「爆弾を作って、敵を一人でも多く殺したい」――。大学卒業時の旅の途中、パレスチナで出会った少年の放った強烈なひと言。それが「子どもが子どもらしい夢を抱ける当たり前の世界を創ろう」と志したきっかけでした。その想いを胸に起業し、寄付、募金などの仕組みづくりから映画の配給・上映事業に至るまでの挑戦と失敗の日々。「社会貢献」を事業に据え、人と人を繋げることで世界を変える社会起業家、関根健次氏の熱量の源を辿ってきました。
(インタビュー・文/沖中幸太郎)
関根健次(せきね・けんじ)
ユナイテッドピープル株式会社代表取締役社長
1976年、神奈川県藤沢市生まれ。高校卒業後、米国ベロイト大学へ進学。大学卒業後に偶然立ち寄ったパレスチナのガザ地区で、世界の現実を目の当たりにし、以降一貫して「世界の問題解決」を志すようになる。IT業界に身を置くなかで、2002年、前身となるダ・ビンチ・インターネットを起業。NGO/NPO支援のための募金サイト「イーココロ!」を立ち上げる。さらに人を動かす感動のきっかけづくりとして、2009年、映画配給事業に参入。現在、ユナイテッドピープルとして世界各地の諸問題を映し出す映画の配給・上映に力を入れている。【公式サイト】。 |
――コスタリカでの生活を経て、現在福岡に拠点を移されています。
関根健次氏(以下、関根氏):昨年、40歳を迎えたのを機に、非日常としての旅からではなく、再び、旅の中に身を置いて人々と出会いたいと、一年かけて世界各地を回っていました。その旅の途中、コスタリカで約9ヶ月間を過ごしたのち、今年(2017年)の4月に日本に帰ってきたんです。帰国後の拠点も福岡にしたのは、人と自然の距離が適度に保たれ、かつ、ここから世界のどこへでも飛び立てる「アジアの玄関口」としての街の立地に大きな魅力を感じたからです。
私が代表を務める、社会課題解決を目的にする会社「ユナイテッドピープル(UNITED PEOPLE)」の社名は、文字通り「人と人との連帯」を意図して名付けたものです。世界中の人と人をつなぐことで力を合わせ、貧困や飢餓や環境問題などの解決を目指し、皆が幸せを分かち合える社会を創ることをミッションとしています。その手段として、人の“心を揺さぶる”映画の配給・上映事業をおこなっています。まだ日本では知られていない、さまざまな問題に光を当てた映画が世界にはたくさんあります。そういった映画の上映を通して、今世界のどこかで起きているさまざまな問題を知り、ひとりでも多くの人が何らかのアクションを起こす「きっかけづくり」をしています。
私自身、人と出会い繋がることが仕事の中で大きな役割を占めていて、先日も、タリバンから逃れるため難民となった少女を題材にした映画『ソニータ』の主人公に会うため、アメリカにとんぼ返りで行ってきました。また、全国各地でおこなわれる映画の上映会に参加して登壇するなど、将来仲間になるかもしれない人々に直接出会って、その人たちが発するエネルギーを直接感じるのも大切な時間です。「そこに会いたい人がいれば、今日にでも動く」という毎日を過ごしています。
――「人との出会い」が、関根さんの熱量になっている。
関根氏:今の事業も、そこから派生した毎年9月21日の国連が定めたピースデーに合わせておこなう、「国際平和映像祭(UFPFF)」も、そして昨年からの世界一周の旅も、またそれ以前の、ネット募金サイト「イーココロ!」やネット署名サイト「署名TV」での活動も、すべて人との出会い・繋がりが発端となっているんです。
