僕の場合、多くは「期待」の影響を受けていて、それが他者の行動によって「怒り」に変わっただけなのだという認識を持つようになりました。これにより、「相手が悪い」や「相手が変わらないと問題は解決しない」という思考停止の状態から、自分自身の問題として考え直せるようになり、思考がほぐれていったのです。
具体的なシーンに置き換えると、イベントの準備をしていて、事前に頼んでおいたものが、当日用意されていなかったとします。そのことを担当者に指摘したものの対応してもらえず、怒りを感じながらも諦めることに……。
ここで「担当者の能力に問題がある/相手のミスだ」で終わらせるのは簡単ですが、見方を変えれば、「勝手に期待をしておいて、それに応えてもらえなかったから怒っている」とも言えるでしょう。
僕は、期待とはある意味で「他者を都合よく動かそうとする、自分への甘え」だと思っています。自分に対する甘えを排除していくと、自分がやるべきこと・できることも明確になってきます。「相手に期待しない」と言うとまるで人を信じていないように聞こえますが、「信頼」と「期待」は別の感情です。
このようなシチュエーションに遭遇した場合、かつての僕は相手を責めるのではなく、どんな点に期待していたのかを伝えるようにしていました。今ではさらに認知そのものが変わり、「相手がちゃんと用意してくれるように、うまく頼める自分」に対して期待をしています。もしもそれができなかった場合でも、期待に応えられなかったのは相手ではなく僕自身なので、自分事として解決方法を模索することが自然とできるようになりました。
さらに別の視点から考えるならば、そもそも感じていたのは「怒り」ではなく、用意されていないことへの「驚き」と、要望を汲んでもらえない「悲しみ」から生まれた混合感情の「拒絶(失望)」である可能性も出てきます。
ちなみに「怒り」と「期待」の関係性は、恋愛でもトラブルのきっかけになりがちですね。自分が望んでいる行動を相手がしてくれるはず、察してくれるはずと期待しつつ、それが叶わなかったときに不機嫌になり、相手を責めてしまう……。「期待」と「怒り」が結びつくと「攻撃」になるので、相手に感情をぶつけやすい心理になっているとも言えそうです。もしあなたがパートナーから責められたのなら「自分に何を期待していたのだろう」と観察してみると、解決の糸口が見えるかもしれません。
このように【認知】は、さまざまな視点からアプローチを試みることが大切です。
入口は「怒り」でも、その背景にある「期待」の存在に気づき、さらに解像度を上げていくことで「期待とは、自分に対する甘えではないか?」「他者ではなく自分に期待すると何ができるか?」という新たな問いや視点が生まれます。ただこれはあくまで暫定解であり、問いに向き合うことでまた別の気づきがあるかもしれません。
まずは自覚しやすい基本感情を足掛かりにして、そこに紐づいている別の感情を丁寧に探っていくうちに、これまで表層化することのなかった感情や価値観を認知できるようになると思います。