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第一章

7.私のおかしな恋のはじまり

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 それから一週間、私は悶々とした気持ちで日々を過ごしていた。
 また連絡するね、と平原さんは言っていたのに連絡はない。自分から連絡するのもなんだか気が引けるし、また会おうと言ってくれたのももしかしたら社交辞令だったのかもしれない。
 そう思うとなおさら自分から連絡なんてできなくて、バスでたまたま彼と会えることだけを期待していた。
 
 授業が終わり、普段であれば部活をするために書道室に向かうのだが、今日はとても筆を持つ気分になれない。
 母は今日仕事で家にいないから、久しぶりに早く家に帰ろう。そう考えて、テニス部の練習に向かう七海に手を振って教室を後にした。
 
 下駄箱で靴を履きかえていると、何やら校門の方が騒がしい。
 普段より人が多く集まっているようだ。しかも女生徒がほとんどで、数人で連れだって校門の方を見ながらひそひそ話をしたり、時折きゃあっなんて黄色い声を上げたりしている。
 何事だろう、とさすがの私も気になって校門に向かうと、背の高い男の人が門柱にもたれかかっているのが見えた。
 制服は着ていないから、保護者か誰かだろうか。それにしてはやけにスタイルが良くて、しかも校門付近に集まっている女生徒たちはどうやら彼を見て騒いでいるようだ。
 
 何だか嫌な予感がする。
 そしてじりじりと校門に近づくと、私の嫌な予感は的中した。
 
「あっ、いたいた! おーい、倫―!」
「なっ……ひ、平原さんっ……!?」

 校門付近で女生徒の視線を集めていたのは、ずっと頭の中で思い浮かべていた平原さんその人だった。
  
 なんで。どうしてここに彼がいるんだ。
 正直言って嬉しい。彼に会えたことが、とてつもなく嬉しい。
 でも、何もこんな場所で会わなくても。
 
 周囲の視線を集めていた平原さんは、私の姿を見つけると嬉しそうに大きく手を振ってきた。その様子を見て、彼を遠巻きに見ていた女生徒たちがざわめきだす。
 
「あれって、三年の大屋先輩だよね? もしかして大屋先輩の彼氏!?」
「えーっ、いいなあ! わたしもあんな彼氏ほしーい!」
 
 案の定誤解を招いているようだ。その視線は明らかに私と平原さんを見比べていて、いたたまれないにも程がある。
 私は猛ダッシュで彼に駆け寄り、腕を掴んでその場から逃げるように走り去った。状況が飲み込めていない平原さんは、ぽかんとした表情をしながらも黙って私に付いて走ってくれた。
 




 学校から少し離れた場所にある喫茶店の前までたどり着いて、私はようやく足を止めた。
 平原さんも同時に足を止めて、おかしそうに笑いながら話しかけてくる。 
 
「ふふっ、随分積極的だね、倫。そんなに俺と二人きりになりたかったの?」
「ちっ、違います! あ、あんな場所にいたら目立って仕方ありません!」
「いいじゃん、目立ったって。倫は恥ずかしがり屋だなぁ」
 
 立っているだけでも人目を引いてしまう彼は、ああやって注目されることに慣れているのかもしれない。
 けれど私はごくごく平凡な、もしかしたら平凡にすら至っていないかもしれないくらいの人間だ。あんなに好奇と羨望の視線にさらされるなんて、とても耐えられない。
 
 走ったせいで上がってしまった息を整えていると、今度は私が平原さんに腕を掴まれる。そしてそのまま喫茶店の扉を開けて中に入ってしまった。カランコロン、と軽快な音がする。
 
「わっ、ひ、平原さんっ!?」
「いらっしゃいませー。お二人ですか?」
「はい。禁煙席ってありますか?」
「はい、ございます。ではこちらへどうぞ」
 
 人の好さそうな店員さんが席へと案内してくれる。お店の一番端の少し広いテーブルに座るよう促され、平原さんは薄手のジャケットを脱いで椅子に腰かけた。
 また彼の強引さに流されてしまっていることを自覚しつつ、私も木製の椅子を引いてそこに座った。目の前では、彼がにこにこしながら私を見つめている。
 
「急にごめんね。倫に会いたくなって来ちゃった」
「そ、それだったら連絡してくれれば……!」
「だって驚かせたかったんだよ。一時間待っても倫が来なかったら電話するつもりだったんだけど」
 
