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2巻 行き遅れ姫の謀
2-2
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床板を外し、隙間から体を滑らせ、馬車の床下に下りる。その瞬間、頭上にドスッと何かが刺さる、鈍い音が響いた。間一髪だったようだ。
馬車の下に滑り出ると、目の前に四本の足がある。
どうやら、二人の男が馬車の中に槍か剣でも差し込んだのだろう。本当に危機一髪だが、反撃には最高の状況だった。
腰の剣を抜きざまにその四本の脚を薙ぎ払う。瞬間視界が真っ赤に染まり、強烈な叫び声が響いた。突然見えないところから脚を切り取られたのだ。無理もない。
間髪容れず、そのまま床下から転がり出る。目の前で護衛の一人と交戦中だった男の腹を切りつける。そのまま、少し離れて二人の刺客と睨み合う樂めがけて走る。
一人を後ろから蹴り飛ばし、もう一人の男は振り向きざまに胴を払う。
「奥方様!」
翠玉の参戦に驚きながらも、翠玉に蹴られた男を確実に仕留めた樂が声を上げる。
「合図ありがとう。あとは己の相手に集中なさい」
それだけ言うと、樂に背を向け、刺客達がこちらを視認した事を確認する。
数は十人ほどだ。なるほど、姿格好はあの夜の連中と全く一緒だ。
「諦めてはいなかったわけね!」
見渡せばこちらの護衛も数人地面に落ちて事切れている。
なかなかの手練れを揃えて来ているようだ。
一人の男を沈め、不意打ちを狙ってきた男の腹に肘を入れ、男の腰に携えられた短剣を抜くと、その背に突き立てた。
その時点で嫌な予感はあった。柄を握る手に力が入りにくくなっている上に、動きの速度も落ちて、脚も徐々に重くなっているのが分かる。
いつもであれば、そろそろ体が温まって軽くなり、速さも増す頃なのだが……
これは、早く仕留めないとまずい。
周囲では、翠玉に群がろうとする刺客達を押しとどめるような状況になっている。無理もない、彼らの目的は翠玉一人なのだ。
そして、護衛達を突破して来た二人の男が目の前に迫る。それ以外にもまだ刺客は数人残っている。どう体力を温存しようか。
まだ楽がこの場を離れてからあまり時間が経っていない。援軍が来るまで時間はかかるだろう。
一人目の攻撃を避け、腹を蹴り飛ばす。
「っ!」
グラリと視界が揺れた。
まずい……そう思った時には体が傾き、膝を地面に打ち付けていた。ガランと、鉄の音が足元で響く。手から剣が離れたのだ。
最悪だ……
「奥方様っ‼」
樂の悲痛な声が響き、反射的に顔を上げる。まだ揺れる視界の中に、ギラリと光る金属と、それを振りかぶる男が見えた。
あぁ、まずい。これは避けられない。諦めるように、自然と目を閉じた。
すぐに、ドンと鈍い音がする。思いの外痛みはなく、死ぬ間際とは痛みを感じないものなのかと、感心する。
しかし、聴覚はまだ鮮明で……そういうものなのかと思った矢先……
ドスンと今度は大きなものが落ちる音を間近に聞き、けたたましい金属音が響いた。
「目を開けろ‼ アホかお前は! 何を諦めて戦闘を放棄している!」
次の瞬間、体を強く引き上げられ、馴染みのある怒鳴り声が耳を劈いた。
◆
冬隼は午後の修練を終え、迷う事なく、自邸とは違う方向に馬を進めていた。翠玉が後宮からそろそろ帰る頃だと思ったのだ。
用心に用心を重ね、護衛は多めにつけてある。よもや大丈夫であろうが、それでも彼女の最近の様子を見ていると、心配ではあった。翠玉が後宮から出てくるまで、まだ少し時間はあるだろうが、彼女を一人で帰すより、自分が多少待つほうがまだマシだ。
そう思いながらゆったりと馬を走らせていたその時、向かう先から、ただごとではない様子で走ってくる馬を見て、背筋に冷たいものが走った。
すぐに馬を走らせ距離を詰め、こちらに向かって来る楽に声をかける。
「どこだ‼」
