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第一章

17.私と夏のバス

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「ねえ倫、今週の日曜日は空いてる?」
「日曜日……あっ、ごめんなさい。今週の土日は、学校の夏期講習で……」
「そっか、それなら仕方ないね。そろそろ海に行こうと思ってたんだけど」
「……海、私も行きたいです。夏期講習、一日くらい休んでもいいのでその日は……」
「だーめ。受験生にとっては、夏休みが勝負なんでしょう? 俺が連れまわしたせいで倫が落ちたりしたら嫌だから。また別の日に、息抜きで行こう」
「……はーい」
 
 今日は一学期の終業式だった。
 学校は午前中で終わりだったので、お休みだった平原さんとお昼からデートすることになったのだ。場所はいつもの喫茶店だけど、今日は初めてそこでランチを食べた。値段の割にボリュームのあるナポリタンは、シンプルな味付けだけどとても美味しい。
 
「こうやって会うのも、勉強の邪魔だったら言ってね。倫の負担にならないようにするから」
「……負担なんかじゃ、ないです。平原さんと会えなくなったら、それこそ勉強に集中できません」
 
 最近の平原さんは、やけに私に対して気を遣ってくれる。それはとても有り難いのだが、私は「平原さんは私と会えなくなっても寂しくないんですか」という卑屈な台詞を飲み込んでばかりだ。
 
「もう、可愛いこと言っちゃって。ほら、そんな拗ねた顔しないでよ」
「す、拗ねてないです!」
「それならいいけど。俺に何か手伝えることあったら言ってね。倫が受かるように、何でも協力するから」
 
 平原さんにも、地元の大学を目指すことにした、と報告した。それを聞いた彼は優しい笑みを浮かべて、頑張ってね、と励ましてくれた。
 私はてっきり平原さんは一刻も早く結婚して子どもがほしいものだと思っていたから、「高校卒業したらすぐ結婚しよう」とでも言われるのかな、なんて考えていた。でも彼は、私が決めた進路に対して何も言わないでただ応援してくれている。
 勝手に変な想像をしていた自分が恥ずかしくなって、でも平原さんは本当に私と結婚するつもりあるのかな、と少し疑いたくもなってしまう。
 
「さて、そろそろ帰ろうか。明日も朝から夏期講習なんでしょう?」
「あ……はい、そうですけど……でもまだ大丈夫ですよ」
「ふふっ、嬉しいけど、今日はもう帰ろう。課題たくさんあるんじゃないの?」
「……あります、けど。でも夜やるので大丈夫です」
「駄目だよ倫、夜更かししたら。聞いた話だけど、夜頑張って遅い時間まで勉強しても、しっかり睡眠をとらなきゃ脳にインプットされないんだって。ほら、早めに帰って寝なくちゃ」
 
 そこまで言われてしまったら、もう駄々をこねられない。
 やっぱり平原さんは大人だ。私なんか、少し気を抜いたら勉強なんかそっちのけで平原さんに会いたくなってしまうのに。
 それは彼が大人だから我慢できるのか、それとも私ほど会いたい気持ちが強くないから我慢できるのか、私には分からなかった。
 
 結局、今日は外もまだ明るいうちに家に帰ることになってしまった。
 学校前からバスに乗って、私は平原さんが降りるより前のバス停で降りる。にこやかに手を振る平原さんに手を振り返しながら、私は言いようのない寂しさを感じていた。
 




「それじゃ、今日はここまで! 明日はこの続きからやるので、予習しておくように」
 
 やたらと日当たりのいいこの教室は、冬はいいけれど夏は地獄だ。
 この学校にはエアコンなんて気の利いたものは設置されていなくて、気休め程度の扇風機が置かれている。しかしそんなものでこの猛暑を凌げるわけもなく、生徒たちは先生の話を熱心に聞きながらも手でうちわを作って扇いでいる。そうしたところで、やっぱり熱いのは変わらないのだが。
 そんな暑さにも耐え、ようやく太陽が傾いて陽射しが弱まってきた頃に土曜日の夏期講習が終わった。
 
