私は月に一度、東京から山口県にある実家に、仕事を手伝うために帰省する生活をしています。正直、毎月の長距離移動は体力的にも金銭的にも辛いのですが、それでもいくつか楽しみもあります。例えば、愛犬と近所を散歩できたり、日頃の雑多な大都会の生活から自然に囲まれた静かな場所に身を置くというギャップに心地よさを感じ、リフレッシュできることも楽しみの一つです。
しかし、いくつかある楽しみの中でも、一番楽しみにしていることがあります。それは、父との晩酌です。このようなことを友人に言うと、親子二人でお酒を飲むことを不思議がられることがありますが、私は父と一緒にお酒を飲むのが好きです。
私には、歳の離れた姉が二人おり、末っ子の長男として生まれました。両親にとっては、少し遅めの子どもだったこともあり、私が二十歳になりお酒を飲めるようになった頃には、父は還暦を迎えていました。父からしてみれば、首を長くして一緒に晩酌をすることを待ち望んでいたのではないかと思います。
実は幼い頃、私はあまり父と接する機会がありませんでした。父は、平日は早朝から夜遅くまでサラリーマンとして働き、週末は家業であるお寺の仕事をするという生活をしており、私が起きている時間帯に家にいることはほんどありませんでした。そんな事情もあり、幼い頃の私は父を「父親」とはあまり認識しておらず、どちらかというと大人の男の人が家にいるというくらいにしか思っていませんでした。
思春期の頃、いろいろと悩むこともあり、本来ならば「父親」に相談すればよいこともできずにいたことを思い出します。しかし、よく考えてみると、今ではそんな父と一緒に盃を交わすことが大好きな自分が不思議です。その理由に思いを巡らせてみると、父のことがよく分かるようになったからだということに気が付きました。
初めて一緒にお酒を二人で飲んだときの父のニヤニヤした嬉しそうな顔は、今でも忘れません。そのとき、「どうしてこんなに嬉しそうな顔をするのだろうか?」と不思議でした。 しかし、日頃は表情が固く、ニヤニヤすることなど滅多にない父がニヤニヤしているのがおかしく、その顔を見たいがために一緒に飲みはじめたのがきっかけでした。
すると、次第に父の口からいろいろな話を聞けるようになりました。例えば、今だから言える笑い話、苦労話、失敗談、母への愚痴など、父の「本音」のような想いに触れるようになったのです。そして私自身、父のことを誤解していたことが分かったり、今だから分かる父の気持ちなどが自分に流れ込んでくるような感覚を覚えるようになりました。家族を想い守り抜いてきた姿や、サラリーマンとの二足の草鞋(わらじ)で家業を引き継いできた想いなどに触れたときは、涙が出そうになることもあります。
私もいまや一人の娘を持つの父です。今だから分かる父の気持ちに触れ、これからどのように人生を歩んでいくべきなのかを考えさせられます。父と盃を交わすことは、私とってお互いの「想いを酌み交わす」ことを意味するのです。
しかし、最近では父もお酒を飲む量が随分と減りました。昔は、「この人は一体どれくらい飲むのだろうか」と呆れたこともありましたが、だんだん飲む量が同じになり、今日では私の飲む量のほうが多くなりました。そうすると「あとどれくらい父と一緒にお酒を酌み交わす幸せな時間を過ごすことができるのかな」と考えてしまい、寂しくもあります。