「この先‼ 刺客です!」
その声だけを聞くと、馬の腹を蹴り、さらに速度を上げる。
「殿下! お待ちください!」
その後を泰誠と、護衛達が追ってくる気配を感じたが、彼らを待っている余裕はない。
翠玉を狙う者がこの時期に動くという事自体は、あり得ない話ではないと思っていた。
しかし、可能性は低かろうと油断していたのだ。
だが、そんな冬隼の考えとは裏腹に、事は起こってしまった。奴らはまだ、翠玉を諦めていなかったのだ。翠玉はまだ本調子でない。自分のせいでそうなった。
「頼むから……無事でいろ!」
幸いにも、現場にはすぐ到着できた。
しかし、視界に入ってきた状況に、一瞬で体中の血が冷えた。
形勢は圧倒的に不利だった。数いた護衛も随分減っているように見えた。
その中で自然に、目がすぐに見つけ出した翠玉の姿。彼女が立って剣を握っている姿に、ほっと息を吐いたその時だった。
男二人に対峙する華奢な体が、一人を蹴り飛ばした瞬間グラリと傾き、崩れ落ちたのだ。
「奥方様っ‼」
悲痛な樂の声が響き、彼女の目の前にいる男が剣を振りかぶる。
間に合わない。
近づいていくうちに翠玉の表情が見える。冬隼には、翠玉は目を閉じて、死を受け入れようとしているように見えた。
勝手に死ぬな‼
腰に携えた短剣を抜き取り、振りかぶった男の首めがけて投げつける。一か八かの賭けだった。狙い通り、短剣は男の首元に吸い寄せられるように飛ぶと、見事にその首に刺さり、男の体は沈んだ。
冬隼の姿を認めて、群がって来る刺客を二、三人薙ぎ払って、馬を降りると翠玉の元へ駆け寄る。先ほど翠玉が蹴り飛ばした男が起き上がって、翠玉に向かって剣を振り上げようとしている。
「目を開けろ‼ アホかお前は! 何を諦めて戦闘を放棄している!」
膝をついている翠玉の体を引っ張り上げると、自分の懐に寄せる。ついでに彼女の落とした剣を拾い、向かって来た男に突き立てた。
「とう、しゅん?」
腕の中で、翠玉が目を開き、呟くのが聞こえた。立ち上がらせた翠玉は、力があまり入らないらしく立ち方も不安定だった。相当危ない状況だったようだ。
「殿下! 奥方を連れて下がってください!」
追いついてきた泰誠が騎乗したまま走り込んでくる。彼と共に護衛達も到着したようだ。
それと時を同じくして、どこからか、高い笛の音色が鳴った。
まるで、条件反射だとでもいうように、対峙していた刺客達が、素早い動きで背を向け、走り出していく。
逃げる気だ!
「泰誠! なるべく生きて捕らえろ! 深追いはするな!」
「承知!」
泰誠と数人の護衛を見送り、周囲の安全を確認する。翠玉の肩を抱き、そのままゆっくりと座り込む。
「大丈夫か?」
顔を覗き込むと翠玉の顔色は蒼白だった。
「冬隼、助かったわ。早かったのね」
弱々しい声と、少し荒い息が頬に当たる。
「怪我はないな?」
聞くと、すぐにコクリと頷き返される。体中に返り血を浴びているものの、彼女自身に怪我はないらしい。となると、先ほど倒れたのはやはり体そのものの不調だろう。
「心配しないで。少し休めば大丈夫。ちょっと久しぶりに本気で動きすぎただけだから」
冬隼の考えを察したように翠玉がゆっくりと訴える。
「もう黙っていろ。帰ってすぐ休むぞ」
掴んだ肩をぎゅっと抱き込む。体温と心拍、息遣いが伝わり、よく生きていてくれたと安堵のため息が漏れる。
「殿下。すみません、取り逃がしました」
しばらくそうしていると、泰誠と護衛達が戻ってきた。
敵は足がつかないように、刺客を雇っているらしい。相変わらず、手慣れている。
「仕方ない。俺は宮に戻る。後を頼むぞ」
「承知しました」
泰誠の返事と同時に翠玉を抱き上げる。抵抗や抗議をする気力もないようで、今日は大人しい。
せめて横になれたらと、馬車を一瞥するが、使える状況ではなかった。
「翠玉、すまん。少し我慢しろ」
そう耳元で呟くと、彼女を担ぎ上げ、馬に乗る。