 ノートや教科書を鞄にしまって、教室を後にする。
 七海はもうテニス部を引退したけれど、文系の私と違って理系のコースを選択しているから、夏期講習ではタイミングが合わないと会うこともない。
 今日も七海とは帰る時間が合わなかったので、私は一人でバス停へと向かった。
 
 バス停に着くと、同じく夏期講習を終えた生徒たちが大勢いた。今日は特等席に座れないかもな、と思いながらバスを待つ。受験生らしく英語の単語帳を開いて待っていると、時間通りにバスがやってきた。

 単語帳をしまって、いつものようにまず運転席を見る。その瞬間、暑さも忘れて胸が高鳴った。
 運転席に座っているのは、平原さんだ。
 
 内心うきうきしながらバスに乗ったが、今日はやっぱり混んでいて特等席には先客がいた。特等席どころか、後方の席もすべて埋まってしまっている。
 仕方なく吊り革に掴まって立って乗る。他にも何人か立っている人がいるし、今日はタイミング悪くちょうど混んでいるバスに乗ってしまったようだ。
 でも平原さんのバスに乗れたことの方が嬉しかったから、私はにやける顔を押さえながら窓の外を見て、時々バックミラー越しに見える平原さんに視線を送った。にこっと微笑んでくれたから、彼も私に気付いたみたいだ。
 
 長時間集中して疲れていたけれど、私はそれだけですっかり上機嫌になっていた。
 早く平原さんとちゃんとデートしたいな、と考えながら、もう一度鞄から単語帳を取り出して眺めることにする。
 

 しかし、異変はすぐに起きた。
 バスの車内は混みあっているから、隣や後ろに立っている人と多少体がぶつかりあうこともあるだろう。しかし、さっきからやけに後ろの人との接触が多い気がする。
 ちょっと不気味だけど、偶然バッグやリュックが当たっているだけかもしれない。そう思ってしばらく耐えていたのだが、スカート越しでも分かるくらいはっきりと手のひらでお尻を触られる感覚がして肌が粟立った。
 
 これは痴漢だ。たぶん。
 
 普段は滅多に電車に乗らないし、毎日乗っているこのバスもさほど混んでいることはないから、まさか自分が痴漢に遭うだなんて想像したこともなかった。
 勘違いであればよかったのに、私が何も反抗しないのをいいことに手の動きは止まらない。ていうか、痴漢って本当にお尻触るんだ。こんなもの触っても何にもならないのに。
 
 恐怖と嫌悪感で、まともに思考できなくなる。痴漢に遭ったらどうしたらいいかなんて、教わったこともないし考えたこともない。
 
 どうしよう。大声で叫べばいいのかな。
 でも、このバスには同じ高校の生徒たちが大勢乗っている。下手に騒いで目立ちたくない。それに万が一私の勘違いだったら、自意識過剰な女だと思われてしまう。
 そうだ。私みたいに目つきが悪くて背が高いだけの女が、痴漢に狙われるわけがない。きっとこれは何かの間違いだ。
 そう思いたいのに、お尻に感じる手の感覚だけはやっぱり本物で、気持ち悪くて吐きそうになる。
 
 赤信号でバスが止まる。ふと助けを求めるように前方のバックミラーを見たら、帽子を被った平原さんと目が合った気がした。
 
 助けて。
 でも、知られたくない。見られたくない。
 どうすればいいか分からない。助けてほしい。
 
 泣きそうになりながら、ただ強く吊り革を握ることしかできない。
 すると、お尻を撫でるだけだった手のひらが突然スカートの中に入り込んできた。
 
「ひ、ぃっ……!」
 
 全身に鳥肌が立つ。
 さすがにこれは大声を出そうと思って口を開いたのに、引きつったような声しか出せない。怖い。

 スカート越しでも気持ち悪かったのに、下着越しに撫でられるのは気絶しそうなくらい気持ち悪い。声を上げたいのに、喉が塞がってしまったみたいに呼吸も満足にできなくなる。
 
 平原さん、平原さん、平原さん。
 心の中でひたすら彼に助けを求める。目に溜まった涙が、堪えきれなくなって流れた。
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