ベンチャ―発の量産モデルEVとして復活し、国内外から注目を浴びた幻のスポーツカー「トミーカイラZZ」。同製品の開発を手がけた新興EVメーカーGLM社の技術本部長を務めるのが、大手自動車メーカーで設計畑を歩んできた藤墳裕次氏。実績も知名度もなかったベンチャー企業に、安定した地位をなげうって進んだ“生粋のエンジニア”の、夢を追い続けた軌跡を辿ってきました。
(インタビュー・文/沖中幸太郎)
藤墳裕次(ふじつか・ゆうじ)
エンジニア
1972年、大阪生まれ。中学時代に読みふけったオートバイ競技の漫画『バリバリ伝説』に魅せられ、バイク開発を夢見る。関西大学工学部を卒業後、日産自動車、川崎重工、トヨタと国内大手メーカーの自動車・バイクの設計畑を歩んだのち、「ゼロからの車づくり」に想いをかき立てられ、京大発のベンチャ―企業、GLM株式会社に入社。同社技術本部長として、EV版「トミーカイラZZ」、「GLM G4」など、まったく新しいゼロからのEV開発に挑戦している。【GLMオフィシャルサイト】。 |
――EV(電気自動車)版、「トミーカイラZZ」が話題となっています。
藤墳裕次氏(以下、藤墳氏):私が技術本部長を務めるGLMは、もともと京都大学のVBL(ベンチャ―ビジネスラボラトリー)の「京都電気自動車プロジェクト」を母体として出発したベンチャ―企業です。今年(2017年)で設立から7年の新興EVメーカーですが、スポーツカータイプのEV「トミーカイラZZ」や、日本初の量産EVスーパーカー「GLM G4」の開発を手がけています。
当初は、既存のガソリン車をEV仕様に改造する“コンバージョンEV”の開発を主軸にしていて、“和製テスラ”と内外から評価を受けたこともありました。けれども、私たちの考えるEVはテスラ社とは別の理念でつくられたもので、かつ無謀と言われながらも、自社でゼロからEVを開発し、量産化に成功しています。
――その“無謀”な挑戦には、多くのユニークな開発陣が集まっています。
藤墳氏:GLMには、夢のような「スポーツEVへの挑戦」に惹かれて、国内大手自動車メーカーやサプライヤー出身の技術者が集まっています。私自身も、日産、川崎重工、トヨタとさまざまな開発現場で車やバイクの設計に携わった後に、その夢に惹かれてここに集まってきた一人です。
私のエンジニアとしてのものづくり、特に現場に固執する姿勢は、時に妻からも「ビョーキ」と飽きれられるほどですが(笑)、とにかく、「何か新しいワクワクできるもの」に直接携わりたいと思い続けた結果、GLMに辿り着きました。その過程は思い返しても失敗だらけで、今も失敗しては学んでいく、その繰り返しです。
藤墳氏:スーパーカーブーム全盛期の頃に幼少期を過ごしたせいか、車との接点で最初に思い出すのは、当時流行っていた「スーパーカー消しゴム」ですね。ただ、どちらかというとおとなしい子どもだった私は、親が期待する「子ども像」みたいなものを感じていて、普通に「夢はお医者さん」など、自分が「好き」ではなく、大人たちから喜ばれそうなことを口にしていました。
そんな周りを気にする自分の心に火がついたのは、中学2年の頃だったと思います。夏休み、母方の親戚の家に遊びにいった時に『バリバリ伝説』という、オートバイ競技を題材とした当時人気の漫画を読んだんです。高校生ライダーがアマチュアから世界チャンピオンになるまでのサクセスストーリーなのですが、なぜか自分は主人公のライダーではなく、エンジニアの方に興味が沸いていました。
――主人公ではなく、脇役(エンジニア)を格好いいと思った。
藤墳氏:作中には実在のバイクが数多く登場するのですが、一介の高校生を世界の舞台まで押し上げたマシン、それを開発するエンジニアの方が、自分にとっては、ものすごく格好いい存在に思えたんです。それまで、なんとなく周りに流されていた自分が「バイクをつくりたい! エンジニアになりたい!」と、明確に自らの道を思い描いた強烈な体験でした。夏休みを終え、大阪の実家に帰っても『バリバリ伝説』読後の興奮は冷めることなく、ずっとその気持ちは消えませんでしたね。
そうして、その頃の自分にできること、思いつくことから少しずつ「準備」を始めました。バイクの前段階となる原付の免許は16歳になってすぐに取りましたし、高校の文系・理系の選択時には、クラスで一人だけ理系を選びました。普通、得意な科目から進路を選ぶ中で、自分の理由は、ただただ「バイクつくりたいから」しかなかったんです。そのためには得手不得手など関係なく、理系の大学に行かなければと、バイクエンジニアの将来から逆算して考えていました。
それでも1年間浪人し、苦手科目をなんとか克服した末にようやく進んだのが、地元の大学の機械工学科でした。学生時代の記憶は、ほとんどバイク一色。この頃にはバイクの免許も取得して、自分はホンダのCBRというバイクに乗って通学していました。
大学の授業も、特にバイクの設計に必要だと思うことは一所懸命に勉強していたと思います。また、入り浸っていたバイクサークルでは、夜な夜な仲間たちと、バイクについて語り合う日々。峠を攻めてはバイク雑誌に写真投稿もしていました(笑)。
――すべてはバイクのために……。
藤墳氏:とにかく「ホンダに入ってバイクの設計に携わりたい!」と思い続けていたんです。その頃の私には、『バリバリ伝説』以外にも、バイクエンジニアになる夢を後押ししてくれたひとりの尊敬する人物がいました。もうお亡くなりになってしまいましたが、ニューフェイスから一気にチャンピオンに上り詰め、世界を沸かせた伝説の日本人ライダー、ノリックこと阿部典史さんでした。自分は、阿部選手が使用していたホンダのレプリカヘルメットもかぶって、完全にホンダ党気取りだったんです(笑)。
ところが、そうした私のホンダとバイクへの想いとは裏腹に、就職試験では、ホンダをはじめバイクメーカーには軒並み落とされました。履歴書を送っても返事すら頂けないこともありました。結局、新卒で入社した会社はバイクとはまったく関係ないところで、半年間の研修後には住み慣れた地元大阪から、九州の佐賀工場に赴任することに。
就職氷河期という時代の中でなんとか入れてもらった会社で、地元の工場の人にもよくしてもらい、正直居心地も悪くはなかったんです。ところが働いていてもなんだか身が入らない。同時期に就職して「頑張っている友人」と自分の差は何なのか……。まだ「好き」を諦める必要はない、もっと挑戦したいと思ったんです。働きながら第二新卒を目指して、車雑誌などに載っている求人募集はすべてに目を通して、電話で問い合わせては面接を繰り返していました。
――「好き」を諦めずに、挑戦することを選ばれました。
藤墳氏:実際、第二新卒の転職は、新卒で就職するよりもさらに厳しいものでした。面接まで漕ぎ着けても、「君面白いけど、結局何ができるの?」と言われてしまうんですね。意欲や想いだけではどうにもならないことを痛感しました。それでも諦めきれず、直接何がダメなのかを面接の方に電話して聞いたら、電話口からは「新卒と違って、キャリア採用は“即戦力”を求めています」と、当然のひと言。まずはバイクメーカーに限らず、自動車や部品メーカーなど、乗り物に関わる設計経験を積まなければならない。「経験を積むための職場に、経験が必要とされる」ことにジレンマを感じていましたが、後々の逆境に比べると、この頃はまだまだ易しいものでした。