落ち着いたところで、横抱きに戻し、落ちないように肩を抱いて、胸に押し付ける。
「少し具合は悪いが耐えろ」
「大丈夫よ。ごめんなさい」
背に弱々しいながら、翠玉の手が回される。必死でしがみついているようだが、力はない。こうなるまで、いったいどれほど刺客を斬ったのだろうか……
覗き込む顔色は、相変わらず悪い。
不意に先ほどの、膝をついた翠玉の姿を思い出す。
到着が少し遅れていたら、翠玉は確実に死んでいた。しかも、あの瞬間、翠玉はそれを受け入れて、生きる事を諦めようとしていなかっただろうか……
冬隼は、ぎゅっと翠玉の肩を抱く腕に力を入れた。
◆
冬隼の腕の中は、温かく、厚い胸板を伝ってくる鼓動は規則正しくて、翠玉はそれだけでなぜか安心できた。
時折翠玉を抱き込む腕に力が入るが、それもなぜか包み込まれるように心地よかった。
体中がだるく、馬に乗っているせいか頭がグラグラして、そのまま眠気に引き込まれてしまいそうだと考えたところまでは、きちんと記憶があった。
体調を気遣って、馬の速さもゆっくりだったはずなのに、うつらうつらしているうちに自邸に着いたらしい。ぼんやりとした意識の中で、家人達の驚き戸惑う声が聞こえてくる。
「大丈夫だ。怪我はない。このまま部屋まで運ぶ」
冬隼の胸でやり取りを聞きながら、とりあえずは歩かなくて済む事にホッとして、翠玉はまた意識を手放した。
温かい手がまるで力を与えるように、頬や頭をずっと撫でてくれていた気がした。
◆
「結局、奥方様が殺った連中からも、何の手がかりも出ませんでした」
「そうか……」
衝立越しに聞く冬隼の声には抑揚がなく、泰誠は眉を寄せた。
翠玉が謎の刺客達に襲われてから数刻。冬隼への報告のために邸に来てみれば、自室にはおらず、彼は伏せた妻のいる部屋にいるというではないか。
報告があると伝えれば出てくると思ったものの、逆に部屋の中に招かれ、入り口で衝立越しに報告をさせられている。再度の刺客の襲撃を恐れているとはいえ、冬隼にしては随分と思い悩んでいる様子だ。
「殿下。お悩みになる気持ちは分かりますが、決めるのは奥方ですよ」
思い切って発した泰誠の言葉に、冬隼が息を呑む気配がした。付き合いは長いのだ。この人の性格など分かり切っている。
「奥方の知は我が軍の要です。武は我々で何とでもできましょう。ですが、奥方の知に代わりはありません。最前線に出すわけではありませんよ? そこを冷静にお考えなさいませ」
「そう、だな……」
ため息交じりの言葉が返ってくる。真面目な性格と、生い立ちの性質上、何でも自分が決めねばならぬと思い込んでしまう人である。
部下の事であればそれでいい、しかし翠玉は部下ではない。
「失礼します」
室を出る際、卓に視線が行く。おおよそ夫婦の寝室に似合わないもの……戦場図と碁石が置かれている。
彼女の能力――兵法の知恵と豊かな発想力が活きた戦術は、次の戦に必要不可欠だ。ここまで進んでいる以上は同行してもらわないわけにはいかない。
今まで冬隼は常に物事を冷静に考えて来た。ただここに来て、翠玉の事については冷静に判断できない時があるらしい。
彼の男としての成長は喜ばしい事ではあるが、時に弱点ともなるだろう。それを抑えるのも自分の役目かもしれない。
ため息を一つつき、泰誠は天を仰いだ。
◆
朝方、早めに目が覚めた冬隼が翠玉の寝顔をぼんやりと眺めていると、翠玉が祖国から連れてきた侍従――陽香が入室してきた。翠玉の側にいる冬隼の様子を見るやいなや、満足そうに微笑み礼をとる。
「昨夜よりは、辛くなさそうだ」
少しばかり居心地の悪さを覚えて、簡潔に様子を伝えてやると「えぇ」と彼女は更に満足げに頷いた。
「お顔の色も昨日とは見違えるようでございますね。旦那様が、付いていてくださったおかげでございますね」
弾むように言いながら、持ってきた水桶から手拭いを絞り、翠玉の顔を拭きはじめる。
