「そう言ったでしょ!」。親はよく子どもにそう怒鳴る。部屋をきれいにしなさい、言ったでしょ。夜の10時までに家に帰りなさい、言ったでしょ。お皿を洗いなさい、言ったでしょ。スケートボードをするときはヘルメットをかぶらなくちゃ、そう言ったでしょ。
もしあなたが自分の子どもにそういうセリフを発しているなら、ふとしたとき、社員や部下にも同じような言葉を使っている可能性がある。それは、よくないことだ。自分の子どもに対してであっても、そういうセリフを口にするのは褒められたことではない。
スケートボードを例にとろう。私は南カリフォルニアのビーチのそばに住んでいる。スケートボードが非常に盛んな地域だ。スケートボードの妙技や曲芸は見るぶんには実にすばらしいのだが、やるほうには危険が大きい。いちばん危ないのは頭を路面に激しく打ちつけてしまうことだ。だから、ヘルメットをかぶるのはいい考えだ。
もしあなたがわが子に「ヘルメットをかぶりなさい。いつも言っているでしょう」と言ったら、子どもが言うことをきく確率はどれくらいだろうか?
もちろん、あなたがすぐそばにいて、子どもがきちんと言いつけを守っているかどうか見張っていたら、子どもはきっとヘルメットをかぶるだろう。だが、あと数年たって子どもが友達と連れ立ってスケートボードで遊ぶようになったら? そのときも子どもがあなたの言いつけを守る可能性はどのくらいだろうか?
子どもはほどなく気づくはずだ。ヘルメットは不快だ。ヘルメットは暑い。ヘルメットは鬱陶しい。そしてなにより、「ださい」。こうして子どもは親の目が届かなくなったらすぐに、頭からヘルメットを外すようになる。「言ったでしょ」は、親がそばにいなくなれば何の重みももたなくなるのだ。
だが、単に「言ったでしょ」と言うかわりに、なぜヘルメットをかぶってほしいのか、その理由を子どもに説明していたらどうだろう? ノーヘルでスケートボードをしていて転倒し、頭を打った場合の危険を説明していたら?
あるいは、スケートボードで転倒して頭を打ち、脳に重い障害を負った結果、歩くことも話すことも食べることもできず、病院でずっと寝たきりになっている子どものところに連れていったら?
あるいは、スケートボードの転倒で頭を強打したのがもとで、10歳か11歳で命を落とした少年の墓に連れていったら? そうしたらさすがに子どももこたえるのではないだろうか?
そのとおりだ。あなたの子どもはきっとヘルメットをかぶるようになる。のみならず、友人にヘルメットをかぶるよう進言さえするようになるかもしれない。2つの差は「なぜ」の説明の有無──それだけだ。なぜ、そうせよと言っているのか、なぜそれが重要なのかを説明するか、しないかだ。