「エモい」「キモい」を文章で気軽に使う危うさ

その理由はやはり自分の感情だ。この文章を書いているとき、やはり青春18きっぷシーズンで、すぐにそういった剛の者に遭遇した。その様子を書いているときに「いかにも鉄オタといった感じの人が」と書いたと思う。そこでピタリと手が止まった。

嫌な感じがしたのだ。

「鉄オタといった感じの」この部分にものすごく嫌な感じがした。そこで自分の感情を紐解いてみた。なんで嫌な感じがするんだろうと丁寧に向き合ってみたわけだ。

世間では、いわゆる撮り鉄と言われる人があちこちで迷惑や騒動を起こしている時期でもあった。列車の撮影のために入ってはいけない場所に入り込んで列車を停めるなど、そういう事件が起こっていた。ネットを中心にそういった鉄オタたちへのヘイトが向かっていて、良いイメージを持っている人が少ない状況だった。

僕自身も鉄オタと言われればけっこう厄介な存在、という思考がなかったといえば?になる。鉄オタが悪いのではなく、鉄オタという単語に悪いイメージがついている、少なくとも僕の感情はそう判断したのだ。

「感情」が「文章」に変化していくのが怖かった

しかし、僕の記事を読んでもらったらわかると思うけど、僕が旅先で出会う鉄オタっぽい人は、親切であり、熱心であり、気さくで、尊敬に値する人々ばかりだった。迷惑な人なんていなかった。だから、そういう人を一緒くたに「鉄オタ」と表現することを僕の感情が拒否した。

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たかだか単語だが、それは僕の感情だ。それを無視して「鉄オタ」という表現を使い続けていると、それはいつか、そういう人たちを見下したり、バカにするような思想に、行動に、文章に変化していく、それが怖かったのだ。

そして、それは読んだ人も気分がいいものではないだろう。そういう思想はけっこう透けて見えるものだ。そんなものを読んでおもしろいと思ってくれる人もいないし、誰かの心を震わせることもない。だから僕は表現としてわかりにくく、適切でなくとも「剛の者」と表現する。そこにはリスペクトの意味が込められている。

この記事は、実際に多くの人に支持され、拡散された。素人が鉄道ネタを扱うことを嫌いがちな剛の者たちの多くも賞賛し、拡散してくれた。

こうしたひとつの単語だけとっても、どういう感情を自分が抱いたのか、それはなぜなのか、紐解いていくべきである。見過ごさないことだ。

それができるようになるには「キモい」だとか「エモい」だとか断絶の言葉なんか使っていられない。もっと丁寧に、自分の感情に向き合う訓練をしなければならないのだ。