陽香の言葉に、昨日から胸の中で渦巻いている思いが刺激され、胃の腑がギュッと縮まるような感覚に襲われた。
「俺がいた事は、こいつには関係ないだろう」
自嘲気味に小さく呟くと、陽香は手を止めて、こちらをじっと見つめてきた。
流石、桜季と並ぶ経験を持つ女官だ。何気なく漏らしてしまったこの一言に何かを察したのだろう。
「何か、先の出来事で気になられる事がございましたね?」
先ほどまでの嬉しそうな様子から一転し、表情を硬くして問うてくる陽香にはどうやら心当たりがあるらしい。翠玉と長い付き合いの彼女である。話してみるべきだろう。
「こいつ、昨日の戦いで俺が助けに入る直前、振り上げられた刃を避けようともせず瞳を閉じたんだ」
どういう反応を示すだろうかと探りながら、昨日のあの場面を伝えてみる。
陽香のこちらを見つめていた瞳が、一瞬大きく開かれ、そしてすぐに視線が落ちた。
「左様にございますか……」
陽香は小さく頷くと、悲しげな視線を翠玉に向ける。取り乱す様子がないところを見ると、彼女にとって、そう意外な事でもないらしい。
「こいつは嫁ぐまで、自分に存在価値がないと諦めて生きて来ていた事は知っている。いつ死んでもいいと思っていたのかもしれないとも容易に想像がつく。だが、今でもそうなのかと思うと、どうしてやるのがいいのか分からないのだ」
この国に、冬隼の元に嫁いで来て、新たな役割を与えられ満足している様子であっただけに、あの反応には参った。自分達はまだ、翠玉にとって死ねない理由にはなっていない事を知ってしまった。
「今のままで大丈夫でございますよ」
チャプチャプと水跳ねの音を立てて、陽香が手拭いを桶に戻すと、しっかりと背筋を伸ばしてこちらを見つめてきた。
表情は先ほどの硬い様子とは打って変わってとても柔らかく、温かい。
「そこまで旦那様が分かっていらっしゃるのであれば大丈夫でございます。翠姫は諦めなくていい事や役割がある喜びをようやく知る事ができ始めているところなのでございます。まだ、日も浅く発展途上でございますので、十数年ものの諦め根性の方が勝ってしまいますが、月日を重ねていけばご心配はないかと思います」
何しろ根は理論的ではなく直感的な性格なので! と最後に呆れ交じりに微笑んだ。
「諦め根性……か」
「もちろん、ご自分の事に関してのみのお話です」
だから困ったものなのだと、陽香は眠っている翠玉を睨めつける。
「きっとご自分がいなくなった時に、旦那様が悲しまれて、辛い思いをなさると気づけば、翠姫も死ぬのが怖くなりますよ。もともと、この方は大切な人達を失う辛さを知っている方でございますから」
「それにこいつが、気づくのかが問題だな……」
ため息交じりに寝顔を眺める。
「なかなか手強い相手に思えて仕方がない」
「左様でございますね」
くすくす笑いながら、陽香は桶を持ち出て行ってしまった。
残されたのは、冬隼と未だ眠り続ける翠玉のみ。恐る恐る手を伸ばして、今しがた清められたばかりの翠玉の頬に触れる。
温かくて、柔らかい。本当ならば、翠玉が目覚めるまでこうして側についていてやりたいと思っていたのだが、顔を拭かれても目覚めないところを見ると、まだしばらくは目覚める事はなさそうだ。
どうしても脳裏によみがえるのは、昨日のあの危うげな彼女の姿。少しでも顔を合わせて会話ができたら、これほど後ろ髪引かれるような気分はしないだろうに……
そんな事を考えていると、室の扉の向こう側に人の気配を感じる。そろそろ支度の刻限らしい。冬隼は寝台を揺らさないよう、極力ゆっくりと起き上がって部屋を出た。
◇
昼餉の時間。冬隼は、いつもより少しばかり早めに邸に戻り、加減はどうかといの一番に翠玉の部屋を訪ねた。だがしかし……
「いない!?」
ガランとした室内を見て呆然とした
護衛の姿もないため、何かあったわけではなさそうだが……病み上がりの体でまた無茶をしている事だけは間違いなかった。慌ててバタバタと窓を開けてみるが、寝室側の庭にも姿は見当たらない。そのまま隣の執務室を覗くがそこにも姿はなかった。
