今の青学の選手たち、ひいては日本社会全体が「挫折不足」であると私は考えています。
そう言うと、「そんなことはない!」という声が選手たちから聞こえてきそうです。 たしかに、箱根駅伝で優勝を逃した、出走メンバーに選ばれなかった、目標タイムに届かない……そういった悩みは多かれ少なかれ選手みんなが抱えています。
ですが、私はそういったことは挫折のうちには入らないと考えています。 誤解のないように付け加えておけば、彼らの悩みは小さく、意味がないというのではありません。
一言でいえば、彼らは恵まれている。
スポーツの一流校になればなるほど、その内実は実業団やプロチームと大きく変わりません。監督やコーチがいて、トレーナーやマネージャーがいて、スカウトマンがいる。そうした専門家に支えられて、言うなればすでにレールは敷かれているのです。
そこまでお膳立てされた環境の中で上手くいかないといっても、そんなものは挫折ですらないのです。
そういう意味では、いわゆるスポーツエリートではない普通の部活としてスポーツをしている学生たちのほうが、はるかに挫折を経験しているかもしれません。
大学はモラトリアムなどと言われますが、彼ら彼女らの世代にとっては、さまざまな土地から来た人たちと集まって、異なる価値観の集合体の中で物事を進めていく初めての機会になります。
やる気がある人もいれば、ない人もいるはずです。活動資金を得るためにバイトをしたり、友人関係や恋愛関係でぶつかったりもするでしょう。
しかし、大学の強化部として集まった学生は競技に集中できるよう、整えられた環境で、限りなく純粋な空間で暮らすことになるのです。その結果、上手くいかないことを過度に恐れたり、自分以外の環境のせいにしたりしてしまう。それでは、自らの成長を得るための挫折や、本当の意味での成功を体験することはできません。
学生たちが真の挫折を知らずに社会に出てしまうとすれば、それは私たち大人の責任でもあります。 挫折経験が足りなくなっていることの原因は明白です。
それは、社会全体が失敗をさせない風潮にあることです。失敗をさせないためには、挑戦もさせない。挑戦をするにしても、できるだけ周りが経験則や知恵を授けて、失敗を最小限にとどめている。つまり、リスクヘッジばかりの人生を歩ませているということです。
その結果、若者は敷かれたレールの上を歩くことに慣れてしまうのです。
今、都心部に住む家庭では小学校から塾に通わせ、中学受験をさせることが多くなっていると聞きます。早い段階から優れた教育環境を与えて、いい大学、いい企業へ就職してほしい。できるだけ不安要素を除いた場所で、のびのびと好きなことに集中してほしい。そういう親心は理解できますが、果たしてその「安全地帯」は子どもたちにとって本当に良いことなのでしょうか?