プロ野球選手のヒットやホームランを、場外から固唾を飲んで見守る人物がいる。それが、スポーツ用品メーカーZETTに所属し、日本プロ野球12球団約130人の選手のバットを製作する、その名も“バット職人”の、熊谷昌典さん。選手の能力を最大限に発揮させ、試合の展開をも左右する“選手の武器”は、どんな人物がどんな想いでつくっているのか。バット職人として生きることを決定づけた、熊谷さんの “憧れを感じた瞬間”を辿ってきました。
(インタビュー・文/沖中幸太郎)
熊谷昌典(くまがい・まさのり)
バット職人(ゼット株式会社武生工場所属)
1974年、長野県生まれ。幼少期より慣れ親しんだ野球に携わり続けたい一心で、高校卒業後に大手スポーツ用品メーカー「ゼット」に入社。東大阪の物流部門に勤めたのち、福井に異動となり、そこで出会った先輩職人の仕事ぶりに感銘を受けバット職人の道へ。現在、ゼット武生工場で、セ・パ12球団、約130人にも及ぶプロ野球選手のバットづくりを請け負っている。公式サイト【ゼットベースボール公式サイト】。 |
――(ZETT武生工場、応接室にて)たくさんのバットが置かれています。
熊谷昌典氏(以下、熊谷氏):選手から記念として送っていただいたもので、古いものですと半世紀近く前のものもあります。サインやメッセージが添えられたホームランの記念バットや、海外選手が母の日のために特注したピンク色の練習用バットなど、この工場でつくられたさまざまなバットがここにあります。
私がバット職人として独り立ちし、初めてつくらせていただいた元千葉ロッテマリーンズ、初芝選手のバットもあります。今では珍しいアオダモ材(材木の種類)を使用して作られたものになりますね。
――セ・パ両球団、たくさんの選手が、熊谷さんの元を訪ねられています。
熊谷氏:12球団、約130人の選手のバット製作を任せていただいています。バット製造自体は年間を通して、日々開発・生産をおこなっていますが、特にプロ用のバットの製作が本格始動するのは、秋季キャンプが終わりにさしかかる11月後半くらいからです。
「いかに選手の身体の一部分として違和感なく、かつ本来の能力を発揮できるか」。選手の成績や、秋季キャンプでの選手とコーチとの方針結果など、いろいろな角度から選手と直接話し合って、来シーズンに向けての目標を打ち合わせするところから、バットづくりは始まります。
――すべての球団の“もうひとりの選手”でもある。
熊谷氏:球場でバットを振るのはあくまで選手で、自分の勝負の場はこの工場で、選手の要望通りのバットで応えられるかがすべてです。この工場の中で、僭越ながら「一緒に戦っている」という気持ちで臨ませてもらっています。
すべての球団の選手のバットを任せてもらっているので、テレビなどで試合を観るときは、チームの勝敗というよりも、どうしても道具中心の目線になってしまっています。球団に関係なく、回(イニング)ごとに応援する選手は変わりますし、また、投手のグローブが弊社の製品で、なおかつ打者も自社製品、自分が作ったバットという場合には、やはり後者に肩入れしてしまいます(笑)。
私が所属しているスポーツ用品メーカーZETTの福井県武生(たけふ)工場では、バットのほか、ユニフォーム製造などがあり、皆それぞれの担当の仕事を愛しています。もともと私も野球が大好きでスポーツの世界に携われることから、この会社に入りました。その中で、私がとくに “バット職人”として生きることを決意したのは、この工場でのある衝撃的な出会いからでした。
熊谷氏:幼い頃から野球は大好きでした。私の実家は長野県塩尻なのですが、そこで建設会社を営む家の次男坊として生まれました。父は、とにかく私を野球選手にしたかったらしく、野球の道具以外は買い与えられず、ゲーム機も漫画本にも無縁で、ボールとバットだけが唯一の遊び道具でした。
リトルリーグのときから野球中心の生活で、高校時代まではそれ以外に記憶がないほど野球三昧の生活だったんです。当然、将来の夢は野球選手で、高校も県内の野球の強豪校に進みました。部員は全体で100人を超えていましたので、わずか十数人のベンチの座を争うため、競争も練習も厳しく「地獄の三年間」というにふさわしいものでした。
その中で私も、なんとか周りの選手に追いつこうと毎日必死に練習していました。身体も大きい方ではなく、人一倍頑張っていたつもりでしたが、ベンチに入るので精一杯。目立った成績も残せず、甲子園も出場できずで、そのまま高校三年間は終了。いよいよ私も就職を控え、「野球人生もここまでかな」と思っていたんです。
――「好きな野球で食っていく」ことを諦めないといけない……。
熊谷氏:ところが唯一、仕事をしていても野球に携わり続けることができるかもしれない、と思ったのがこの会社でした。実は、高校の野球部時代、ZETTの営業担当がよく学校に来ていたんです。会社のロゴが入った社用車でやってきて、監督と談笑する。その姿を「かっこいい」と感じ、密かに憧れていました。
当時、高卒採用があったのはこの会社だけだったので、すぐに応募しました。採用された時は、大好きなスポーツの世界に関わり続けることができると、嬉しい気持ちでいっぱいでしたね。そうして故郷の長野から、都会である大阪へ。胸を躍らせながら向かったことを覚えています。