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第二章

23.私が選んだあなた

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「平原さん、まだ痛いですか?」
「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」
 
 痛々しく腫れた平原さんの頬に氷をたっぷり入れた氷嚢を当てながら、私はため息をついた。
 彼は大丈夫だなんて言っているけれど、絶対に痛いはずだ。口の端からは衝撃で切れたのか血が出てしまっていたし、左頬だけ明らかに腫れている。
 
「……ごめんなさい、平原さん。お父さんのせいで……」
「謝らないでよ。殴られるのは予想してたし」
「でも、本当に殴るなんて信じられません。最初は良い感じだったのに、急に手のひら返して」
「お父さん、よっぽど倫が大事なんだね。それにしても、あんなに焦ったの後にも先にも今日だけだろうなぁ」
 
 確かに、あんな風に平原さんが言葉に詰まるのも、焦って大声を出すのも初めて見た。家族である私でさえあの時のお父さんに恐怖を覚えたのだから、彼にとってはもっと恐ろしかったことだろう。
 平原さんに申し訳なくて俯いていると、平原さんが氷嚢を持っていない方の手で私の頬をそっと撫でた。
 
「そんな顔しないで。大丈夫、倫のお父さんはやっぱり優しい人だよ」
「え……こんなに腫れるほど殴ったのに?」
「確かにそうだけど、俺を殴る前にお父さん、一瞬止まったんだ。殴らずにはいられなかったんだろうけど、目には当たらないようにしてくれたみたいだし」
「え? 目……ですか?」
「うん。だってもしこれで片目が腫れて見えなくなったら、俺は仕事できなくなるでしょう? だからたぶん、外してくれたんだと思う」
 
 平原さんはそう言って笑っているけれど、私は腑に落ちなかった。そんなことを気にする余裕があるなら、そもそも殴らないでほしかったのに。
 
「それにしても、本当に倫は愛されてるね。俺、なんか感動しちゃった」
「そ、そうですか?」
「うん。お父さんの話聞いてたら、そりゃ俺なんかが急に出てきて倫をください、なんて言ったら怒るよなぁって納得しちゃった。その大事な倫に手出したんだから、殴られて当然だね」
「……なんで、お父さんの肩持つんですか? 殴られたのに」
 
 ぶすっとした顔でそう言う私を見て、平原さんは薄く笑った。左頬が痛いせいか、ぎこちない笑い方だ。
 
「だって、俺も将来お父さんと同じ立場になるかもしれないんだよ? そう思ったら、とても他人事には思えなくて」
「あ……」
「大切に育てた娘がぽっと出のよく分かんない男に取られるなんて、きっとものすごく寂しいんだろうな、って思ったんだ。倫のお父さんは、それを面と向かって言ってくれただけ優しいよ」
「……優しくは、ないと思いますけど」
「そう? ふふっ、でもなんか嬉しかったな。倫や千尋くんが庇ってくれたのも嬉しかったし、お父さんに殴られるのってこんな感じなんだ、って感慨深かったよ」
 
 殴られたというのに、なぜか平原さんは喜んでいる。まだ私は腑に落ちなかったけれど、そう言って笑う平原さんが無性に愛おしくなって、腫れていない方の頬に軽くキスをした。
 
「ありがとう、倫。大丈夫だよ。俺、お父さんに認めてもらえるように頑張るから」
「……はい」
 
 そう言って、平原さんは氷嚢を置いてそっと私の唇に口付ける。少し冷たい彼の唇を感じながら、こんな風に彼と共に励まし合って、支え合って生きていけることが幸せだと思った。
 平原さんと家族になるためだったら、お父さんに殴られたくらいでしょげてはいられない。彼と一緒に、どんな困難も乗り越えていこうと決めているのだ。
 私の決意を平原さんに伝えるように、痛くない程度に彼の唇を食む。彼もそれに応えてくれて、私は夢中になってキスをした。
 
「姉ちゃん? 母さんがもう降りてきていいって…………あ」
「あ」 

 キスに集中しすぎて、部屋のドアを開けっ放しにしていたのを忘れていた。
 そのドアからひょっこり顔を出した千尋と思いっきり目が合って、私は慌てて平原さんと距離をとった。
 
「……姉ちゃんたちさ、案外余裕だね。親父があんなに怒ってたのに」
「い、いや違うの! 今のはそのっ……!」
「オレは姉ちゃんたちがいちゃついてんの見慣れてるからいいけど、親父の前ではやめときなよ。特に今は手負いの獣って感じだし」
「そうだね。気を付けるよ」
 