 もし私が部活に行っていたら、彼は一時間もあの校門の前で私を待っていたのだろうか。
 部活に行かなくてよかった。今日ばかりは気分が乗らなかったことに感謝だ。
 内心ほっとしていると、先程の店員さんがお冷を二つテーブルに置いてくれる。ご注文はお決まりですか、と尋ねられて慌ててメニューに目を通した。
 
「ホットコーヒーひとつ。倫は?」
「え、えっと、じゃあミルクティーで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 
 ミルクティーは四百円。大丈夫、今日は彼に借りを作らずに済みそうだ。頭の中で財布の残高を計算して、私はお冷を口にした。
 
 学校のすぐ近くだけど、この喫茶店に入るのは初めてだ。最近流行りのお洒落なカフェというよりも、昔ながらの喫茶店といった風貌でどこか懐かしさすら感じる。
 
「どうだった? 学校」
「え? えーっと……特に何も」
「えー、つまんないの。もっとちゃんと教えてよ」
「だって、本当に何も話すこと無いんですよ……平原さんこそ、今日お仕事は?」
「今日は休み。乗務によって違うから、休みが変則的なんだ」
「あ……そうですよね。お疲れ様です」
「倫の方こそ、お勉強お疲れ様です」
 
 わざとらしい言い方が面白くて、思わず笑ってしまう。平原さんも同じように笑った。
 驚いたけれど、彼が会いに来てくれて、こうして本当にまた会うことができたのが嬉しい。また会おうね、という約束が単なる社交辞令ではなかったことに安心する。
 
「それで、家族とは話せたの?」
「あ……はい。ちょっとですけど、進路の話はできました。あ、弟とも久しぶりにちゃんと話せて、少し距離が縮まった気がします」
「それは良かった。いいなあ、倫は」
「平原さんのおかげです。ありがとうございました」
「俺は何もしてないよ。頑張ったのは倫だ」
 
 よく頑張ったね、と微笑みながら言われると、心臓が掴まれたような気がした。
 平原さんの笑顔はもはや凶器だ。私の心を奥深くまで抉ってしまう。彼はきっと、自分の笑顔で私がこんなに浮かれていることには気付いていないだろうけど。
 
「それで、平原さん。今日はどうしてわざわざ来てくれたんですか?」
「どうしてって、言ったでしょう? 倫に会いたかったからだよ。それ以外に理由が必要?」
「え……あ……いえ、そういうわけでは……」
「それにさ、次どこにデートに行くか決めようと思って。約束があれば、嫌なことがあっても頑張れる気がしない?」
「あ……はい。私も、そう思います」
 
 私に会いたかったから、とすんなり言ってのける平原さんの気持ちが分からない。
 きっと、彼にとって私は単なる暇つぶしの道具にしか過ぎないのだろう。今は彼女がいないと言っていたし、行きたい場所がいっぱいあるとも言っていた。それに付き合ってくれる誰かが欲しいだけなのだ。そうじゃなかったらおかしい。
 
 私の彼に会いたいという思いと、彼の私に会いたいという思いは重みが違う。私にとっては恋い慕う彼との大切な時間でも、彼にとってはただの暇つぶしなのだ。
 だって、そう思わないとやっていられない。平原さんが私を好きになってくれる可能性なんて無いに等しいのに、彼は私の喜ぶ言葉をたくさん知っていて、いともたやすくそれを口にする。恋愛経験のない私が浮かれてしまっても、それは仕方のないことだ。
 
「倫? どうしたの、考え込んじゃって」
「あ……いえ、何でもないです」
「何でもなくないでしょう。言ってよ、隠されると気になる」
「別に、隠してるわけじゃ……ただ、その、どうして平原さんは、私にここまでしてくれるのかなぁって思って……」
 
 歯切れ悪く言うと、平原さんは目を細めて小さく笑った。その仕草ですら私の心臓の動きを速めてしまうのだから、恋って恐ろしい。
 
「だって倫が気になるんだよ。俺もどうしてか分かんないけど」
「え……き、気になるって」
「最初は家に帰りたくないって泣きながら言うから、虐待でもされてるのかなって思ったんだ。だから家に連れて帰った。でも話聞いたら違うし、おどおどしてるかと思えば急に思い切ったこと言うし」
 
 思い切ったこと、というのはきっと私の言った「一宿一飯の恩義は身体で払います」発言のことだろう。自分でもどうしてあんなことを言ったのかと後悔しているけれど、あの時の雰囲気と流れでつい言ってしまっただけなのだ。
 覚えていてほしくなかったのに、彼はその時のことを思い出したのかくすくす笑っている。
 
