「相手が存在して、自分が存在する」という考え方は、「共生」(支えられて、共に生かされているという意味)の意識を生み、同時に自ずと周りに対して謙虚な姿勢や優しい気持ちを生みます。しかし、「自分がいて、相手がいる」という考え方は自己中心的な意識を助長し、威張った姿勢や冷たい気持ちを生みます。
この後者の考え方が強いと、どんなに自分が「気が利く」ことをしたと思っても、結果的には「気が利く」行動にはなりません。最悪の場合、相手の気分を損ねてしまうこともあります。
いい例が、あからさまなゴマすりのような行動を取る方です。端からみれば、それがあまり気持ちのいいものではないことは一目瞭然ですが、やっている当の本人は「気が利く」行為だと思い込んでおり、それを疑うことはありません。なぜならば、「自分がいて、相手がいる」と考えるが故、「やってあげる」という横柄(おうへい)な思いが強いからです。その思いは、行動、そのタイミングやスピード、その場の雰囲気など、すべてに反映されます。これでは「気が利く」ではなく、「気の押し付け」となってしまうのではないでしょうか。
私は「気が利く」と言われる方に共通することとして、「相手が存在して、自分が存在する」という考え方があると思います。そして、この考え方を支えるのが、「自分という幻から脱却」です。
そもそも「自分」というものはありません。目を閉じて、心を落ち着かせ、そのまま「自分」というもが何処にいるか指を指してみて下さい。おそらく、だれも「自分」を指させる方などいないと思います。
実は、「自分」というのは言葉の響きだけなのです。この世の中には、何一つとして、独立して存在しているものはありません。みんな繋がりあって形成され存在しています。その繋がりで形成されている一つのものを、私たちは仮に「自分」と読んでいるのです。この物事の捉え方を、仏教では「縁起」(えんぎ)といいます。私は、「気が利く」という言葉の根底には、この「縁起」の考え方から生まれる「共生」の意識が流れ、私たちを自然と突き動かすことを意味していると思っています。
そして、「気が利く」の「気」とは、「注意」「意識」ではなく、「優しさ」「思いやり」が当てはまると思います。また、「利く」とは「働きが現れること」「発揮すること」を意味します。これらを踏まえると、「気が利く」は英語で「to embody the gentle heart in terms of realization of mutually sustaining life」と説明できるのではないかと思いますが、長文になってしまいます。
改めて、短い日本語の言葉の中に凝縮された深い言葉の意味を感じます。