 キスしているところを見られて慌てているのは、なぜか私だけだった。
 人目を気にしない平原さんは置いておくにしても、千尋までどうしてこんなに冷静なんだろう。千尋は呆れながら、先に行っていると言って再び階下に降りて行った。
 残された私たちも、目を合わせて頷いて立ち上がる。平原さんの顔も、また真面目な顔に戻ったみたいだ。
 
「行こうか、倫」
「はい」
 
 お父さんが落ち着きを取り戻していることを願いながら、私たちは階段を下りた。
 





 リビングに着くと、難しい顔をしたお父さんの隣に、お母さんがにこにこしながら座っていた。どうやって宥めたのか分からないけれど、お父さんはもう泣いてもいないし怒ってもいない。さすがお母さんだ。
 
「……座りなさい」
 
 低く絞り出すような声で、お父さんがそう言った。素直にそれに従ってソファに座ると、隣で平原さんも失礼します、と言って腰かけた。
 張りつめた空気が漂って、まるで我が家ではないみたいだ。
 
「まずは、平原さん。先ほどはあなたに暴力を振るってしまって、本当に申し訳ありませんでした」
 
 お父さんがふいに立ち上がると、平原さんに対して深々と頭を下げた。隣に座っていたお母さんまで一緒に頭を下げている。それを見て、平原さんも慌てて立ち上がった。
 
「顔を上げてください。元はと言えば私が……」
「いえ、謝っておかないと、あなたと対等に話す権利はありません。お仕事をする大事な体なのに傷つけてしまって、本当にすみませんでした」
 
 そう言ってもう一度頭を下げてから、お父さんはようやく顔を上げた。表情から察するに、かなり反省しているらしい。普段はほとんど声を荒げることはしないし、私や千尋以外の人に手を上げることなんて初めてだったんじゃないだろうか。
 平原さんに言われて、お父さんとお母さんも再びソファに座った。それを見て、平原さんもほっとしたように私の隣に座る。
 
「……妻から、聞きました。倫が悩んでいた時、支えてくれたのがあなただったと。それに、高校に入ってからずっとふさぎ込んでいた倫が、あなたのおかげで前向きになれたと」
「いえ、それは……」
「私自身、ある時期から倫がずっと悩み続けているのには気付いていました。でも高校生の時なんて、親に口出しされるのが一番嫌でしょう? だから、倫が自力で乗り越えられるまで見守ることしかできなかった……ずっと一緒に暮らしてきたのに、自分は何て無力なんだと思った」
 
 お父さんが、どこか遠くを見ながら独り言のように呟いた。
 何も考えていないと思っていたのに、お父さんも私の変化に気付いていたらしい。きっと、そのきっかけが何だったかも分かっているのだろう。
 中学三年生のあの春の日、父と母から私だけ血が繋がっていないのだと聞いたあの時以来、それについて家族で話すことは無かった。必要なかったとも言えるけれど、その話をして家族が壊れることを恐れていたのだ。きっとそれは私だけでなく、両親も。
 
「倫は昔から大人しくて、人見知りで、そのせいか私たちも過保護に育ててしまいました。男の子と違って女の子は心配事が絶えないし、それに加えてうちの倫は美人でしょう? もう心配で心配で」
「はい、それはよく分かります」
「お、お父さん、恥ずかしいからやめて」
 
 こんな場面で親バカを発揮するのはやめてほしい。平原さんまで大きく頷いて同意してしまったではないか。
 同意を得られて嬉しくなったのか、お父さんの話はどんどん主軸からずれていく。
 
「保育園の頃から可愛くてね、道端でしょっちゅう声をかけられるんですよ。一回、子役のオーディションを受けないかなんて言われたこともあって! なあ、母さん!」
「お父さん、違うわよ。あれはこの辺で映画を撮るから、エキストラで出てくれって頼まれたんじゃない」
「あれ、そうだったか? まあ結局、倫が泣いて嫌がるもんだからやめたんですよ。でもそれくらい可愛くてねぇ、一度肺炎にかかって入院したときは可哀想で見てられなかったもんですよ」
「へえ、そんなことがあったんですね」
 