 それより、平原さんは私が家族に虐待されていると思っていたのか。どうしてこうも簡単に家に連れ込むのだろうと疑問に思っていたけれど、彼にとってあれは保護のつもりだったらしい。
 また彼の優しさを知って胸が高鳴るのと同時に、やっぱり私は恋愛対象ではなく保護対象なんだな、と思って少し落ち込んだ。
 
 注文したコーヒーとミルクティーが運ばれてきてもまだ、彼は思い出し笑いが止まらないようだった。そんなに笑わなくてもいいのに、と少し非難めいた目線を向けると「ごめんね」と全く悪びれていない口調で言った。
 
「さて、じゃあ次どこに行くか決めようか。倫はどこに行きたい?」
「え……平原さん、行きたい場所があるんじゃないですか?」
「うん、あるよ。でもこの前は俺に付き合わせちゃったし、今度は倫の行きたいところに行こうよ」
「それじゃあ一宿一飯の恩義になりません。私は平原さんの行きたいところに行きたいので、どこでも付き合いますよ」
 
 私がそう言うと、平原さんはなぜか不思議そうに首を傾げてから思い出したように頷いた。
 
「そうだった。そういうていでデートするんだったね。忘れてた」
「忘れてたって……」
「でも倫、もし嫌だったら無理に付き合わなくていいんだよ? この前のデートで十分楽しかったし」
 
 優しい顔でそう言う平原さん。
 これは試されているのだろうか、と思いつつも私は率直に自分の気持ちを口にした。
 
「……いえ、無理なんかしてません。私、平原さんとデートしたいです」
 
 優しい彼のことだから、意地を張って「でもこれはお礼なんで」なんて言ったら、じゃあデートはやめよう、なんてことになりかねない。
 正直に自分の気持ちを伝えることはとても勇気のいることなのだと改めて気付いた。
 
 そんな私の胸中を知ってか知らずか、平原さんは破壊力抜群の笑顔を見せてくれた。本当に心臓に悪い。
 
「よかったぁ。じゃあお言葉に甘えて、俺の行きたかったところでいい? 水族館なんだけど」
「はい、もちろんいいですよ。ここからだと、バスと電車で……」
「昨日ちょっと調べたんだけどさ、あそこの水族館アクセス悪いみたいなんだよね。だから車で行こうと思って」
「車……ですか?」
「うん、俺の車。あ、嫌?」
「い、いえ! 嫌じゃないですけど……」
 
 この前遊園地に行くときはバスで行ったので、てっきり車は持っていないんだと思っていた。バスの運転手さんだし、プライベートでまで運転はしたくないのかな、なんて勝手に考えていたのだ。
 それに彼の車で水族館に行くだなんて、それはまるっきりデートではないか。この前の遊園地だってれっきとしたデートなんだけど。
 
「わ、私が乗ってもいいんですか?」
「いいに決まってるでしょう。俺はバスに乗るの好きだから、バスで行けるところはバスで行くようにしてるんだけど、水族館の方までは通ってないからね」
「あ、そうだったんですね……それじゃあ、お願いします」
「家まで迎えに行くよ。一条団地前のあたりだよね?」
「はい、そうです」
 
 平原さんの運転で、水族館デート。なんて素敵な響きだろう。
 こんな卑屈で意地っ張りな私でも、一応年頃の女子高生だ。テレビドラマや恋愛映画を見て心をときめかせることだってある。それよりもミステリーとかアクション映画の方が好きだったりするけれど。
 ドラマで見たような大人のデートを想像して内心舞い上がっていた私は、平原さんが私の家の最寄りのバス停を知っていることに全く疑問を持たなかった。
 
「あそこの水族館、イルカもいるよね。俺、イルカショー見てみたいんだ」
「いいですね! 私もイルカ好きです」
「倫は水族館行ったことある?」
「はい、ありますよ。あそこの水族館にも何回か行きましたし、家族で海辺に行ったときは必ず行くんです。随分前の話ですけど」
 
 私の父はいわゆる家族サービスというやつを欠かさない人で、夏休みや春休みといった長期休みには必ず旅行に連れて行ってくれた。高校生になった今でも誘われるのだが、私は断っていたのだ。
 でも、思い返してみると家族旅行はいつも楽しかった。水族館でイルカやペンギンを見るのも好きだったし、ホテルや旅館に泊まって夜遅くまでみんなでトランプをするのも好きだった。
 思い返すと楽しい思い出ばかりで、私は無意識に顔がにやけていたらしい。
 
