しかし、私が一つ気になることは、再会する場所です。現実として、一旦出発してその場を離れると、出発した場所に戻り、見送ってくれた方との再会は当たり前ではなくなってしまいます。
普段、私たちの多くは当然のように出発した場所に帰ってきて、また見送ってくれた人と会えると思って生活をしていますが、これはまったく当たり前ではないのです。どこで何が起こるかわからないのがこの世の常です。突然の事故や事件に巻き込まれるなど、無事に帰ってくることができる保証はどこにもありません。意識せずとも有難いことに、これまで偶然にも何度も出て行った場所に戻ってくることができているが故に、自分はこの現実には当てはまらないと錯覚しているのです。本当は誰もが不安定な現実の中で生活しているのです。だからこそ、「いってきます」には再会の願いが込められているのです。
しかし、このようなことを考えはじめると、不安や心配にはきりがありません。極端な話、どこへも行けなくなってしまいます。ちなみに私には、そんな動揺する気持ちを落ち着かせてくれる言葉があります。それは「倶会一処(くえいっしょ)」という教えです。
これは、仏教用語の一つで、「倶(とも)に一つの処(ところ)で会う」、再会するという意味の言葉です。この「一つの処(場所)」とは、「浄土」(じょうど)を指します。通常、「浄土」とは亡くなった後に往(ゆ)く世界だと認識されています。正確には、煩悩だらけの身であるが故に、この現世では仏(目覚めた人/悟った人)になれなかった方が、亡くなった後に、仏となるのに最適な環境である阿弥陀仏の住む世界を「浄土」といいます。この「浄土」での再会の願いが込められた言葉が、「倶会一処」なのです。
これは、私が亡くなった後に往くことができ、また亡き大切な方々と再会できる場所があるという、心の拠りどころとなる世界観です。どこへ行こうが、最終的には必ずまた会える場所がある。私は「いってきます」という言葉は、そんな世界観に支えられていると思うのです。
ひょっとしたら「いってきます」という言葉は、今一緒にいる方や時間の大切さをささやいているのかもしれません。しっかりとそのささやきに耳を傾けて生活したいものです。