今年5月発売の『大谷翔平の社会学』(扶桑社新書)の中でも、著者でフリーライターの内野宗治氏がメジャーを取材していた当時、「外国人や人種的マイノリティの選手も多いMLBのクラブハウス日本人選手と彼らを取り巻く日本人記者たちは『浮いている』ように見えた。英語やスペイン語が飛び交うクラブハウスで、そこのみ『日本人村』が運営されているように感じた」と振り返る。
例外的な記者もいるとした上でだが、「日本人記者の多くは、日本人以外の選手や記者たちとはあまり交わらない。交わったとしても、多くの場合は『大谷についてどう思うか』といった具合に、日本人選手についてのコメントを引き出すためだ。(中略)日本のスポーツ紙や通信社から派遣されている日本人記者にとって、なすべき日々の仕事は『日本人選手の情報を確実に得る』こと」とし、「そういう『空気』が日本人記者たちの間で漂っているように感じられた」と指摘する。
実際、日本メディアが追いかけるのは大谷選手に特化した情報に比重が置かれる。エンゼルス時代に大谷選手のプレーの詳細を報じた後、申し訳ない程度に試合結果に触れる「なお、エンゼルスは試合に敗れた」の略語として「なおエ」がネットスラングとして流行した。
新聞社の記者として米大リーグを取材した経験もある筆者にも、この手の取材手法に関する批判は耳の痛い話ではあるが、的を射ているのも事実だ。日本メディアも監督などの「囲み取材」では、米メディアの取材の流れを汲み、終盤に日本人選手に関する質問をするなどの配慮はしている。また、同僚の選手たちが大谷選手が節目の記録を達成したり、勝利を貢献した場合にどう思っているかということは、大谷選手を報じる上では重要な要素でもある。
ただ、日本メディア(記者)の数はとても多く、それぞれが個別に聞けば、同僚の選手は何十回も同じ質問に答えることになる。このことで、日本メディアを疎ましく思う選手がいてもおかしくはないだろう。
内野氏も「僕らが今日、大谷の活躍に一喜一憂できるのは、日本のメディア関係者が時に『岩によじ登って』でも大谷の一挙手一投足を追いかけ、その詳細を日々伝えてくれるからだ。メディアが伝える大谷の姿を見ていると、彼の存在が『日本人』の国際的な価値を高めてくれているようにさえ感じる」と評価する一方、「しかし、その舞台裏ではもしかすると、大谷を取り巻く日本のマスコミ関係者が白い目で見られているのかもしれない。最悪の場合、彼らの身勝手な行動が『日本人』の国際的な評価を貶めてさえいるかもしれない」と廣部氏と同様に懸念する。
もちろん、読者の関心の高いニュースを届けることは、メディアの大事な使命である。特に新聞などの活字メディアは従来、一つのプレーの裏で、選手がどのような努力を積み重ねてきたか、恩師や家族、同僚との絆の存在など、映像からは見てとれない「エピソード」を紹介することで紙面価値を高めてきた。こうしたエピソードを書くために、「ネタは足で稼げ」という格言がメディアの中には存在する。
一方、内野氏は前述の著書の中で「マスメディアのスポーツ報道はたいていが、アスリートの『見えざる苦労』や『知られざる素顔』を描いたヒューマンドラマに仕上がるのがお決まりのパターンだ。日本球界を長年取材してきた米国人作家、ロバート・ホワイティングが日本のスポーツ報道を『チアリーダー』と表現したゆえんである」と切り込む。
時代は刻一刻と変遷する中で、メディアの報道姿勢も変化を求められているのかもしれない。大谷選手に関しては、スタイリッシュな容姿や、映像からも伝わる圧倒的なパワーやスピードが、活字の表現領域を超越している実情もある。メディアは、表現そのものを放棄し、SNS上のファンの感想や声を紹介してお茶を濁すネット記事も散見されるようになってきた。
打開策はあるだろうか。一例にデータジャーナリズムがあるだろう。これは、大量のオープンデータを解析し、可視化することで、埋もれていたニュースの価値を掘り起こす調査報道の一つである。
スポーツは蓄積された過去の記録との比較から、パフォーマンスの価値を見出すことが基本線にあり、親和性は高い。ただ、この手の記事には手間や時間を要する上、原稿そのものも長くなり、ネット上では「読まれにくい」記事に分類されるだろう。情報の大量消費の時代にはそぐわない面もあるが、だからこそ、記事の価値も高くなる可能性を秘める。
日本人の存在感を国際的に高め、メジャー史にも名を刻む稀代のスーパースターである大谷選手が現役時代にどう報じられたか。記事や映像は、資料として後世にまで残ることは間違いない。それゆえに、日本メディアの姿勢も厳しく問われていいのではないだろうか。