コント寄りの漫才をしていながらも、ツッコミが漫才らしく成立しているという点では、残念ながら解散してしまいましたが、和牛がめちゃくちゃうまかったと思います。
ツッコミの川西(賢志郎)くんはコントの役柄としてセリフを言うんやけど、おかしな言動を繰り返すボケの水田(信二)くんに対する内面のイライラが、どのネタでもうまく表現されています。役柄を演じ切りながら、「漫才師」としての川西くんも表に出ているのがすごいなと思って、いつも見ていました。
和牛は、かなりコント的な漫才をしていながらも、漫才師としてのスキルが抜群に高いため、見ている人に「これは漫才だ」と思わせてしまう。だからなのか、和牛の漫才をコント的だと言っている人をあまり見かけたことがありません。
でも、実際にはコントの手法をかなり漫才に取り入れています。
たとえば、彼らの代表的なネタ「旅館」。水田くんが旅館の宿泊客、川西くんが旅館の女将という役回りで話が進み、ネタの中盤で日付が変わります。コントだったら、いったん暗転(舞台を暗くして場面転換すること)するはずです。
それを2人は、いったんセンターマイクから離れてから、すぐに「おはようございます」と言いつつ、センターマイクに戻るという形で表現しました。これはつまり、コントの暗転を漫才に取り入れているわけです。
普通なら違和感が出てしまいそうですが、和牛の2人はその動作が「漫才師」然としていてうまかったので、コントではなく漫才に見えるんです。
このネタに限らず、和牛は漫才師としての見せ方や振る舞い方が天才的にうまいコンビでした。和牛がM-1で結果を残したことで、コントと漫才の垣根が取っ払われたんやと思っています。
そして、今ではコント師が漫才をやるのが当たり前になってきています。コント師の漫才が認められる流れを作ったのは、意外かもしれませんが、和牛の存在も大きかったんやないかと思います。
共闘型の漫才やコント師による漫才が評価されるようになってきたからといって、「しゃべくり」がダメになったかというと、全然そんなことはありません。漫才の一番の醍醐味は「ナマの人間の掛け合い」を見せるところやと思います。
ボールを息で吹いて浮き上がらせるパイプの形のおもちゃがありますよね?漫才の掛け合いは、いってみればあのボールをずっと落とさないで互いにパスし続けるようなものです。
一度落ちたら、そこから再び上げるのはめっちゃ難しい。だから、いかに一度も落とすことなくラリーを続けるか、徐々に盛り上げてピークに持っていくかが勝負です。
この「素の人間同士のしゃべくりで勝負できる」というのが、漫才の強みです。
コントでは、こういう面白味は出しづらい。場面も役柄もきっちり決まっていて、自分ではない人間を演じているので、ナマの人間そのものの掛け合いが見えづらくなるからです。
だけどなかには、策に溺れて、漫才の強みを生かし切れていないコンビもいます。こういうコンビは、互いに言い込めたり言い込められたりの掛け合いを、辛抱強く重ねていくということができていないと思うんです。