 お母さんも話に乗ってしまうし、平原さんが絶妙なタイミングで相槌を打つものだから、お父さんはどんどん調子に乗っていく。楽しそうな三人を後目に、私と千尋はあきれ顔だ。
 
「ずっと書道をやっていたでしょう? あれもねぇ、小学生の時に町の展覧会に出してみたら、近所の書道教室の先生が倫の作品を見て、うちの教室に来ないかって声をかけられたんですよ! よっぽど才能があったんだろうなぁ」
「違うよ、あの書道教室人が少なくてつぶれそうだったから……」
「それに小さい頃から父さんと公園でかけっこしてたせいか、足も早くてね! 運動会のリレーの選手もやったよなぁ、倫」
「補欠だけどね」
 
 どうもお父さんの思い出は美化されがちだ。一つ一つ訂正しながら、もうお父さんの好きに語らせようと思って諦める。緊張していた平原さんも、楽しそうにお父さんの話を聞いているから良しとしよう。
 
「それに大学に入ってからはたまに夕飯を作ってくれるようになって、母さんも料理上手だけど倫の料理もまた美味しくて! この前は父さんのお弁当も作ってくれて、会社で自慢したらみんなに羨ましがられてねぇ」
「ほんと、倫ちゃんがお手伝いしてくれるからお母さんも助かるわぁ」
「小さい頃から、千尋の面倒もよく見てくれて! 倫が六歳の時に千尋が産まれたもんですから、おむつ替えたり抱っこしたり遊んでくれたり、おかげで私は千尋のおむつはほとんど替えてないんですよ!」
「そんな誇らしげに言うなよ……」
 
 お父さんの親バカは留まることを知らない。
 お母さんが口を挟んでも、私や千尋にいくら突っ込まれても、お父さんは機嫌よく語り続けた。我が父ながら、よくここまで大げさに自慢ができるものだと感心してしまう。
 
「本当に、私にはもったいないくらい出来た娘なんです。何でも一人で抱え込むところは厄介ですが、その分一人で何でもできるようになったし、しっかりした子になって」
「そうですね。私も助けられてばかりです」
「ははは、そうですか! いやぁ、倫のことを語り始めたらきりがない。それくらい、本当に出来た娘で……」
 
 調子よく語っていたお父さんが、そこで言葉を切る。
 そして、向かいに座る平原さんの目をじっと見つめて、一言一言しっかりと口にした。
 
「……だから、平原さん。倫のことを、誰よりも、何よりも大事にすると誓ってくれるなら、他には何も望みません。私たち以上に倫を愛してくれれば、それでいいんです。倫が選んだあなたが傍にいてくれたら、きっと倫は自分で幸せになれます。幸せにしようなんて思わなくていい。ただ泣かせないでいてくれたら、それでいい」
 
 私も、平原さんも、お母さんも、千尋も、お父さんの言葉をじっと黙って聞いていた。
 ついさっきまで親バカだと呆れていたのに、ただひたすらに家族を愛してくれるお父さんの気持ちを知って、私は何も言えなくなる。胸の奥がぎゅっと苦しくて、この気持ちが何なのか、この時の私には分からなかった。
 
 少しの間、誰も何も言わなかった。お父さんも、照れくさそうに笑うだけで返事を急かしたりはしない。
 沈黙が流れる中、一番に口を開いたのは平原さんだった。 

「……はい。分かりました」

 その短い言葉に、どれほどの決意が込められていたのだろう。
 しっかりと、確かに頷きながら平原さんはお父さんにそう一言だけ返した。
 でもそれだけで、お父さんは納得したようだった。頷きながら片手で目元をぬぐって、そして隣に座るお母さんに明るく声をかける。
 
「母さん、お昼ごはんにしようか!」
「ええ、そうね。昨日から倫ちゃんと二人で、腕によりをかけておもてなし料理を用意したんです。平原さん、召し上がっていってくださいね」
 
 お母さんはそう言って立ち上がると、嬉しそうにキッチンへ向かう。オレも手伝う、と言って千尋も後に付いていった。
 ようやくいつも通りの温かい我が家に戻って、私は嬉しくなって思わず平原さんの手を握った。大事な人たちに囲まれている幸せが、胸いっぱいに溢れてくる。平原さんと一緒にいると、こんな幸せが何度も何度も訪れるのだ。
 少ししてお父さんが何か言いたげに大げさな咳払いをするまで、私と平原さんはずっと手を握り合っていた。
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