「おっ、入ってたのか」
トイレのドアノブを回す音がした。扉越しに聞こえてきたのは、まるで独り言のような父親の声。これが3カ月ほど前のことだ。以来、同居している両親とは一切のコミュニケーションはない。ナツオさん(仮名、32歳)と家族との関係は“家庭内絶縁状態”といったところである。
ナツオさんの両親は自営業者。子どものころから「自分たちは年金を払っていないから、大人になったらお前が親の面倒をみるんだ」と言われ続けてきたという。これを「早く働け」という意味だと受け止めたナツオさんは、高校時代はアルバイトに明け暮れ、稼いだお金の半分を家計に入れた。その後、うつ病を発症。このため高校卒業後もどんな仕事に就いても長続きしない。ナツオさんは「この両親のもとに生まれさえしなければ、もっと自分らしい生活が、未来があったんじゃないかと思う」と訴える。
ナツオさんの半生とはどのようなものだったのか。
ナツオさんは自らが育った環境をこう振り返る。「小さいころから、いつも『うちはお金がない』と言われてきました。どこかに遊びに連れていってもらった思い出もない。食事も白米に卵焼きだけとかで贅沢なものを食べた記憶もありません」。
大人になったら両親を養わなくてはならない――。当初そのプレッシャーはどちらかというと兄に向けられていた。ところが、兄もまた高校生のときにうつ病を発症。以来、両親の“期待”はナツオさんに集中するようになったという。
両親は学校に行けない兄に対して面と向かって「ここまで育ててきたのに」「高校まで入れてあげたのに」と批判した。一方でナツオさんに対しては「うつ病なんて甘え。お前はああなるなよ。ちゃんとした人間は働くものなんだ」と一方的な価値観を押し付けてきた。
ナツオさんは子ども心に「高校は確実に入れる、学費の安いところを」と、当時定員割れだった公立の工業高校を選んだ。入学後は早速アルバイトを始めた。当初の目的は携帯電話を買うことだったが、両親の“洗脳”のせいで働くことが義務だと思い込んでいたこともあったという。案の定、ナツオさんがアルバイトを始めたことを知った両親からは「働くなら、家にもいくらか入れろ」と迫られた。
高校時代、毎月のアルバイト代は8万5000円ほど。ファミリーレストランやファストフード店で働いた。当時の最低賃金は時給800円台だったから、毎月の労働時間は優に100時間を超えていたと思われる。アルバイト収入のうち半分を携帯料金や交通費にあて、残りの半分を両親に渡した。
「平日は5時間、週末は8時間働いていました。高校時代はバイト以外のことをした記憶がありません。友達と話すのも昼休みだけでした」
働き詰めに働く中で、異変が起きたのは3年生になったとき。仕事に出かけようとすると、体が動かなくなった。
「(出勤時刻の)15分前には家を出なければと思っているのに、椅子に座ったきり動けないんです。そのうち10分前になって、そのときも自転車で行けばまだ間に合うと思ってる。なのに動けない。5分前になっても、少しくらいの遅刻なら謝れば大丈夫かなと考えてる。そのうちにバイト先から『どうして来ないんだ』という電話がかかってきて……」