残すは一つだ。
嫌な予感を抱えながら、中庭へと歩みを進めると。
馬車の下に滑り出ると、目の前に四本の足がある。
どうやら、二人の男が馬車の中に槍か剣でも差し込んだのだろう。本当に危機一髪だが、反撃には最高の状況だった。
腰の剣を抜きざまにその四本の脚を薙ぎ払う。瞬間視界が真っ赤に染まり、強烈な叫び声が響いた。突然見えないところから脚を切り取られたのだ。無理もない。
間髪容れず、そのまま床下から転がり出る。目の前で護衛の一人と交戦中だった男の腹を切りつける。そのまま、少し離れて二人の刺客と睨み合う樂めがけて走る。
一人を後ろから蹴り飛ばし、もう一人の男は振り向きざまに胴を払う。
「奥方様!」
翠玉の参戦に驚きながらも、翠玉に蹴られた男を確実に仕留めた樂が声を上げる。
「合図ありがとう。あとは己の相手に集中なさい」
それだけ言うと、樂に背を向け、刺客達がこちらを視認した事を確認する。
数は十人ほどだ。なるほど、姿格好はあの夜の連中と全く一緒だ。
「諦めてはいなかったわけね!」
見渡せばこちらの護衛も数人地面に落ちて事切れている。
なかなかの手練れを揃えて来ているようだ。
一人の男を沈め、不意打ちを狙ってきた男の腹に肘を入れ、男の腰に携えられた短剣を抜くと、その背に突き立てた。
その時点で嫌な予感はあった。柄を握る手に力が入りにくくなっている上に、動きの速度も落ちて、脚も徐々に重くなっているのが分かる。
いつもであれば、そろそろ体が温まって軽くなり、速さも増す頃なのだが……
これは、早く仕留めないとまずい。
周囲では、翠玉に群がろうとする刺客達を押しとどめるような状況になっている。無理もない、彼らの目的は翠玉一人なのだ。
そして、護衛達を突破して来た二人の男が目の前に迫る。それ以外にもまだ刺客は数人残っている。どう体力を温存しようか。
まだ楽がこの場を離れてからあまり時間が経っていない。援軍が来るまで時間はかかるだろう。
一人目の攻撃を避け、腹を蹴り飛ばす。
「っ!」
グラリと視界が揺れた。
まずい……そう思った時には体が傾き、膝を地面に打ち付けていた。ガランと、鉄の音が足元で響く。手から剣が離れたのだ。
最悪だ……
「奥方様っ‼」
樂の悲痛な声が響き、反射的に顔を上げる。まだ揺れる視界の中に、ギラリと光る金属と、それを振りかぶる男が見えた。
あぁ、まずい。これは避けられない。諦めるように、自然と目を閉じた。
すぐに、ドンと鈍い音がする。思いの外痛みはなく、死ぬ間際とは痛みを感じないものなのかと、感心する。
しかし、聴覚はまだ鮮明で……そういうものなのかと思った矢先……
ドスンと今度は大きなものが落ちる音を間近に聞き、けたたましい金属音が響いた。
「目を開けろ‼ アホかお前は! 何を諦めて戦闘を放棄している!」
次の瞬間、体を強く引き上げられ、馴染みのある怒鳴り声が耳を劈いた。
◆
冬隼は午後の修練を終え、迷う事なく、自邸とは違う方向に馬を進めていた。翠玉が後宮からそろそろ帰る頃だと思ったのだ。
用心に用心を重ね、護衛は多めにつけてある。よもや大丈夫であろうが、それでも彼女の最近の様子を見ていると、心配ではあった。翠玉が後宮から出てくるまで、まだ少し時間はあるだろうが、彼女を一人で帰すより、自分が多少待つほうがまだマシだ。
そう思いながらゆったりと馬を走らせていたその時、向かう先から、ただごとではない様子で走ってくる馬を見て、背筋に冷たいものが走った。
すぐに馬を走らせ距離を詰め、こちらに向かって来る楽に声をかける。
「どこだ‼」
「この先‼ 刺客です!」
その声だけを聞くと、馬の腹を蹴り、さらに速度を上げる。
「殿下! お待ちください!」
その後を泰誠と、護衛達が追ってくる気配を感じたが、彼らを待っている余裕はない。
翠玉を狙う者がこの時期に動くという事自体は、あり得ない話ではないと思っていた。
