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第一章

16.私の進む道

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 それから、私と平原さんは約束通り水族館に行った。
 彼は終始ご機嫌で、私の手をずっと握ったまま館内のあちこちを巡った。その姿がなんだか子どもみたいで、私よりいくつも年上の彼には失礼だけど、かわいいな、なんて思ってしまう。
 
 平原さんがずっと見たかったらしいイルカショーも最前列で見ることができた。前の方の席だと水しぶきがかかりますよ、と一応忠告したけれど、それでもいいと言って聞かない彼に渋々付き合って、案の定イルカさんたちに盛大に水をかけられる。
 なんだか昨日から濡れてばっかりだな、とは思ったけど、平原さんがいつになく楽しそうなので私も嬉しくなった。
 
 平原さんと一緒に歩いていると、やっぱり周りの人の視線が刺さるのが分かる。それは主に女性のものだけど、彼は特に気にも留めない。でも私からしたら気にするなと言われたってやっぱり気になってしまうものだ。彼と釣り合いが取れていない自覚があるから、なおさら。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、平原さんは繋いだ手を離そうとはしないし、ふと気づくと身体が密着するくらい近くにいる。それが恥ずかしくて仕方ない反面嬉しくもなってしまうから、離れてくださいとはどうしても言えなかった。
 
 そして二人で水族館を満喫したあと、帰りの車の中で平原さんは独り言のようにぽつりぽつりと語り始めた。
 
「この前の遊園地も、すっごく楽しかったけど……今日はもっと楽しかった」
「はい、私も楽しかったです。ありがとうございました」
「ふふっ、こちらこそありがとう。なんだか倫と一緒にいると、俺の中の足りないものを埋めてもらってるような、そんな気がするんだ」
「え……足りないもの、ですか?」
 
 平原さんに足りないものなんてあるのだろうか。
 そんな私の疑問に答えるように、彼はハンドルを握ったままいたずらっぽく笑った。
 
「愛情だよ、倫。自惚れかもしれないけど、倫から俺への愛情がものすごく伝わってくるんだ」
「へっ……!? いえっ、そんな」
「否定できないよね? 倫」
 
 全て見通してしまうような瞳で、平原さんはちらりと私の顔を窺った。こんなにも直球で言われたら、何も言い返せない。
 彼の言葉に素直に頷けるような可愛げのある人間だったらよかったのだけど、ひねくれた私は少し意地悪なことを言ってしまう。
 
「……で、でも、平原さんは、他の人にも好かれてるじゃないですか。今日だって、私なんかよりずっと綺麗な女の人が平原さんのこと見てましたよ」
「へえ、気付かなかった。倫ってばやきもち焼いてたの?」
「やきっ……!? ち、違います! 私はただ、事実を言っただけで……!」
 
 やっぱり平原さんは私なんかより一枚も二枚も上手だ。
 私のひねくれた発言の真意をいとも簡単に読み取られて、もはや少しの反論もできなくなる。
 
「倫は何か勘違いしてるみたいだけど、そういうのは愛情とは言わないでしょう? 倫だって、話したこともない人に好かれたって何も感じないと思うけど」
「……私はそんな経験ありませんけど、まぁ、確かに……」
「でしょ? 俺は倫と一緒にいるだけですごく幸せだから、本当は一日中部屋に二人きりでいてもいいんだけど……それだと我慢しきれなくなっちゃうかもしれないし、やっぱり将来の下見も兼ねていろんなところに行きたいな」
「し、下見?」
 
 なんだか途中で不穏な言葉が聞こえた気がしたけれど、それはスルーした。きっとまた私には刺激の強すぎる話だ。
 
「そう、下見。将来子どもが出来たら、連れて行ってあげたいところだよ」
 
 そんな私の胸中は知らずに、平原さんは希望に満ち溢れた瞳をして呟いた。
 きっと彼の瞳には、将来幸せな家庭を築いて、自分の愛する子どもたちと色んな場所でたくさんの思い出を作ってあげる未来が見えているのだろう。そしてきっと、その未来には私もいる。
 そう思ったら、ただ「好き」と言われるより何倍もの愛を感じた。
 
 思えば、平原さんが行きたいと言った場所はどこも家族連れで行くような場所だ。
 もちろんデートでもよく行く定番の場所だとは思うけど、平原さんは自分の幼少期に叶えられなかった夢を今叶えている最中なのだと思う。幼い彼がぽつんと独りで殺風景な部屋の中にいるのを想像して、胸が張り裂けそうな思いがした。
 
「……平原さん。たくさん、いろんな場所に行きましょうね」
 
 そう言った私に、平原さんはただ黙って頷いてくれる。その時の彼の瞳が、少しだけ潤んでいたのは私だけの秘密だ。
 




 平原さんとお付き合いをするようになってから、私の日常は一変―――したわけではなかった。
 当たり前だけど平原さんはお仕事があるし、私だって平日は学校に行かなければならない。それに一応、私は受験生だ。そう遊んでばかりもいられない。
 進学すると決めてから、私は真剣に何を学びたいのか考えるようになった。将来どんな仕事に就きたいかまではまだ決められないけれど、最近ほんの少し「なりたいもの」が見えてきた。それに、私が「どうしたいか」も。
 
