作家に固定ファンがいる文芸書や一部の自己啓発書は、作家の名前で本が売れる。売れる作家、売れない作家がいるのだ。しかし、ビジネス書、それも実務系のテーマの企画であれば、過去にどれだけ売れた本があろうと、作家の名前はそれほど大きな影響力を持たない。同じ作家の本でも企画が異なれば、それはまったく別ものなのがビジネス書である。これから出版する新刊にとって過去の実績は何の保証にもならないはず、判断材料として適切とは思えないのが私見である。
こういう話になると、今の編集者は必ず「昔とは違うんですよ」と言う。確かに時代は違うのだから、彼らの言うことを否定する気持ちはない。過去の実績が判断材料として重きを成すようになると、中ヒット以上の実績がある人は、何年か、あるいは何10年かのブランクがあってもするすると出版が実現してしまう。だが、過去に売れた人の本だからとつくった本が、まったく売れないということは枚挙に暇(いとま)がない。私は、こういう時口には出さないが、内心では「だから言ったでしょ」と思っている。企画で勝負するよりも作家の過去に頼るのは、あまり積極的に賛同することはできないが、まあ、それもわからないではないし、そういう判断基準で本をつくるということもありだろう。
およそデータには最も疎い業界と思っていた出版界が、こんなにデータを重視するようになるとは、いったい誰の計らいなのか。こうした出版界の現状は、過去に実績がない新人にとっては不利とばかりもいえないが、決して有利でもない。そういう状況である。では、過去の出版結果が思わしくなかった作家には敗者復活のチャンスがなく、退場を迫られるだけなのだろうか。
結論から言うとそこまではっきりとした規準はない。おそらく過去のデータを見るといっても、その判断は人によってかなりの差があるはずだ。なぜなら既刊本の過去データは、同じ企画に関しては信頼できるデータであるが、ビジネス書の作家に関しては「印象」止まりだからである。人の印象というのは、判断する人によって異なるのが普通だ。したがって途中であきらめなければ、一度や二度の失敗があろうと、実力を認めてくれる編集者・出版社に巡り会うことはできる。個人的な体験から言えば、若干の不利は覚悟して、時間と手間を惜しまなければ、必ず巡り会える。
これも個人的な体験から言えることだが、連続三振であっても四打席目くらいまでは回ってくるものだ。ただし、それで結局一回も出塁できなければ、しばらく出場機会はないものと腹をくくっておくべきだろう。
時代小説の売れっこ作家、佐伯泰英氏は元々カメラマンで、その後、小説を書くようになっていくつかの作品を発表したが、残念な結果に終始していた。このまま日の目を見ることなく作家として終るかというとき「残るは官能小説か時代小説しかないですね」という編集者の言葉に背中を押され、時代小説を著して一気にブレイクする。過去のデータとはそんなものなのである。
とはいっても過去の出版実績は消すことができない。過去は過去としてどこまでもついて回る以上、そこを心得たうえで、新たな企画をもって出版に再チャレンジするべきである。ポイントとなるのは、企画を新しく仕立て直すということだ。ビジネス書の作家が過去の本とはまったく違うジャンルのテーマで本を出すということはめったにない。たいていの場合、多かれ少なかれ従来の延長線上のテーマとなる。しかし、過去に結果が思わしくなかったテーマの企画を再び提案されても、過去のデータの重さに負けてしまう。作家とテーマが同じならば、過去のデータにも十分な説得力があるからだ。
そうなると、いかに「印象」にはこだわらない編集者でも二の足を踏んでしまう。したがって再チャレンジの企画は、やはり従来とはガラリと変わったもの、もしくは、まったく別の切口のものであることが望ましい。どういう切口がよいかについては、過去の実績が物を言うはずだ。
売れなかった本には、売れなかった理由がある。出版社が悪かったというのは結論にはならない。出版社がよかろうが悪かろうが、売れる本は売れる。売れなかったのは企画であり、その企画の切口であり、語り口に根本的な原因がある。出版社に販売力がなかったというのは、単なる言い訳にしか過ぎない。
失敗は成功の母、努力は成功の父である。せっかくの失敗を無駄にしてはもったいない。「なぜ読者に受け入れられなかったのか」をとことん検証して、新企画に生かすべきである。過去に出版実績を持っている作家の真の強みは、実はこの点にあるのだ。「失敗から学ぶことができること」「失敗を生かすことができること」こそ、出版実績のある作家にとってのアドバンテージなのである。
次回に続く