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シーン3

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「あの……、変なこと言うかも知れないですけど、私、一年前に希がいなくなってから、実は変な夢を見るんです。模様のある黒い振り袖を着た私が溺れて死ぬ夢なんです」
 叶の話を真剣な顔つきで聞いていたが、途中驚いたように考え込んだ。
「溺れる夢なら希さんかも知れない……。おみず沼で見つかったから」
「じゃあ、やっぱり希は溺れて死んだんですか……」
 屋敷で見た、ずぶ濡れの幽霊は希だったんだろうか。だとしたら、電車で「クルナ」と囁いたのも、希のような気がした。面倒なことになるのを避ける為に、菟上家まで来た叶に「カエレ」と忠告したんだろう。
 そう思うと顔も声も覚えていない希に、叶は一度でもいいから生きて会いたかったと目頭が熱くなった。
 分からないことはまだたくさんある。叶は指で目を擦って涙をごまかした。
 その隣で一夜が天を仰ぎ、
「雨が降りそうだ。長居しすぎたかも知れないね。戻ろうか」
 二人で畔の広場から遊歩道に向かって歩きだした。
 叶は鳥居を見るのは恐ろしかったが、勇気を出して後ろを振り返る。暗くどんよりとした空を背景に、重く陰る石の鳥居からは、あの異形は消えていた。
 おみず沼の水面を眺め、きっと晴れ間にこの沼を見たら、思いもしない美しさに見惚れるのだろうと思ったが、今は只々何かを隠して見せない黒い蓋のようにしか思えなかった。
 道すがら、一夜に叶は話しかける。
「あのっ、『みつちさま』という名前が書かれている文書とか何かないんですか?」
 一夜がチラチラと叶を振り返りながら、舗装された遊歩道から、緩やかな坂になっている公道に出た。
 午前に降った雨の名残が公道のアスファルトに残っている。アスファルトが吸った熱気が、蒸気のように叶を包み込む。肌がじっとりと汗ばみ始めた。
「合祀されたときに『みつちさま』に関する書物や掛け軸、ありとあらゆるものが焚書されたんだよ。それだけじゃない。特に雨乞いや神託に必要だった巫女舞も、淫祠邪教といわれ、非科学的なものは日本国民を惑わすなんて言って、巫女禁断令によって棄却されたそうだ。さっきも言ったとおり、菟上家や菟足村の人たちは『みつちさま』から『おかみさま』に名前を変えて、細々と信仰を続けたけど、今ではもう由来や作法を知っている人はいないんだ。雨乞いもね。霊力のある巫女が不在なまま、数十年も、皆、乏しい知識で信仰を続けているんだ」
 一夜は息も切らさず、合祀以後の民間信仰の難しさを説明してくれた。
「でも、人身御供伝説については残ってました」
「ずいぶん昔に聞き取りされたものじゃないかな。それを裏付ける史料はもうないよ」
 叶は汗だくになりながら、一夜にようよう付いていき、聞いた話を心の中で反芻する。
 カーブにさしかかったとき、魔のS字カーブの怪談を思い出した。菟上家に向かっている最中にあそこでいったん車から下りて、カーブミラーに手を合わせたのだった。
 あの坂は緩やかな勾配でトンネルに入るため、さらに見通しが悪くなる。おそらく斜面側からガードレールを越えて公道へ出たとき、トンネルを抜けてくる車に気付かないし、車の方も人に気付かずそのまま突っ込んでしまうだろう。
 夢の中で希は斜面から公道へ飛び出した。暗い中、車のライトに気付いたときにはすでに遅かったのだろう。希は轢かれて意識がなくなったあと、おそらくおみず沼に落とされて死んだのだ。
 空気がじっとりと湿り気を帯びる。山肌が剥き出しの公道は、離合するのがやっとな道幅だが、やってくる車はいないに等しい。いたとしても、皆、菟上家に向かう車だった。
 振り返ると公道の先の梢の隙間から、廃墟の一端が見える。その垣間見える窓から人が外を覗いている。
 白い面がまるで仮面のようだ。
 人のように見えるが人でないのは一目瞭然だった。窓枠ギリギリまで大きくなった仮面の口元が、耳までつり上がって嗤っている。悪意の塊のそれは、何も知らない来訪者を手ぐすね引いて待っているのだ。あんなものがいる廃墟によく入っていけるものだ。
 あの窓のフロアで一夜のWoooTuber仲間だったhiroが、放心状態で見つかったのだろう。hiroもウタもその後どうなったのだろう。あまり良い後日譚は聞けそうにない。
