小学生に友だちの数を尋ねると、たぶん曖昧(あいまい)な答えが返ってくる。100人と言うかもしれない。30人と答えるかもしれない。どっちにしても、彼らは自分の友だちの数を正確に数えることができない。というのも、小学生にとって、友だちは、自分の周囲にいる同年齢の子どもたちのほとんどすべてを含む概念で、言葉を交わしたことのない隣のクラスの児童であっても、互いに顔を見知っていれば友だちの数に算入しているかもしれないからだ。それほど彼らにとって、友だちの垣根は低い。
内気な子どもの場合、日常的に交際している子どもの数は、実際にはそんなに多くない。1人か2人ということもある。が、本人の意識の中では、友だちはずっと多い。ひとクラスが30人であるとするなら、おそらく、20人ぐらいまでは友だちだと思っている。
小学生にとっての「友だち」の定義は、現実に行き来のある相手に限られるわけではない。同じクラスにいて、なんとなく親しみを感じているだけでも、彼らにとっては友だちということになる。このことは、年齢の低い子どもにとっては、「自分が友だちの中にいる」ことがとりわけ重要だということを暗示している。もしかしたら、彼らにとって、「自分」というのは、単独で生きて動いている存在ではなくて、ある程度の数の同年輩の子どもたちの中にいて初めて機能する繊細な部品のようなものなのかもしれない。
何年か前、何かの席で、夢の話が出た。
「夢の中の映像に自分は映っているのか」
というのが、その時の主たる話題だった。
結論からいえば、普通、夢は、自分視点の映像として提供される。ということは、夢の中では、「自分」は、「カメラアイ」そのもので、だから、基本的に、被写体として撮影されることはない。ということは、夢の中の絵には、登場人物としての自分は出てこないことになる。
が、私を含めた何人かは、「子どもの時の自分」が映像として登場する場合があることを主張した。
そう。おっさんになってしまった現在の自分の姿を夢の中で見た記憶はないのだが、子どもの頃の自分は、時々自分の夢の中に出てきている気がする。これは、かなり不思議なことだ。が、本当の話なのだ。
私の場合、夢の中に登場する映像としての子どもである私は、意識として「本人」でもある。ともあれ、夢の中で、私は小学生の子どもに戻っており、そういう時、私は映像を伴った姿で、自分の意識の中に登場しているのである。
「それ、お前がどうかしてるだけだぞ」
という意見もあった。
そうなのかもしれない。
が、憶断(おくだん)すればだが、ある年齢までの子どもの自意識は、単独の人間としてではなくて、自分を取り巻く環境をまるごと一つのセットとして含んでいる。つまり、彼らは、「自分」という存在を、内側からではなくて、外側のカメラから見ている気分で暮らしているはずなのだ。
自他が未分化だといういい方はあんまりに乱暴かもしれない。が、人が子どもであるということは、「友だちに囲まれている環境」と「自分が存在している」ということが、ほぼ等価であるような一時期を指しているはずなのだ。