しかし、可能性は低かろうと油断していたのだ。
だが、そんな冬隼の考えとは裏腹に、事は起こってしまった。奴らはまだ、翠玉を諦めていなかったのだ。翠玉はまだ本調子でない。自分のせいでそうなった。
「頼むから……無事でいろ!」
幸いにも、現場にはすぐ到着できた。
しかし、視界に入ってきた状況に、一瞬で体中の血が冷えた。
形勢は圧倒的に不利だった。数いた護衛も随分減っているように見えた。
その中で自然に、目がすぐに見つけ出した翠玉の姿。彼女が立って剣を握っている姿に、ほっと息を吐いたその時だった。
男二人に対峙する華奢な体が、一人を蹴り飛ばした瞬間グラリと傾き、崩れ落ちたのだ。
「奥方様っ‼」
悲痛な樂の声が響き、彼女の目の前にいる男が剣を振りかぶる。
間に合わない。
近づいていくうちに翠玉の表情が見える。冬隼には、翠玉は目を閉じて、死を受け入れようとしているように見えた。
勝手に死ぬな‼
腰に携えた短剣を抜き取り、振りかぶった男の首めがけて投げつける。一か八かの賭けだった。狙い通り、短剣は男の首元に吸い寄せられるように飛ぶと、見事にその首に刺さり、男の体は沈んだ。
冬隼の姿を認めて、群がって来る刺客を二、三人薙ぎ払って、馬を降りると翠玉の元へ駆け寄る。先ほど翠玉が蹴り飛ばした男が起き上がって、翠玉に向かって剣を振り上げようとしている。
「目を開けろ‼ アホかお前は! 何を諦めて戦闘を放棄している!」
膝をついている翠玉の体を引っ張り上げると、自分の懐に寄せる。ついでに彼女の落とした剣を拾い、向かって来た男に突き立てた。
「とう、しゅん?」
腕の中で、翠玉が目を開き、呟くのが聞こえた。立ち上がらせた翠玉は、力があまり入らないらしく立ち方も不安定だった。相当危ない状況だったようだ。
「殿下! 奥方を連れて下がってください!」
追いついてきた泰誠が騎乗したまま走り込んでくる。彼と共に護衛達も到着したようだ。
それと時を同じくして、どこからか、高い笛の音色が鳴った。
まるで、条件反射だとでもいうように、対峙していた刺客達が、素早い動きで背を向け、走り出していく。
逃げる気だ!
「泰誠! なるべく生きて捕らえろ! 深追いはするな!」
「承知!」
泰誠と数人の護衛を見送り、周囲の安全を確認する。翠玉の肩を抱き、そのままゆっくりと座り込む。
「大丈夫か?」
顔を覗き込むと翠玉の顔色は蒼白だった。
「冬隼、助かったわ。早かったのね」
弱々しい声と、少し荒い息が頬に当たる。
「怪我はないな?」
聞くと、すぐにコクリと頷き返される。体中に返り血を浴びているものの、彼女自身に怪我はないらしい。となると、先ほど倒れたのはやはり体そのものの不調だろう。
「心配しないで。少し休めば大丈夫。ちょっと久しぶりに本気で動きすぎただけだから」
冬隼の考えを察したように翠玉がゆっくりと訴える。
「もう黙っていろ。帰ってすぐ休むぞ」
掴んだ肩をぎゅっと抱き込む。体温と心拍、息遣いが伝わり、よく生きていてくれたと安堵のため息が漏れる。
「殿下。すみません、取り逃がしました」
しばらくそうしていると、泰誠と護衛達が戻ってきた。
敵は足がつかないように、刺客を雇っているらしい。相変わらず、手慣れている。
「仕方ない。俺は宮に戻る。後を頼むぞ」
「承知しました」
泰誠の返事と同時に翠玉を抱き上げる。抵抗や抗議をする気力もないようで、今日は大人しい。
せめて横になれたらと、馬車を一瞥するが、使える状況ではなかった。
「翠玉、すまん。少し我慢しろ」
そう耳元で呟くと、彼女を担ぎ上げ、馬に乗る。
落ち着いたところで、横抱きに戻し、落ちないように肩を抱いて、胸に押し付ける。
「少し具合は悪いが耐えろ」
「大丈夫よ。ごめんなさい」
背に弱々しいながら、翠玉の手が回される。必死でしがみついているようだが、力はない。こうなるまで、いったいどれほど刺客を斬ったのだろうか……