 七海には、平原さんと付き合うことになった、と報告した。結婚の約束までしたことは言っていない。嬉しいけれど、絶対に気が早すぎる。
 驚くだろうな、と恐る恐る報告したのだが、意外にも七海はこうなることが分かっていたかのようにしみじみと頷いた。
 
「いやぁ、まさか本当にあのイケメン運転手さんを落とすとは……倫も隅におけないなぁ」
「お、落とすって……」
「でもあの日、偶然校門で会って倫が嫌がらせされてること言ったらさ、平原さんの顔がすっごく険しくなっちゃってびっくりしたんだから! それで倫のこと本気で好きなんだなぁって納得したから、あんまり驚かないよ」
 
 書道室でお弁当を食べながら、七海は嬉しそうに話してくれる。
 七海が平原さんと会って話してくれたおかげで、あの日私は助けてもらうことができた。それに長く続いた陰湿な嫌がらせも、七海がいたから耐えられたのだ。もし独りだったら、きっと耐えられなかった。
 
「七海、ありがとう。七海も何かあったら言ってね、絶対に助けるから」
「えへへ、頼もしいなぁ。じゃあお言葉に甘えて、卵焼きちょーだいっ!」
「あーっ!!」
 
 素早く私のお弁当箱から卵焼きを奪い取って、すぐさま口に放り込んでしまった。おいしそうにもぐもぐと咀嚼する七海を恨めし気に見つめる。卵焼きは一番好きだから、最後に食べようと思ってとっておいたのに。
 
「……何でもしていいって意味で言ったんじゃないんだけど」
「あはは、ごめんごめん。それにしても、相変わらず倫のお母さんの卵焼き美味しいよねー! うちのお母さんのも美味しいけどさ、微妙に違うんだよねぇ」
 
 七海があんまりおいしそうに卵焼きを食べるから、もっと文句を言ってやろうと思っていた気持ちが消えてしまった。お母さんの料理を褒められるのはやっぱり嬉しいものだ。
 
「そういえばさ、志望校決めた? そろそろ決めないとやばいんじゃないの」
「あー……うん。決めたって言えば、決めたかな」
「ええー!? 何それ、早く教えてよ! あたしは倫に一番に教えたのに!」
「私だって、まだ誰にも言ってないよ。七海は本当に県外に行っちゃうの?」
「うん! 一人暮らしするの夢だったし、憧れの大学だしね! なになに、あたしが遠くに行ったら寂しいの?」
「……そりゃ、少しはね」
 
 嘘だ。本当はめちゃくちゃ寂しい。
 引き止めたいところだけど、確かに七海は高校に入ったときから行きたい大学があると言っていたし、彼女の決断に私が口を出すべきじゃない。でも、寂しいと言うことくらいは許されるだろうか。
 そんな私の気持ちに気付いてか、七海はやけに明るい声で話を続ける。
 
「でも大学生は夏休みとか春休みが長いから、その時はうちに泊まりにおいでよ! あたし頑張って受かるからさ!」
「……うん。そうする」
「それで、倫はどこの大学にしたの?」
「あー……えっとね、家から通えるところで、県立大にしようかと思ってる」
「え!? 倫、大学行くんだったら一人暮らししたいって言ってたじゃん! どうしたのよ?」
 
 七海の言う通りだ。
 以前までは、家族と少しでも離れたくて一人暮らしをしようと思っていた。そのためにわざわざ家から離れた大学に行こうと。
 でも学びたいことがだんだんと決まってきて、そして最近やっと家族とも少しずつ向き合えるようになってきた。ここで家族と離れて家を出てしまったら、縮まった距離がまた開いてしまうのではないかという心配があったのだ。
 
「県立大に栄養学部があるでしょ? そこに行きたいと思ったの」
「えー!? それも意外! 倫、語学とかそっち系に行きたいって言ってなかった?」
「うん、そう思ってたんだけど……なんかね、最近心境の変化があったというかなんというか」
「何それ? うふふ、でもいいんじゃない? 倫に合ってる気がする」
 
 七海がそう言って笑ってくれると、なんだかとても安心する。自分の選択が正しいかどうかは分からないけれど、七海が私に合っていると言ってくれたことが嬉しかった。
 




 それから、私と平原さんは順調にお付き合いを続けていった。
 平原さんが土日のどちらかが休みだったら、その日は朝から夕方までデートをする。動物園や美術館にも行ったし、映画を観たり買い物に行ったりすることもある。
 でももちろん、平原さんの休みが平日になることの方が多い。そういうときは、いつかのように私の学校帰りに近くの喫茶店でお茶をするのが習慣になった。だから毎日会えるわけではないけれど、少なくとも二週間に一度は会っている。
 それに最近は、夜に平原さんから電話がかかってくることも増えた。スマートフォンに彼の名前が出るたびに私の心臓は大きく脈打って、電話越しに声を聞くたびに彼への気持ちが募っていった。
 
 平原さんと会うたびに彼のことを少しずつ知っていって、一学期が終わって夏休みが来る頃には、私にとって平原さんは何ものにも代えがたい、かけがえのない存在になっていた。
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