映画を観ていると、「不良」が先生やまわりの人たちの支援を受け、実は頭がよかったことに世間――そして彼自身―が気づく……というシナリオがありませんか。
こうした映画は、主人公が自分の力をひどく誤解している――要は「頭がいいのにそれに気づいていない」という前提を観客が受け入れるかどうかにかかっています。ところが、たいていの人は自分も主人公と同じだとは思いません。
「私の場合は単純で、勉強ができないのは頭が悪いせいだから。映画みたいになったことなんてないよ。だって成績が悪いんだもん」
自信のなさは、学校の勉強がうまくいくかどうかに影響していきます。1つには、それによって失敗のとらえ方が変わること。
自分のことをデキる学習者だと思っている大学生は、試験で失敗しても、今回は勉強が十分でなかったんだろう、次はがんばっていい成績をとろうと考えます。一方、自分はこの大学にふさわしくないと思っているような学生は、成績を落とすと「やっぱりね……」と思ってしまうかもしれません。
自信は、将来の志望にも影響します。たとえば、看護師になるのが昔からの夢だという人が、自分は出来の悪い学生だと思い込んだために、看護学校の卒業は無理だと判断して他の職業を選ぶということもあるかもしれません。
「頭のよさは遺伝によってほぼ決まっており、後から変えることはまず不可能だ」と多くの人が思っています。かしこい人はがんばって勉強したからかしこいのではなく、いい遺伝子を持っているからかしこいのだと。
したがって、勉強に必死になるのは、自分があまりかしこくないからだということになります。ならば、勉強をがんばったのに試験に落ちたら、目も当てられなくなる……。
勉強したのに悪い成績を取ってしまったら、まずいこと(頭の悪さ)が暴かれてしまうから、「忙しすぎて試験勉強をやる時間がなかった!」という言い訳を用意するのです。
たしかに、頭のよさは遺伝で決まる部分もありますが、何をやるかによっても左右されます。頭のよさは改善できるのであり、だからこそ学習をするのです。「頭がよければ勉強する必要はない」も「試験に落ちたのはバカだから」も間違いです。
「たいていの人は批判によって救われるよりも、褒め言葉によってダメになるほうを選ぶ」と、アメリカの作家ノーマン・ヴィンセント・ピールも言っています。失敗したテストから自虐的な結論を導き出す人は、学校教育や頭の良さに対して、このような見方をしています。