私が明確に“平和”を意識し、世界の課題解決を目指すようになったのは、大学卒業時の旅で出会った、パレスチナ人の少年の放った衝撃的なひと言がきっかけでした。その後、数社の会社を転々としながら、なんとか社会課題解決を事業にする会社を立ち上げるまで、試行錯誤の時期が長らくあったんです。その間、経営の大先輩からは、社会課題解決を事業にすることに対して「お前にはまだ早い」と言われたこともありましたし、支援させていただく先の方々からも「本当にやる気があるんですか」と疑いの目で見られることもありました。想いが実を結ばず起業当初、年間のNGOへの寄付金額は初年度数万円。その後、100万円にも満たないことが数年間続きました。
けれど、不思議と迷いもなく、今も続けて来られたのは、多くの人々との出会いを重ねることで、一緒に目標に向かえる仲間と出会うことができたからだと思っています。そうした人と人の繋がり、「ユナイテッドピープル」の力こそが、私をここまで押し上げてくれたんだと思っています。
関根氏:最初に私に影響を与えてくれた「人」は、間違いなく父と母だったと思います。私はもともと神奈川県の出身なのですが、自動車の整備工場を営む父と、何でも応援してくれる母の元で、幼少期はのびのびと過ごしていました。ただ生まれ持った性格なのでしょうが、小さい頃の私は、今とは真逆の「平和」の一文字も感じられない暴力的な性格で、そのやんちゃぶりには親も大変手を焼いていたと思います。
今でも覚えているのが、日頃の私の素行の悪さに堪え兼ねた近所の子どもたちが、徒党を組んで家に竹槍を持って“襲撃”に来た日のことです。家にいて一部始終を知った父は、“襲撃された”私ではなく、そこまでの感情にさせられた彼らの方に同情し、私はこっぴどく叱られたんです。そんなやんちゃな私が、「人」を考えることになったのは、奇しくも、そんなやんちゃな頃の遊びで遭遇してしまった悲しい事故がきっかけでした。
ある日、いつものように近所の友達と一緒に追いかけっこをして遊んでいたのですが、その最中に一緒に走っていた友達が目の前で自動車に轢かれ、救急車で運ばれた後に亡くなってしまったのです。今でこそ、「亡くなった」と言えますが、当時はそのことが理解できず、ただ、その瞬間を境に友達がいなくなったことに、自分でどう気持ちの整理をすればよいか分からないでいました。その頃から、「自分はなぜこうして生きているのか」と考えはじめたんです。
――なぜ、自分は生きているのか……。
関根氏:それ以降、なんとなく、自分だけの人生であってそうでないような。母親には、亡くなってしまった友人のためにも一生懸命生きなさいと言われましたし。もちろん「誰かのために生きる」とか、そうした明確な言葉では言い表せませんでしたが、18歳くらいになったら、自分自身のエゴのためだけでなく、人のためになる生き方をしないといけないなとは、漠然と考えるようになっていきました。18歳までにその何かを見つけなければいけない。とはいえ、何をしていいのか分かりません。自分が何も持っていないことに悶々としたものを抱え、また、そんな自分を大っぴらに人に語ったり相談したりもできないまま時は過ぎ、中学、高校へと進んでしまいました。
「18歳」を目前にして、そろそろどんな道に進むべきか焦っていた自分が、ようやく道がひらけたと感じることができたのは、たまたま姉が留学していたカナダに、家族揃って訪問した時でした。はじめて見る、日本とは違う“景色”。そこに暮らす人々の生き生きとした姿を目の当たりにして、言葉では説明し難いけれど「世界は広い」「世界が変われば尺度が違う」と、カナダ以外に広がる果てしなく広い世界を想像しつつワクワクしたんです。
日本の高校の世界史の先生は、よく「お前たち、これから先の日本は大変だぞ。滅びるからな」と、自分たち生徒に「絶望」を教えこんでいたこともあり、余計に「18歳より先」の日本に、閉塞感を持っていたのかもしれません。
「日本を飛び出して広い世界が知りたい」……。目の前が晴れたような気分で、英語もできず学校の成績も決してよくなかったのですが、進学先を必死に探し、親もなんとか説得して、それでアメリカの大学に進むことになったんです。