覗き込む顔色は、相変わらず悪い。
不意に先ほどの、膝をついた翠玉の姿を思い出す。
到着が少し遅れていたら、翠玉は確実に死んでいた。しかも、あの瞬間、翠玉はそれを受け入れて、生きる事を諦めようとしていなかっただろうか……
冬隼は、ぎゅっと翠玉の肩を抱く腕に力を入れた。
◆
冬隼の腕の中は、温かく、厚い胸板を伝ってくる鼓動は規則正しくて、翠玉はそれだけでなぜか安心できた。
時折翠玉を抱き込む腕に力が入るが、それもなぜか包み込まれるように心地よかった。
体中がだるく、馬に乗っているせいか頭がグラグラして、そのまま眠気に引き込まれてしまいそうだと考えたところまでは、きちんと記憶があった。
体調を気遣って、馬の速さもゆっくりだったはずなのに、うつらうつらしているうちに自邸に着いたらしい。ぼんやりとした意識の中で、家人達の驚き戸惑う声が聞こえてくる。
「大丈夫だ。怪我はない。このまま部屋まで運ぶ」
冬隼の胸でやり取りを聞きながら、とりあえずは歩かなくて済む事にホッとして、翠玉はまた意識を手放した。
温かい手がまるで力を与えるように、頬や頭をずっと撫でてくれていた気がした。
◆
「結局、奥方様が殺った連中からも、何の手がかりも出ませんでした」
「そうか……」
衝立越しに聞く冬隼の声には抑揚がなく、泰誠は眉を寄せた。
翠玉が謎の刺客達に襲われてから数刻。冬隼への報告のために邸に来てみれば、自室にはおらず、彼は伏せた妻のいる部屋にいるというではないか。
報告があると伝えれば出てくると思ったものの、逆に部屋の中に招かれ、入り口で衝立越しに報告をさせられている。再度の刺客の襲撃を恐れているとはいえ、冬隼にしては随分と思い悩んでいる様子だ。
「殿下。お悩みになる気持ちは分かりますが、決めるのは奥方ですよ」
思い切って発した泰誠の言葉に、冬隼が息を呑む気配がした。付き合いは長いのだ。この人の性格など分かり切っている。
「奥方の知は我が軍の要です。武は我々で何とでもできましょう。ですが、奥方の知に代わりはありません。最前線に出すわけではありませんよ? そこを冷静にお考えなさいませ」
「そう、だな……」
ため息交じりの言葉が返ってくる。真面目な性格と、生い立ちの性質上、何でも自分が決めねばならぬと思い込んでしまう人である。
部下の事であればそれでいい、しかし翠玉は部下ではない。
「失礼します」
室を出る際、卓に視線が行く。おおよそ夫婦の寝室に似合わないもの……戦場図と碁石が置かれている。
彼女の能力――兵法の知恵と豊かな発想力が活きた戦術は、次の戦に必要不可欠だ。ここまで進んでいる以上は同行してもらわないわけにはいかない。
今まで冬隼は常に物事を冷静に考えて来た。ただここに来て、翠玉の事については冷静に判断できない時があるらしい。
彼の男としての成長は喜ばしい事ではあるが、時に弱点ともなるだろう。それを抑えるのも自分の役目かもしれない。
ため息を一つつき、泰誠は天を仰いだ。
◆
朝方、早めに目が覚めた冬隼が翠玉の寝顔をぼんやりと眺めていると、翠玉が祖国から連れてきた侍従――陽香が入室してきた。翠玉の側にいる冬隼の様子を見るやいなや、満足そうに微笑み礼をとる。
「昨夜よりは、辛くなさそうだ」
少しばかり居心地の悪さを覚えて、簡潔に様子を伝えてやると「えぇ」と彼女は更に満足げに頷いた。
「お顔の色も昨日とは見違えるようでございますね。旦那様が、付いていてくださったおかげでございますね」
弾むように言いながら、持ってきた水桶から手拭いを絞り、翠玉の顔を拭きはじめる。
陽香の言葉に、昨日から胸の中で渦巻いている思いが刺激され、胃の腑がギュッと縮まるような感覚に襲われた。
「俺がいた事は、こいつには関係ないだろう」
自嘲気味に小さく呟くと、陽香は手を止めて、こちらをじっと見つめてきた。
流石、桜季と並ぶ経験を持つ女官だ。何気なく漏らしてしまったこの一言に何かを察したのだろう。
