連日の雨が止み、両手を空に突き出して思いっきり背伸びをしたくなる清々しい早朝、通い慣れているいつもの通勤路を歩いていると、きれいに咲くマリーゴールドにふと目が止まりました。色鮮やかに咲くマリーゴールドに心を奪われ、私は気がつくと花壇の前で立ち止まっていました。
そのマリーゴールドは、路地に並ぶビルの隙間に作られた簡素な花壇に植えられていました。そこは普段、なかなか人には気づかれない場所です。実際、私は何年もその場所を通っていたにもかかわらず、そこに花壇があることに気がついたのは、これが初めてでした。
しかし、私が心奪われたのは、実はマリーゴールドそのものの美しさではなく、その場所で凛と咲くマリーゴールドのたたずまいでした。自分の存在をアピールするような「我」を放つことはなく、薄暗いひっそりとした雰囲気の中にありながらも、しっかりと咲いているマリーゴールドに、私はあること学び、元気をもらいました。それは「どんな場所でも、その場所で自分らしくあってよい」ということでした。
今日、私たち人間は、他者からの目を気にしては余計な心配を募らせ、他者と比較してはトゲトゲしい競争心を駆り立て、終わりのない「満足の追いかけっこ」に苦しむ傾向にあります。結果的に本当に自分の好きなことや言いたいことを主張できず、ストレスに満ちた生活をせざるを得なくなってしまっています。
例えば、最近はインターネットを通じて瞬時に大量の情報が手に入ります。おかげで世界中の知識を即座に手に入れることができるようになりました。私もこのテクノロジノーの進化の恩恵あずかっています。しかし、そこにはネガティブな部分もあります。それは、多すぎる情報に自身が振り回され、物ごとに対して「何が正しくて何が誤っているのか」が分からなくなってしまうことです。
一つの物ごとに対して、多角的な視点からの情報を集めることは大切なことですが、本来比較参考にするべき情報を判断のすべて(結論)だと思い込み、自分で物ごとを実際に見て考える習慣が薄れ、自己判断能力が衰えている方も多いように思います。結果的に、多すぎる情報を消化できず、何を信じればよいのか混乱している方も多いのだと思います。
また、友人や同僚をはじめ、周りの人々の資産やステータスと自分を比較し、どうしても自分が劣っていることが受け入れ難く、見栄を張って高価な物や不必要な物を購入する方もいます。これだけならまだ自分の問題で済むのですが、なかには妬みの心をもち、ありもしない情報を発信したり嫌がらせをすることで、他者の足を引っ張ろうとする方もいます。これは、負の連鎖を引き起こす苦しみの基です。
今挙げた二つの例をよく考えてみると、これらは自分で自分の首を絞めているということがわかります。本来苦しまなくてもよいことで苦しんでいるのが、私たちの姿なのではないでしょうか。本当に心を落ち着かせ、改めてそんな自分の姿を見つめてみると、実はかわいらしくて「クスッ」と笑ってしまいませんか?