人も、組織も、理屈どおりには動かない。精緻(せいち)な論理を背景とした説得のスキルだけでは、本当の意味で、人も組織も動かせないのである。本当に人が動く、すなわち人が自らよろこんで動くようにするためには、説得者に優れた人間性、人間力(マインド)が求められるのだ。言うならば、説得によって人を動かす肝は{論理性<人間性}なのである。
山本周五郎の小説に『町奉行日記』という作品がある。江戸時代、ある地方の小藩を舞台にした物語だ。この藩には「壕外(ほりそと)」と呼ばれる密輸、売春、賭博が横行する治外法権の無法地帯があった。壕外は三人の親分によって仕切られている。壕外を浄化するため、新任の町奉行は身分を隠して壕外へ入り、三人の親分と男と男の付き合いを深める。そしてある時自ら奉行であることを三人の親分に打ち明け、そのうえで親分たちに足を洗ってこの地を去るよう説得する。
三人の親分にとっては、まったくメリットのない話である。新任町奉行は自分が奉行であることを打ち明けたけれども、奉行としての立場や権力で迫るのではなく、三人の親分の友人として、引退し当地を去るよう懇願するように説得した。町奉行としての公の裁きではないのだから、親分たちは要求を拒否することもできる。しかし、親分たちは新任町奉行の説得を受け入れた。町奉行の人間性や心意気に打たれたのである。
力対力では、いかに町奉行といえども、治外法権の壕外で権力を振るう三人の親分を抑え込むことは難しい。そこで新任町奉行は、心と心、腹と腹をぶつけ合う説得に勝負を賭けたのである。
以上は、小説の中の「お話」だが、合理性を超えた説得の実話もある。明治の実業界に伊庭貞剛(いばていごう)という人がいた。「別子銅山、中興の祖」と謳われ、住友の基盤を築いた住友の二代目総理事である。
明治26年、住友別子銅山に隣接する新居浜製錬所が吐き出す亜硫酸ガスによって、当地の農作物が枯れるという煙害が発生し、農民暴動が起きた。紛争は長引き、地元農民に加え、鉱山の坑夫や漁民をも巻き込んで拡大していった。
翌年、初代の総理事である広瀬宰平(ひろせさいへい)は、事態の収拾をはかるために、伊庭を別子銅山および新居浜製錬所の支配人として派遣した。単身、別子の支配人として赴任した伊庭は、別子の山の中に小さな草庵を建て、毎日、銅山を登り降りしたり、村の中を散歩しては、坑夫や農民、あるいは漁民に親しくあいさつし穏やかな笑顔で言葉を交わした。
今日で言うところの「歩き回る経営( Management By Walking Around)」を彷彿とさせる話である。目を血走らせて住友を敵視する村人の中へ、ひとり臆することなく飄々(ひょうひょう)と入っていく伊庭の姿を、別子の住友社員はハラハラしながら見ていた。ところが、こうした伊庭の行動が続くうちに、事態に変化が現れ始める。
対立一辺倒だった村人が次第に軟化し、話し合いの席に着くようになったのである。住友の支配人が村人に親しく声をかけるということなど、想像さえ困難だった身分制度の名残りの強いこの時代、伊庭は権力を笠に着ることなく、剣呑(けんのん)な雰囲気の村人を相手に、警戒することなく接し、穏やかに、素直に村人の話に耳を傾けた。村人たちは、そうした伊庭の卓越した人間性に心を打たれたのである。伊庭の行動は、当時の常識からすれば珍妙であり、愚かにさえ見えたようだ。
伊庭自身、親友の品川弥二郎宛の書状で、「小生は馬鹿な仕事が好きなり」と、自らの行動が世間の常識に反していることを認めている。住友別子銅山の騒動は、この伊庭の態度と行動によって次第に沈静化する。だが、伊庭のマインド(人間力)によって事態は落ち着き、双方が話し合いの席に着いたといっても、直ちにそれだけでは問題の解決にはならない。双方に無理のない、理屈の通ったウィンウィンの解決に至らなければ、真の騒動の解決とはならないからだ。
マインドだけでは解決には至らない。スキルのある説得も解決には必要なのである。伊庭は村人との話し合いの席上、農業や漁業の補償はもとより、「別子全山を旧(もと)のあをあをとした姿にして、これを大自然にかへさねばならない」と、山林の再生と保護の方針を示した。そして、そのために亜硫酸ガスの発生源である製錬所を沖にある島に移すことを、住友本社の猛反対を押し切って実行した。
山林の再生と保護は住友の事業として行った。それは、新居浜の村にもう一つ収入源をもたらすことであり、住友に新たな事業を加えることでもあった。その事業が、現在の住友林業である。
説得はスキルだけでは非力だが、マインドだけでも解決しない。スキルはマインドがあって生きる。感服は心服に昇華する。説得する力とは、マインド×スキルということなのである。
次回に続く