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後日談

1.私と彼の幸せ

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「平原さーん、平原倫さーん! エコー室の前でお待ちくださーい」
 
 もう顔なじみになった助産師さんに呼ばれて、私は小さく返事をした。
 以前よりずいぶんと重くなったお腹に気を遣いながら立ち上がろうとすると、隣に座っていた大和さんがすかさず手を貸してくれる。
 
「急がなくていいよ。バッグ持つから貸して」
「そんな、大丈夫ですよ」
「いいから貸して。それとも、また手繋いで行こうか?」
「いやっ、結構です!」
 
 さほど広くない医院内で手なんて繋いだら、笑われるに決まっている。前もこうして半ば無理矢理手を繋がれて、先生に「ラブラブですねぇ」なんて冷やかされてしまったのだ。ただでさえ大和さんは目立つのに、地味な私までこれ以上目立ちたくはない。こうして脅してくるのは彼の常套手段だけど、こんな時くらいは勘弁してほしい。
 
 ゆっくり歩いて廊下に向かうと、助産師さんが待ってくれていた。二人揃って挨拶すると、何だかにこにこしながらエコー室のドアを開けてくれる。
 
「今日も旦那さんとご一緒なんですね! いいですねぇ、毎回旦那さんが付いて来てくださって」
「あはは……一人で大丈夫、って言うんですけど……」
「どうしても心配になっちゃって。それに、最近は検診が一番の楽しみなんですよ」
 
 その言葉通り、大和さんは検診のたびに私よりわくわくしている。
 私はもう仕事も産休に入っているのだが、大和さんがどうしても一緒に妊婦検診に行くと言って聞かないので、彼の休みに合わせて検診に来ているのだ。
 
「それでは準備しますので、旦那さんは少し廊下でお待ちくださいね」
「はい」
 
 まず私だけがエコー室に入って、助産師さんがてきぱきと準備をしてくれる。
 気になることはありませんか、とか、困ったことはありませんか、など聞かれたことに答えているうちに、準備が整ったようだ。
 
「では、旦那さんお呼びしても大丈夫ですか?」
「はい、お願いします」
 
 助産師さんが声をかけると、すぐに大和さんが部屋の中に入ってきた。琥珀色の目を輝かせている彼がなんだか可愛くて、私は思わず微笑んでしまう。
 彼はこうして一緒に検診に来て、赤ちゃんが無事に育っているのを見るのが楽しみで仕方ないらしい。もちろん、私も毎回楽しみにしている。
 
 大和さんがこんなにも嬉しそうにしてくれるから、私もこのお腹の中にいる命を大事にしなければと思うのだ。あまり自分の体を気遣ったことは無かったけれど、今では大げさなくらい気を付けている。まあ、無理をすると彼に本気で怒られるから、というのもあるけれど。
 助産師さんが丁寧に説明してくれる中、食い入るように画面に見つめる彼に、私と助産師さんは揃って苦笑した。
 




 検診の帰り、私と大和さんは駅前にあるファミリーレストランでお昼を食べていた。今日はもうこれで用事はないから、ゆっくりお昼を食べて少し買い物をしてから家に帰る予定だ。
 ハンバーグステーキを食べ終えた大和さんは、のんびりとオムライスを食べている私をじっと見つめている。ちょっと居心地が悪くて目線で訴えると、彼は小さく笑った。
 
「倫って本当に美味しそうに食べるよね。かーわいい」
「なっ……ちょ、ちょっと大和さん、外ではそういうこと言わないでください」
「どうして? 誰も聞いてないよ」
「そういう問題じゃないんです! は、恥ずかしいからっ」
「ふふっ、恥ずかしがる倫も可愛い」
 
 これはもう何を言っても駄目だ。
 諦めて、怒ったふりをしてオムライスを再び食べ始める。私が本気で怒っていないことなんてバレバレだと思うけど、ふりだけでもしないと気が済まない。
 
 そして私もオムライスを食べ終わると、セットのコーヒーとミルクティーが運ばれてきた。
 それを飲んでいると、お皿も片付けてもらってすっきりしたテーブルの上に、大和さんがバッグから取り出した本を広げた。
 
