合掌は単純に動作だけを英語にすれば、「put one’s hands together」(手と手を一緒にする)「put one’s the palm of hands together」(掌と掌を一緒にする)「pressing one's hands together in prayer」(手と手を押し合わせながら拝む) というふうになりますが、これでは動作の中に浸透する日本独自の合掌の意味はまったく伝わりません。しかし、日本独自の合掌にはどのような意味があるのでしょうか。このことを深く考えた方は少ないのではないでしょうか。
私は、インド元来の仏さまや菩薩さまを拝む習慣に、神仏などの目には見えない力やはたらきへの畏敬の念が加わり、発展したものが日本独自の合掌だと思っています。
では、畏敬の念とは何かというと、それは「すべては当たり前」「生きている」という自己の驕(おご)りの反省です。本来の私たちの姿は、すべては当たり前ではなく、目には見えないはたらきかけにより、生かされているのです。
ここに「申し訳なさ」「感謝」「尊さ」の思いが湧き起こり、これらの思いが合掌となって体現されているのです。私たちの日常生活の中で手を合わせる場面を想像してみると、どの場合でもこれらの思いがあてはまるのではないでしょうか。
このような意味では、合掌自体は手を合わせる動作ですが、その深意を踏まえると「Embodiment of gratitude for invisible supporting working.」(目には見えないはたらきへの感謝の体現)と英訳できるのかもしれません。この感謝の体現が習慣化している日本は本当に優しい精神文化の持ち主だと思います。
次に、私の友人からの二つ目の質問である「なぜ掌を合わせながら仏壇に話しかけ、亡き人と話すことができるのか」ということですが、これはまだ明確になっていません。仏壇の前に合掌して座って語りかけるという情景は、家に仏壇がある家庭で育った方であれば、だいたいの方がなんとなく分かるのではないでしょうか。では、一体何がこの情景を作り出しているのでしょうか。
この情景における合掌は、主に亡き人を偲(しの)ぶ日本人の思いの体現だと思います。これは仏壇だけではなく、お墓参りも一緒です。お仏壇やお墓を目の前にして手を合わせない人はいません。これは、日本の亡き人を偲ぶ礼法です。日本にはモノを擬人化する習慣があります。例えば、「大根さん」、「カミナリさん」、「机さん」などとモノに「さん」を付けて呼ぶことで、尊敬の念や親近感を持とうとします。この延長で、多くの方々が仏壇に安置されている仏像、位牌、または仏壇そのものを亡き人と重ね、「仏さん」「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼んでは大事にしています。
実は、亡き人を仏として考えるのは、日本独自の発想なのです。よく成仏と言いますが、この「仏」とは、「悟った者」「目覚めた者」の意味で、元来「亡くなった人」を意味するものではありませんでした。しかし、亡き人を尊ぶ日本の土着精神文化が仏教と融合し、亡き人を仏という尊い存在とすることで、尊い気持ちを持って亡き人を偲び、悲しい気持ちを癒すという習慣が生まれたのです。
しかし、実際に仏壇に合掌して語りかけている時、本当に亡き人と会話しているわけではありません。実は、これは亡き人を偲びつつ、自分自身を振り返っているのです。人は、忙しい日常生活では、自分の初心や足元を忘れがちになり、時として一時的な感情に任せて謝った判断をしてしまいがちです。そんな時、仏壇に手を合わせることで、亡き人の生前の教えや思い出を噛みしめ、自己の反省をしたり、冷静な自分を取り戻すのです。この場合だと、合掌は「Reflection of oneself through the deceased.」(亡き人を通した自己内省)となるでしょう。
ちょうどもうすぐお盆がやってきます。なかには田舎へ帰省したり、家族が集まる機会を持つ方も多いと思います。もしご自宅の仏壇に手を合わせたり、お墓参りをする機会があれば、合掌の心を踏まえたうえで、今の自分自身と向き合ってみては如何でしょうか?