仕事をしたことがある人ならば、誰しも「一生で最も恐ろしかった仕事相手」というのがいることだろう。
もしかしたらその人と接点がある最中は、その人に対して恨み言を言いたくなったかもしれないし、なんとか離れられるように祈ることもあるかもしれない。
今回は根性論的なものになってしまうかもしれないが、そうした存在がいかにありがたかったか、という話をする。
私が広告会社・博報堂の新入社員として最初についた上司は優秀ではあったものの、かなりちゃらんぽらん、かつ自身の人生を楽しくすることを重視するような性格で、「おい、外でやる打ち合わせをする時は、16時にしろ。15時にしてはダメだ」などと言った。
その理由は、「15時に打ち合わせを入れたら、17時30分の定時に会社に戻らなくてはいけない。16時にしておけば、17時30分に会社に電話して『今日は直帰します』と言えるから、そのまま飲みに行ける」といったものだった。
こうしたテクに私は深く感銘を受けたのだが、わずか7ヶ月ほどで私は異動になった。元々いた部署は、ベテランがいつつも、新人が一旦入る研究職的な部署であり、ある程度の時間が経ったら現場に異動することになっていたのだ。
新部署で直属の上司になったのがA氏だった。
A氏の年齢は私とひとまわりほど違う。30代半ばだったが、見るからに「できる人」オーラがプンプン漂っていた。
外資系コンサルティング会社にいそうな雰囲気で、喋る時もとにかく理詰めで喋るタイプだった。打ち合わせになると、当時(1997年)においてはまだそこまで全員が理解しているともいえないインターネットに関する深い知識を語っていた。
A氏は、某ビール会社から相当な信頼を得ていた。
同氏からは「日経テレコン」という日経新聞社が提供する記事検索サービスで抽出されたビール関連の記事を印刷されたものを渡され、「これを全部読んでおいてくれ」と言われた。
続いて言われたのが、「記者の主観で書いている表現=『枕詞』を抽出してもらえないか?」ということだ。
この「枕詞」とは「好調」「堅調」「由々しき事態」「逆風が吹いている」「頓挫」「停滞」「躍進」など、事実やデータを基に記者が記事を作成するにあたって判断した“主観的”な言葉を指す。何百枚もあるA4の紙を渡され、私はこの「枕詞」をひたすら抽出し、エクセルに入力していた。
この作業についてはA氏が「論調分析」をするにあたっての基礎的データになる、と言われた。
私はA氏にこうした枕詞を報告し、「で、お前はこの枕詞を好意的だと思うか? ニュートラルか? 或いは否定的か?」などと聞かれた。明確な答えはできなかったものの、毎度A氏は「なるほど」と言ってくれた。
だが、広告代理店の下っ端社員は他にも様々な作業をするため、A氏から与えられたこの作業も合わせると、あまりにも時間がかかり過ぎた。私は頻繁に会社に泊まり(当時はそういった雰囲気。今は違う)、家にあまり帰っていなかった。いつしかA氏に対しては周囲から「Aさんは中川君に厳しすぎる」といった声も出ていた。
とはいっても、私としては、直属の上司であるA氏のオーダーに応えるのが新入社員の当然の仕事だと思ってやり続けた。
正直効率は悪かっただろうし、A氏としては、「データ分析に長けた外注先に発注した方が上手にやってくれるだろう」と思っていたはずである。だが、新入社員を鍛えるべく、私にこの仕事を振った。
A氏は、自身のクライアントたるビール会社には私を連れていくことは一切なかった。こちらとしては、同氏の下働きをしているのだから、客先に連れて行ってもらいたいと思っていたものの、行くことはなかった。
ただ、毎回私が抽出した「枕詞」をベースとしたA氏がまとめたプレゼン資料は見せてくれ、「今回はこれを先方にプレゼンしてくるからな」とは言ってくれていた。周囲は「あんなに中川君が頑張っているのに、なんでAさんはクライアントのところに連れていかないの?」といったことも言っていた。
だが、それはA氏がキチンと色々考えていたのだろう。その真相についてはご本人に聞いてみないと分からないが、当時の同氏よりも年上である45歳にもなった今となっては連れていかなかった理由は想像できる。
多分「こいつを連れていくと不躾な態度を取るかもしれないし、余計な名刺交換等で貴重な時間が奪われるのも煩わしい。あくまでも権限ある者同士の意義ある会議をしたいし、中川も諸々忙しいからこいつを連れていくのは彼にも申し訳ない」などと考えていたのかもしれない。今はそこはよく分かる。