「ねえ倫、名前どうする? ずっと考えてるんだけどさ、どれもピンと来なくて」
 
 大和さんが取り出したのは、いわゆる名付け辞典という本だった。まだ性別も分からない時にこれを買ってきてから、彼は家でもずっとこれを読んでいる。どうやら、仕事帰りにわざわざ本屋に行って買ってきたらしい。
 ちなみに前回の検診で分かったことだが、お腹の子はどうやら男の子のようだ。今日の検診でもそう言われたから、たぶん確定だ。
 
「漢字の意味とか難しいけど、考えるのすごく楽しいんだ。仕事中もにやにやしてたみたいで、お客さんに変な顔されちゃったよ」
「え……変な顔されるくらいならいいですけど、運転気を付けてくださいね」
「うん、それは大丈夫。前にも増して気を付けてるから」
 
 そう言って笑いながら、大和さんはコーヒーを一口飲んだ。確かに、彼が危ない運転をするはずがないから大丈夫だろう。
 
「そうだ。あのさ、倫は自分の名前の意味知ってる?」
「え? えーっと、確か呼びやすいから『りん』にしたってお父さんが……」
 
 小学生の頃、「お父さんお母さんに自分の名前の由来を聞いてきましょう」という宿題があって、確かその時聞いた気がする。私自身も言いやすいし、名前の響きは気に入っているのだ。
 結婚して苗字が変わってからは、「ひらはらりん」となんだかマンガの効果音みたいな響きになって、大和さんと一緒に笑った覚えがある。
 
「この本、漢字の意味とかも載ってるんだけど……『倫』の漢字、どういう意味か分かる?」
「うーん、考えたことなかったですね。載ってましたか?」
 
 漢字に関しては、どうせなら凛々しいの「凛」とか、もっと説明に困らない字にしてくれればよかったのに、なんて思ったこともあった。そうすれば、「不倫の倫」だなんてお決まりのフレーズで説明しなくて済んだのに。
 私が尋ねると、大和さんはなんだか嬉しそうに語り出した。
 
「倫って漢字はね。人の守るべき道筋、人の行うべきみち、って意味があるんだって。倫にぴったりだと思わない?」
「え……そ、そうですか……?」
「うん。倫は、お父さんお母さんが名付けた通りに育ったんだね。だから俺も、その子が将来『ぴったりの名前ですね』なんて言われるような、誇れる名前をつけてあげたいんだ」
 
 そう語る大和さんは、すでに子どもを想う親の目をしていた。なぜかは分からないけれど、じんわりと私の目に涙が浮かぶ。嬉しいのか、感動したのか、とにかく彼の言葉は静かに私の胸を打った。
 
「倫、どうしたの? 具合悪い?」
「いえっ、違うんです……や、大和さんが素敵なことを言ってくれるから、なんか涙が……」
「え、そう? 分かんないなぁ、倫の泣き所は」
「ごっ、ごめんなさい……でも、その……嬉しかったんです」
 
 涙目のまま笑うと、大和さんも優しく微笑み返してくれる。私の大好きな笑顔だ。
 この笑顔が見たくて、私はずっと彼の姿を追っていた気がする。今では、ただ彼の背中を追うだけではなくて、隣に立ってこの笑顔を守りたいと思う。自惚れかもしれないけれど、彼をこうして笑顔にできるのは私だけなのだ。
 
「確かにそう言われてみれば、大和さんもぴったりの名前ですね。器が大きいというか、誰にでも優しいですし、周りの人をを和ませてくれますから」
「そうかな? きっとばあちゃんは、戦艦大和とか日本神話とかから取ったんだと思うけど」
「それでも、素敵な名前です。私、好きですよ」
 
 特に他意なくそう言ったつもりだったけど、大和さんは珍しくぽっと頬を赤らめた。
 さっき彼は私の泣き所が分からないと言ったが、私も彼の照れる所が分からない。でもこうして、たまに彼の顔を赤くできると何だか嬉しくなるのだ。
 
「……どうしよう。幸せすぎて罰当たるんじゃないかな、俺」
「ふふ、大丈夫ですよ。私がいますから」
「はぁ、もう……倫って、妙に頼もしい時あるから困るなぁ。そういうところも、もちろん好きだけどね」
 
 言いながら、大和さんが向かいに座る私の手を握った。温かいその手に思わず笑みが零れて、私もぎゅっと握り返す。幸せとは温かいものなのだということも、彼と出会って初めて知った。
 そして近くの席に座っていたおばあさんに「仲良しねぇ」と話しかけられるまで、また私はすっかり彼のペースに嵌ってしまっていたのだった。
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