哲学者の千葉雅也さんは『意味がない無意味』に収録されている2014年のエッセイで、彼が2007年から利用してきたツイッターの変容について、興味深い比喩で語っています。
もともとは思いついたアイデアをなんとなく口にし、相互にやり取りする中で修正を繰り返して作品に仕上げていく「アトリエ」であり「変身」の場がツイッターだったのに、そうした性格が消えていった。むしろ完成しきった自分の思想や政治的な立場をポジション・トークのように披露し、ぶつかり合うだけの硬直した空間になってしまったと。
SNSのおかげで、私たちはそれまで「見る」ことができなかった著名人や市井の人の内面を観察することが可能になったわけですが、それがおかしな方向に作用してはいないでしょうか。
人に「見せる」以上は完成形でなくてはダメで、途中で考えや立場を変えてはいけないんだとするプレッシャーが強まり、老熟はおろか「成長」や「成熟」といった概念さえ、成立しないSNSが生まれているように思います。
ひきこもり治療の専門家である斎藤環さんと議論すると、よく話題に出るのですが、青少年のいじめも、クラス内で定着していた本人のキャラを「変えよう」とした際にいちばんターゲットとして狙われるんだそうです。斎藤さんとはコロナ禍でも一度、Zoomで対談イベントを開きましたが、そのときに懸念されていたのは「SNSで大学デビュー」する近年の新入生の風潮についてでした。
2~3月にツイッターの検索窓に大学名を入れるとわかりますが、4月の入学に先んじて「#〇〇大学××学科」のように進学予定の専攻名を記入し、同じ学科に進む予定の人、友達になりましょう、と呼びかけるパターンが最近は多い(遠隔授業が導入されたコロナ禍では、そうした関係が在学生どうしにまで拡大しました)。
もちろんそれ自体が悪いわけではないのですが、ひとつ間違えると、キャンパスで実際に会う前から「この人はきっとこういう感じだろう」という風に、相手のキャラを決め打ちしてしまいがちです。
そうなるとリアルで会った後でも、本人が「あらかじめSNSで『つくっていた』キャラ」を演じ続けなくてはいけなくなったり、逆に「想像していたイケてるキャラと違いすぎて、イタい」と見なされた人が排除されてしまったりする。
バーチャルな世界で「視覚だけ」を通じて知りあってから、後にリアルで聴覚や触覚を用いて相手を把握するようになるという(SNS以前にはあまり一般的でなかった)順番には、そうした隠れたリスクがあります。
本来友情とは、対面の場で一緒に過ごすうちに「なんとなく、コイツとは気が合うな」「最初はダサいと思ってたけど、意外にいいやつじゃん」という形で育っていくものでしょう。触覚的な対面での接触がそうしたアイデンティティの生成を肯定する、よい意味での曖昧さを持っているのに対し、活字も含めた視覚情報にはむしろ、その人のイメージを固定化しがちな性質があります。
平成の半ばにインターネットを使った「出会い系」のサービスが登場した際、多くの人が忌避感を持ったのは、「視覚情報で先にイメージをつくる→後で(交際目的で)実際に会う」という順番が、当時は異様に感じられたからでしょう。しかし今日のSNS社会では、ある意味で誰もが「出会い系ユーザー」のように人間関係を営んでいるともいえます。