今回は、人を納得させるためには「正義」を掲げなくてはいけないという、古代ギリシア時代から受け継がれてきた、説得の技術についてお話ししましょう。
言い分に正義がある方が強い、というのは誰もがなんとなく感覚的に分かることですが、一つ例で見てみましょう。正義が実際にどう使われているのか?
例えば、ビジネスの世界では、CSR(社会的責任)という考え方が常識になっています。
念のために説明しておくと、CSRとは「企業は利潤追求だけではダメ。社会のためにもなっていなければいい企業とは言えない」といった考え方のこと。
本質的には利潤を追求すればいいはずの企業活動ですら、そこに正義がなければ、周囲の支持も賛同も得られないのが現実なのです。
そして、もちろん、これは我々個人の日々のやり取りにおいても同様。
上司に斬新な提案をするのでも、部下に難しい指示を出すのでも、友人との約束をドタキャンするのでも、親族と財産分与を話しあうのでも、そこに正義があるかないかで結果は大きく変わります。
と、ここまで正義という言葉を説明なしに使ってきました。
正義という言葉は、ある意味では難解で抽象的すぎるかもしれません。実際、この正義は突き詰めれば、いくらでも考える材料が出てくるような深いものではあります。ただし、交渉の場面に限って言えば、そんな難しく考えなくてもいいでしょう。
ここはサクッと「私利私欲でやってるわけじゃない」「なにか大事なもののためにやってるんだ」というスタンスをイメージしておけば十分です。
正義を掲げることには、次の二つのメリットがあります。
1聞き手が支持しやすい
2失敗に終わっても評判が下がりにくい
まずは1について。
先ほども書きましたが、正義を打ち出した意見は、内容に関係なく聞き手を賛成に傾けます。
多少意地の悪い言い方にはなりますが、「弱者のためになる」「子供たちのためになる」「よりよい未来のためになる」「平和のためになる」「社会のためになる」などなど、こうした正義の意見に対しては聞き手の側も、自分がいい人間になったようで安心して説得されるのです。
身近な例で考えると、商品の宣伝なども消費者に対する「買ってください」という説得ですが、この際「この商品を買うと、売り上げから△△に○○円の寄付がされます」という売り方がされているのはよく目にするでしょう。
これなどは代表的な、正義を打ち出す説得ですし、思わずそれに説得されて買った経験がある方も多いのではないでしょうか?(もちろん、それが悪いというわけではありません)
ぶっちゃけて言えば、他企業へのプレゼンでも、社内の会議でも、あるいは友達とのちょっとした話し合いでもそうですが、「会社のため」「みんなのため」「社会のため」といった正義の衣で自分の言い分をくるめば、成功する確率は飛躍的に高くなります。
仮に、本当は私利私欲や個人の都合による意見であっても、その部分を見せてはいけません。聞き手は、話し手の意見に賛同するにも、賛同するだけの大義名分を欲するものなのです。
歴史を振り返ってみても、大計画・大陰謀をたくらむ人物が協力者や支持者を得るために利用してきたのが、この正義でした。
例えば、古代ローマ最大の事件の一つとして、カッシウスらによる時の権力者カエサルの暗殺があります(「ブルートゥス、お前もか」っていうアレですね)。
実のところ、首謀者カッシウスがカエサルを憎んだのは全く個人的な理由で、ある催しのために苦労して入手した多数のライオンをカエサルに没収されたことが原因だとも言われています。
つまり、まったく個人的な好き嫌いでカエサルを暗殺しようとしていたのですが、それにもかかわらず、彼はブルートゥスという人物に共犯を持ちかける際、次のような論法を用いました。
暴君を倒せ。カエサルは王位をうかがい、外国の娼婦クレオパトラを女王に、私生児カエサリオンを太子に立てようとしているのだ。……カエサル自身とその名誉のためにも、かれがローマの尊厳と自由を一挙に破壊する暴挙に出る前に、いっそ亡き者にしたほうがよくはなかろうか。(I・モンタネッリ『ローマの歴史』より)
つまり、「私の計画するカエサル暗殺は、決して個人的な恨みなどではなく、ローマのための正義と道徳の行為なのだ」というわけです。結果、カッシウスの語る正義にほだされたブルートゥスは、カエサル暗殺に協力することになります。
繰り返しになりますが、どんな提案や意見も聞き手に納得してもらいたかったら、正義の衣でくるまなくてはなりません。正義さえあれば、聞き手も安心して賛同できるのです。それが陰謀なら、なおさらでしょう。