祖である。道夫氏の旧姓は務台。長野県生まれの東京育ち。1976年、一橋大学経済学部卒業後、日本郵船に入社。86年、上智大学大学院で中国考古学を学ぶ松井千鶴子氏と結婚したことによって人生の転機が訪れる。2代目社長の武には千鶴子氏しか子供がいなかったため、道夫氏は養子となる。87年、松井証券に入社。会社を継ぐという道夫氏の申し出に、武は「おやんなさいよ。でも、つまんないよ」と答えた。
松井道夫氏は異端児である。証券界の多数派の逆を行く。
「営業マンはいらない。インターネット上で顧客に株式を売買してもらう」
95年に社長の椅子に座った松井氏が、社運を賭ける決断をしたのがインターネット取引である。インターネット時代の到来を見据え、店頭での対面営業を廃止し、ネット証券会社として産声をあげた。99年に株式手数料が完全自由化されたことを受け、手数料が安いネット証券が相次いで誕生した。松井証券は返済期限のない信用取引を業界で初めて導入するなど斬新なサービスを投入し、シェアを拡大した。それまで無名に近かった松井証券は、ネット証券会社の先駆けとなった。
手数料自由化とデイトレードの隆盛に乗って「1日定額制」「無期限信用取引」など新機軸を次々と編み出し、松井証券はネット証券の先頭を走ってきた。しかし、輝いていたのは2000年代の半ばまで。手数料の値下げ競争で出遅れ、シェアを落とした。
ネット取引をする顧客の多くはIPO(新規株式公開)銘柄を事前に手に入れるのに血眼になっていた。ところが、松井氏が野村、大和、日興などのIPOの大手独占を批判して挑戦状を叩きつけたため、野村などを怒らせ、IPO銘柄を割り当ててもらえなくなった。それで客離れが進んだ。