「何か、先の出来事で気になられる事がございましたね?」
先ほどまでの嬉しそうな様子から一転し、表情を硬くして問うてくる陽香にはどうやら心当たりがあるらしい。翠玉と長い付き合いの彼女である。話してみるべきだろう。
「こいつ、昨日の戦いで俺が助けに入る直前、振り上げられた刃を避けようともせず瞳を閉じたんだ」
どういう反応を示すだろうかと探りながら、昨日のあの場面を伝えてみる。
陽香のこちらを見つめていた瞳が、一瞬大きく開かれ、そしてすぐに視線が落ちた。
「左様にございますか……」
陽香は小さく頷くと、悲しげな視線を翠玉に向ける。取り乱す様子がないところを見ると、彼女にとって、そう意外な事でもないらしい。
「こいつは嫁ぐまで、自分に存在価値がないと諦めて生きて来ていた事は知っている。いつ死んでもいいと思っていたのかもしれないとも容易に想像がつく。だが、今でもそうなのかと思うと、どうしてやるのがいいのか分からないのだ」
この国に、冬隼の元に嫁いで来て、新たな役割を与えられ満足している様子であっただけに、あの反応には参った。自分達はまだ、翠玉にとって死ねない理由にはなっていない事を知ってしまった。
「今のままで大丈夫でございますよ」
チャプチャプと水跳ねの音を立てて、陽香が手拭いを桶に戻すと、しっかりと背筋を伸ばしてこちらを見つめてきた。
表情は先ほどの硬い様子とは打って変わってとても柔らかく、温かい。
「そこまで旦那様が分かっていらっしゃるのであれば大丈夫でございます。翠姫は諦めなくていい事や役割がある喜びをようやく知る事ができ始めているところなのでございます。まだ、日も浅く発展途上でございますので、十数年ものの諦め根性の方が勝ってしまいますが、月日を重ねていけばご心配はないかと思います」
何しろ根は理論的ではなく直感的な性格なので! と最後に呆れ交じりに微笑んだ。
「諦め根性……か」
「もちろん、ご自分の事に関してのみのお話です」
だから困ったものなのだと、陽香は眠っている翠玉を睨めつける。
「きっとご自分がいなくなった時に、旦那様が悲しまれて、辛い思いをなさると気づけば、翠姫も死ぬのが怖くなりますよ。もともと、この方は大切な人達を失う辛さを知っている方でございますから」
「それにこいつが、気づくのかが問題だな……」
ため息交じりに寝顔を眺める。
「なかなか手強い相手に思えて仕方がない」
「左様でございますね」
くすくす笑いながら、陽香は桶を持ち出て行ってしまった。
残されたのは、冬隼と未だ眠り続ける翠玉のみ。恐る恐る手を伸ばして、今しがた清められたばかりの翠玉の頬に触れる。
温かくて、柔らかい。本当ならば、翠玉が目覚めるまでこうして側についていてやりたいと思っていたのだが、顔を拭かれても目覚めないところを見ると、まだしばらくは目覚める事はなさそうだ。
どうしても脳裏によみがえるのは、昨日のあの危うげな彼女の姿。少しでも顔を合わせて会話ができたら、これほど後ろ髪引かれるような気分はしないだろうに……
そんな事を考えていると、室の扉の向こう側に人の気配を感じる。そろそろ支度の刻限らしい。冬隼は寝台を揺らさないよう、極力ゆっくりと起き上がって部屋を出た。
◇
昼餉の時間。冬隼は、いつもより少しばかり早めに邸に戻り、加減はどうかといの一番に翠玉の部屋を訪ねた。だがしかし……
「いない!?」
ガランとした室内を見て呆然とした
護衛の姿もないため、何かあったわけではなさそうだが……病み上がりの体でまた無茶をしている事だけは間違いなかった。慌ててバタバタと窓を開けてみるが、寝室側の庭にも姿は見当たらない。そのまま隣の執務室を覗くがそこにも姿はなかった。
残すは一つだ。
嫌な予感を抱えながら、中庭へと歩みを進めると。
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