「ふふっ、倫、ずいぶん楽しそうだね。何考えてたの?」
「あっ……ご、ごめんなさい。家族と旅行に行ったときのことを思い出して……」
「へえ! いいなあ。ねえ倫、その話聞かせてよ」
「え……? 家族旅行の話ですか? いいですけど、面白くないですよ」
「面白くしなくていいから。楽しかった話が聞きたいんだ」
 
 なぜかテンションの上がった平原さんに急かされて、私はぽつぽつと話し始めた。
 
 海水浴に行って溺れかけたこと、クラゲに刺されたこと。
 初めて飛行機に乗ったときは、なんだか一つ大人になった気がしたこと。
 母の好きな神社や仏閣を巡って、幼いながらもその魅力に惹かれたこと。
 登山に行って、思ったよりも登るのが辛くて父におぶってもらったこと。
 スキーに行ったときは、千尋が盛大に転んで雪まみれになって大笑いしたこと。
 
 話し始めると止まらなかった。どれも特にオチがあるわけでもないし、説明するのが下手だから平原さんにはうまく伝わっていないかもしれない。
 けれど、彼は楽しそうに相槌を打ちながら真剣に聞いてくれた。聞き上手な平原さんに促されるまま、気付けば一時間近く話し続けていた。いつの間にか外は暗くなり始めている。
 
「す、すみません! 私、つい話すのに夢中になっちゃって……!」
「ううん。ありがとう、倫。まだまだ聞きたいけど、今日はもう帰ろうか」
「あ……は、はい」
 
 思う存分語った私よりも、聞いていた平原さんの方がなぜだかすっきりした顔をしている。
 私がまごまごしているうちに、彼は颯爽と伝票を持ってお会計を済ませてしまった。今日は払わせてくださいと粘る私を笑顔で制して、こういうときは男性の顔を立てて奢られるものなのだと言われてしまえばごねることもできなかった。

 何度もお礼を言いながら外に出ると、生暖かい風が吹いていた。春の風だ。
 少し歩いて髪を整えながら平原さんの方を見ると、私の顔をじっと見つめている彼と目が合った。
 
「え……な、なんかおかしいですか? 私」
「ううん、そうじゃないんだ。この気持ちが何なのか分かって、今すごく倫と離れがたい」
「……え?」
 
 喫茶店から少し歩いたところにある桜の木の下で、彼は立ち止まる。桜の花はすっかり散って、葉だけが風に靡いてさらさらと音を立てていた。
 なんとも表現しがたい表情で、平原さんは私の手をとった。その手の温かさに思わずどきりとする。
 
「この前初めて会って、デートして……倫を見てると、なぜかすごく幸せで楽しい気持ちになったんだ。なんでだろう、ってあれからずっと考えてたんだけど、さっきようやく気付いた」
 
 私の目を見つめながら、平原さんは私の手を優しく撫でる。その顔は穏やかなのに、わずかに彼の頬が朱に染まっているのは私の見間違えではないはずだ。どう考えても、偶然知り合った女子高生に対する態度ではない。
 
 これはまさか。
 彼の言った言葉と、私に対する態度。
 妙に冷静な頭で考えてみると、この状況はどう考えてもあれだ。
 
 告白される。
 
 私だって、男の子に告白されたことはある。と言っても数えるのに苦労しない程度ではあるが。
 その時の状況と今の状況は、どうにも似すぎている。
 しかし、今私の目の前にいるのは、穏やかで優しくてそのうえ超美形の平原さんだ。歳だって私より上で、立派に運転手をしている大人の男性である。
 その平原さんがまさか、この長所を探すのに困るような私に告白などするはずがない。けれど。
 
「あのさ、倫。こんなこといきなり言っても、困らせるだけかもしれないけど、俺と……」
 
 この後に続く言葉が「付き合ってください」でなければおかしいだろう。
 困惑と緊張でおかしくなってしまった私は、もうすでに「はい」と返事をすることだけを考えていて、まさか平原さんが私に告白するわけがない、というごく当たり前のことを忘れていた。

 そして、彼は照れくさそうに視線を泳がせてから、私の目を捕えた。

「倫、俺と子ども作ろう!」
「はっ、はいっ! ……ん? あれ? え、えええっ!?」

 やっぱりこの恋は無謀で、とんでもなく前途多難かもしれない。
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