そして、最も重要なことは、「怒りっぽくなった」という自分の変化に気がつき、それを認めることです。気がつかなければ悩むこともないところを、見逃すことなく目を向けていること自体が希有(けう)なことなのです。
人は自分の醜(みにく)い部分からは目を逸らしたくなるものです。しかし、目を逸らさずに悔い改めようとするからこそ、「悩み」が生まれるのです。
どうにかしたいのだけど、どうにもできない自分に申し訳なさを感じる。
その結果、余計にストレスが溜まりイライラが募ります。
ですが、これほど自分と正直に向き合えることは、実は非常に尊いことなのです。別の見方をすると、誰にも迷惑をかけず、周りの人々を大切にしたいという気持ちから生まれる優しさでもあります。
この気持ちが無意識にはたらいているのです。
仏教には、「愚者になりて往生す」という言葉があります。
これは浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)が記された言葉です。この一文の中の「愚者」というのは、一般的に使われるような「頭の働きがにぶい者」「教養がない者」というような意味ではありません。これは、「人間の本性を認めさらけ出す者」を意味します。
「常に自己中心的に考えてしまう自分」「状況次第では何をしでかすかわからない自分」、これらをすべて認めるのは苦難の技です。
だからこそ、「愚者」として自分を受け止めることのできる方こそが尊く、大きな悟りの世界へと導かれていくという教えが、「愚者になりて往生す」という言葉の意味なのです。
「最近、怒りっぽい気がする」と自分の変化に気が付き、それを認めることができるのは、まさに「愚者」の姿なのです。
なかなか周りには、そのような内情を理解して貰えないかもしれませんが、仏さまはきちんと受け止めてくれます。
阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏さまは、真の親心を持つと言われています。親心からすれば、自分の問題を解決しようとして、一生懸命もがく我が子の姿はかわいくて仕方ないのです。
例えば、小さな子どもが覚えたての手で一生懸命に洋服のボタンを留めようとしているとします。しかし、なかなか上手くいかず、何度も試みますが、しまいには泣き出してしまう場面を想像してみてください。
実の親でなくても、このような幼い子どもの姿を見れば抱きしめて、代わりにボタンを留めてあげたくなるはずです。これが仏の心というものです。
「怒りっぽい自分」をありのまま認めて、受け止めることはとても大切なことです。そうすることで、どうにかしようと自ずと言動や行動が変化していくのです。
ぜひ今後「怒り」を感じたときは、「自分自身と対話する時間」だと思って過ごされてみて下さい。
次回に続く。