「全部嫌になった」角田光代、34年目の働き方改革

――源氏物語もまた、現代訳や漫画化、映像化などで、何度も形を変えて世に出されてきた作品の1つです。源氏が読み継がれてきた理由はどこにあるのでしょうか。

源氏物語の訳を通して私なりに結論付けたのは、「源氏物語が千年読み継がれたのは、紫式部の力による結果ではない」ということです。

本人は千年読み継がれるものを書こうと思っていなかっただろうし、千年という時間の感覚があったかすらわからない。ただ書いた。読み継いできたのはやっぱり読み手です。だから読み手によって、時代によって、解釈も違う。

そこは書き手がコントロールできるものではないし、書いたものは手放すしかないんだなと実感しました。

「フィクションの役割」とは

――デジタルも含めコンテンツが氾濫する中で、小説も昔ほどの影響力がなくなっています。フィクションを扱う小説家の未来はどうなると思いますか?

本はどんどん売れなくなっていくし、お休みする文芸誌なんかも出ている。本屋さんも激減して、そういうことを考えると、厳しい世界なんだろうと思います。

私自身、源氏物語を訳しているときに、どうして源氏物語ってこんなに読まれているのかな、どうして人は物語を読むのかなと、ずっと考えていました。そんな中で、源氏物語の中に出てくる「物語論」が目に留まりました。紫式部の考え方であろうものを、光源氏が語っている場面です。

源氏物語 1 (河出文庫 か 10-6)
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ある女性が、自分の数奇な運命に似た人はいるのだろうかと言って、絵巻物をずっと見ています。それに対して光源氏は「女性は本当に作りものが好きだね、わざわざ騙されるようなもんだよね」みたいなことを言う。

でも彼は、「そうはいったけど、本当に大切なこと、人間の営みを伝えるのは史実ではなく、物語だ」とも話す。今の説明は私の意訳ですが、その場面を読んで、ああ、もうこれが答えじゃないかと思いました。

人間がどうやって喜んだり苦しんだりして一生を終えていくのかは、歴史を勉強してもあまりわからない。それよりフィクションを読んだほうが、本当のことに触れられる。それが千年前に出された答えだったんだと、私は感じました。

源氏物語が今も読まれているのは、ある意味、その言葉が真実である証明なのかなと。であれば、小説やフィクションというものの未来はそんなに明るくないかもしれないけれど、時代が進んでも決してゼロになることはないだろうと思います。

前編:「千年古びない浮気描写」の妙を角田光代と語る