「無意識化・固定化した上下関係」がもたらす問題は、ただパワハラの温床になっているというだけではありません。より根本的な問題は、その組織の中にいる人すべての「能力」を損なってしまうことにあります。
なぜ、固定化した上下関係が、人の能力を奪うのか。それは、上下関係が無意識化・固定化した職場においては、「自分より上の人の言うことに対して従順に従う」ということが、もっとも合理的な振る舞いとなるからです。
「逆らわずに従う」ということは、言い換えれば「自分で考えない」ということです。これでは、その人の能力が抑圧されるのは当然のことです。そして、部下が自由に発想し、発言しない「イエスマン」だらけの職場では、当然、上司の能力も発揮されなくなります。
あの電車の中でのあまりにも日常的な会話から、「クリエイティブな何か」が生まれる可能性を、私個人はほとんど感じ取ることはできませんでした。あの場面でのあの会話の中では、上司は自分の話が否定されるなんて微塵も予測していないし、部下は部下で、上司に言ってもいいことと、言ってはいけないことの境界線ばかりを意識している。これでは、新しい発想が生まれる道理がありません。
こういう話をすると、少々私の言葉が過ぎてしまっているようにも思います。また、こういう指摘をすることはよくないのではないかという気持ちもあります。しかしながら、そういう観点をあえて掘り返して検討していかなければ、日本社会における人間の能力を阻む見えない壁をあぶり出すことはできないのではないかと思っています。
自分の頭で考えず、ただ従ってばかりいると、人間の能力は必ず劣化していきます。そして、さらに恐ろしいのは、「自分の頭で考えずに人の言うことに従う」という行動様式を繰り返していくと、だんだんと「自分は無能だ」という自己認知が強化されていくことです。つまり、自分の頭で考えないことで、人の自己肯定感は低下するのです。
「自己実現」という言葉があります。一流企業と呼ばれる会社に入ったり、仕事で成果を上げることが自己実現だと思っている人もいますが、それはたしかに「社会的な自己実現」ではあっても、心理学的に見れば、自己実現そのものでは無いのです。この微妙なズレがボディブローのようにその人の人生に効き始めるということです。
心理的な意味での「自己実現」の定義は簡単です。それは「自分の能力を出し切る」ということです。自分の持っている力、自分の発想を出し切っていくことさえできれば、結果がどうあれ、自己肯定感は高まります。
しかし、上下関係が固定化した環境にいると、自分の能力を出し切ることができません。その結果、(それなりに成果を出しているにも関わらず)どんどん自己評価は低下していかざるを得ないのです。
実際、自己評価が低くて悩んでいる方の中には、少なからず、高学歴で、世間で一流と言われる企業にお勤めの方が少なくありません。それは結局、縦の関係性の中で、自分で判断する機会を奪われたことによる、自己評価の低下なのです。
最近、勤めていた会社を辞めた知人の女性から、こんなことを聞きました。辞めてから数ヶ月して、元の会社の社員が集まる飲み会に誘われたので参加してみたところ、ヘトヘトになったのだと言うのです。なぜかというと、飲み会に参加した2時間の間、みんなが、その場にいない上司や同僚の愚痴ばかりを言っていたからだとのことでした。
何より興味深いことには、彼女がよくよく思い起こしてみると、その会社の飲み会はいつもそんなふうだったけれど、辞めるまではそんなことが気になったことは一度もなかった、というところでした。辞めてはじめて、会社の飲み会が「愚痴合戦」だったことに気がついた、というのです。
パワハラの本体は、会社の文化にあります。ですから、その職場の「パワハラ危険度」を測りたければ、その会社の「飲み会」に出るのが、一番の早道です。なぜなら、飲み会でその場にいない上司の愚痴をみんなが口にする職場は、それだけ、社内の上下関係が固定化している、抑圧的な職場だと考えられるからです。
上下関係が固定化している組織にいる人は、皆一様に、自己評価が低く、表情が暗くなって、心身の調子を崩している人も少なくありません。そうした職場は、パワハラの危険性が高いことはもちろん、働く人の能力を引き出す力も弱い職場だと判断して、間違いないでしょう。
もちろん、会社というのは組織なので、「上下関係」をゼロにしてしまうことは不可能です。大切なことは、その上下関係に、何かの「風穴」を開ける、ということだと私は思います。では、どういう形で固定化した上下関係に風穴を開ければいいのか?
その辺りはまた、項を改めて、考えてみたいと思います。
次回に続く