 仮面から目をそらして、叶はおみず沼を見やった。
 灰色にたゆたうおみず沼には、一体何が潜んでいるのだろう。そのことばかりが叶の脳裏をよぎる。
 少し遠回りをして、叶と一夜は菟上家に戻ってきた。
 駐車場の車の数と、玄関に並べられた靴の数で、ずいぶん多くの弔問客が訪れていることが分かる。
「そろそろ準備をしないと、ギリギリだ」
 一夜が慌てて靴を脱いで玄関の上がり框に足を掛け、叶を振り返った。
「君も葬儀の準備をしてきたら?」
「そうします」
 叶が答えた途端、背後から激しく地面を鳴らす音がしてきて、大粒の雨が砂利に降り注いだ。


 希の葬儀は異例だったため、火葬だけ先に済ませた状態で戻され、屋敷で葬儀がおこなわれた。
 叶は見たことも聞いたこともない葬儀に戸惑いながらも、周囲の真似をしてなんとかやり過ごした。
 にび色の斎服を着た、まだ顔合わせもしていない父が祭文を唱え続けている。一夜も鈍色の浄衣じょうえ姿で、側に控えている。
 美千代に促されて慣れない手つきで白いひらひらしたものを付けた榊を祭壇の前の机に捧げる。祭壇に向かって、二回深くお辞儀をし、しのび手で音をさせないように二回手を打ち、また一礼する。
 その間もずっと父——宮司である天水の独特な発音の声が座敷中に響き渡る。日本語なのだろうが、叶には聞き取れない。
 儀式を終えると、一旦部屋を出て、鈍色の斎服から白色の斎服に着替えた天水が、今度は帰家祭の祭文を上げ始めた。
 無事に葬儀が終わり、希の位牌のようなものが、祭壇に収められた。
 帰家祭葬儀のあと、座敷のざぶとんを片づけ、代わりに折りたたみの座卓が並べられた。直会なおらいの準備ができるまで、弔問客に交じって、何をしていいやら分からない叶は座敷の隅に座っていた。
 弔問客の数人が、チラチラと叶を見ては何か囁きあっている。
 叶はもうここまで、自分がここに来たことが伝わっているんだと思い、少し不愉快になった。自分は本家の人間ではなく、氷川家の一人娘だと強く思う。しかし、そういう意固地な思いが、反対に養父母を困らせてしまうかも知れない、と考えて硬い笑顔を浮かべる。
 現に、養父母もここに来ているはずなのに、声を掛けてくれない。見捨てられたような気持ちになって今度は泣きたくなる。
 昼まで開け放たれていた、広縁の掃き出し窓は閉じられて、窓ガラス越しの風景は、ガラスに叩きつけられる雨ににじんでモザイク模様になっている。
 帰っても養父母から拒絶されたら、と急に不安になってくる。逃げ場を失って、帰るところすら奪われたらどうしたらいいのだろう。
 ぼんやりと外を眺めながら考え込んでいると、「叶さん」とまた声を掛けられた。
 ハッとして顔を上げると、午前中に自分を案内してくれた女性だった。見知った顔だったので、なんとなく叶は安堵した。
「美千代さんがお呼びです」
 嫌な予感がしたが、断るわけにはいかず、ゆっくりと立ち上がって女性の後ろに付いていった。暗い廊下を何度か曲がり、奥座敷に通される。葬儀を途中で下がった美千代が、大儀そうに座椅子に寄りかかって座っていた。
「叶、座りなさい」
 立ち尽くしている叶に美千代が座れと促す。
 分厚いざぶとんに渋々と正座するのを見届けて、美千代が遠くを見るような目つきで叶を見つめる。
「もうすでに話したかも知れないですが、今日からこちらに居を移してもらいます。できるだけ早く一夜との婚儀も準備しますよ」
 嫌な予感が的中して、叶は思わず大きな声を上げた。
「聞いてません! なんでわたしがここで暮らさないといけないんですか。一夜さんと結婚とか、そんなことしません!」
 突然、壁が激しく叩かれた。床の間のたがい棚がビリビリと震える。隣の部屋の人間が、叶の声の大きさに苛立ったのだろうか。叩かれた壁を驚いて見ていると、美千代が咳払いをした。疲労の浮かぶ感情のない目を向けてくる。
「嫌とかそういう問題ではないのです。このままだと菟上本家は絶えてしまいます。あなた一人しか残ってないのですから、本家の人間として責務を全うしなさい」
「責務って……、私を養女に出しておいて、希が死んだら戻ってこいとか、私はものじゃない。そんなだから、希も逃げ出したんですよ!」
 すると、美千代が目を剥いた。
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