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第一章

8.浮かれる私と歪んだ字

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 平原さんから衝撃の告白を受けて数日。
 一筋縄ではいかない恋をしてしまったことを自覚しながら、それでもやっぱり後悔はしていなかった。前途多難なのは百も承知だけど。
 
 あのあと一人で盛り上がってしまっている平原さんをどうにか窘めて、その日はとりあえずお互い落ち着こう、ということで解散した。彼は不満そうだったけれど、考える時間がほしいと言ったら承諾してくれた。
 
 それからというもの、私の頭の中は前にも増して平原さん一色になった。
 彼の告白はぶっ飛んではいたけれど、私に少なからず好意を持ってくれているということは分かった。本来ならそれだけで叫びたくなるほど嬉しいはずなのに、手放しで喜ぶこともできない。
 そもそも、好意を持った相手にいきなり子どもを作ろう、とは一体どういうことだ。やっぱり彼はちょっと変わってる。
 
 そんなこんなで、何かしていないと平原さんのことを考えすぎて頭がおかしくなりそうだった。だからとても集中できないとは思ったが、今日は授業が終わってから部活に行くことにした。
 書道室に入ると、墨と和紙の交じった独特の香りがする。
 
「おや、大屋さん。珍しいね、君が部活に参加するなんて」
「……田中先生? 先生こそ珍しいですね。お久しぶりです」
 
 私が所属する書道部は廃部寸前と言ってもいいくらい部員が少ない。私はそれでもまだ出席している方だ。
 顧問の田中先生も、他の仕事が忙しいのかただ単に面倒なのか、滅多に顔を出さない。
 
「そういえば確か、僕が前来たときも大屋さん一人しかいなかったね」
「先生がもっと来て下さったら、他の部員も来てくれると思うんですけどね。まあ、静かな方がいいんでわざわざ呼びませんけど」
「相変わらず冷めてるねえ」
 
 そう言って笑う田中先生は、御年六十歳の大ベテランだ。今年で定年退職する予定だが、その紳士的な態度と適度な緩さ、それに爺臭さを一切感じさせないスマートな風貌で男女問わず人気がある。
 書道部に入っている数人も、きっと田中先生のファンだろう。そんな先生が不在の時が多いのだから、部員がほぼ出席しないのも納得である。
 
 先生が明日の授業の準備をしているのを見て、私も自分のロッカーから書道用具を取り出す。全部で八つあるこのロッカーも、一体何人が使っているのか怪しい。空いているのをいいことに私がそのうち二つを占領しても文句が出ないので、おそらく今の部員は私を入れて七人もいないのだろう。年度初めに部員が集合したときは、確か十人はいたと思うのだが。
 
 硯で墨を摺りながら考えるのは、やはり平原さんのことだ。
 先日喫茶店で彼のスマートフォンにメッセージアプリをダウンロードしたから、今度はそれを使ってメッセージのやり取りをしようという取り決めになった。
 どうも彼は興味のないことには無頓着なようで、高機能なスマートフォンを持っているのにも関わらずほぼ電話機能しか使っていないらしい。ショップで店員に勧められるがまま買ったと言っていたが、あまりにも関心がなさすぎる。
 そこで私がよく使っているアプリを勧めたのだが、使いこなせているだろうか。昨日、風景を撮った写真が一枚送られてきただけであとは特に連絡はない。また校門で待ち伏せするのは避けてほしいんだけど。
 
「大屋さん! 墨、墨!」
 
 田中先生の慌てた声で現実に戻る。手元を見やると、ぼうっとしながら墨を摺り続けていたせいで制服のブラウスの袖が真っ黒だ。 

「うわあっ! や、やっちゃった……」
「着替え持ってるかい? 早く落とさないと」
「持ってないです……今日体育無かったから、ジャージも……」
「それは困ったね。こんなジジイの上着を着て帰らせるわけにもいかないしなあ……」
「大丈夫ですよ。今日はこのまま帰ります。汚れたの、袖だけですし」
 
 水道まで行って手を洗いながら汚れを確認すると、先ほどよりも染みは広範囲にわたってしまっている。墨は一度染みつくとなかなか落ちないのだ。水で洗い流してもなかなか落ちない。ブラウスを一枚駄目にしてしまったことにため息をつく。
 
「なんだか上の空だったけど、大丈夫かい? 今日はもう家に帰ったら?」
「……いいえ、大丈夫です。汚しちゃったついでに、今日は閉門までやることにします」
 
 こうなればもう自棄だ。今日は服を気にせず字を書くことに集中しよう。
 家に帰って母に汚れたブラウスのことを話すのも勇気がいるし、一人で部屋にこもっていると平原さんとのことを思い出して身悶えてしまうのだ。
 まだ書道室でひたすら字を書いている方が生産的だと思って、新しい半紙を取り出した。
 




「大屋さん、もうすぐ学校閉まるよ。僕も帰るから、君もそろそろ帰りなさい」
「あ……は、はい」
 
 田中先生に声をかけられるまで、私は無心になって字を書いていた。普段よりも集中して書けたな、と思って自分の書いたものを確認したけれど、集中できた割に良い作品は書けていなかった。
 首を傾げる私に気付いて、田中先生も私の作品たちを覗き込む。
 
「あれ? 随分熱心に書いていたけど、どこか芯の入っていない字だね。何か悩み事でもあるのかな?」
「そ、そういうわけじゃないんですけど……なんだろう、お腹すいたのかな、なんて……」
「ははは、それなら尚更早く帰らなきゃ! それじゃあ、お疲れさま。気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます。さようなら」
 
 字には書く人の思いが写るのだと、以前田中先生が言っていた。
 確かに今日書いた字はどれも歪んでいたり、勢いがなかったり、締まりがなくてだらしない字だ。今の私の気持ちを反映しているように思えて、またため息をつきたくなった。
 そして田中先生が書道室を出ていくのを見送ってから、私も帰る準備を始めた。
 




 バス停に着くと、同じ高校の生徒たち数人がすでにバスを待っていた。野球部らしい男子数人が騒いでいる横で、随分と短くしたスカートを履いた女子数人がおしゃべりに興じている。
 ベンチが空いていたのでそこに座ってスマートフォンを取り出し、これから帰ります、と母にメッセージを送った。送信できたのを確認して、特にすることもないので目を瞑ってバスが来るのを待つ。
 
「ねえねえ、今日はあのイケメン運転手さんかな!?」
「だったらいいなぁ! まじイケメンだよねー、この前名札見たら平原って書いてあったよ!」
 
 横から聞こえてきた会話に、思わず目を開けてしまった。イケメンの運転手で平原だなんて、あの平原さんしかいない。七海が言っていたように、確かにファンがいるようだ。
 聞き耳をたてるなんて格好悪いとは思ったが、好奇心は止められない。少し嫉妬心もある。聞いていないふりをしながら、再び目を瞑って彼女たちの会話に集中した。
 
「あたしは見てないんだけどさ、この前うちの高校に私服で来てたらしいよ! 妹か弟でもいるのかなぁ?」
「あ、私それ見た。二組の大屋さんって知ってる? あの子とどっか走っていったけど、兄妹じゃないよね、苗字違うし」
「えー、知り合いなのかなぁ!? いいなぁ、紹介してもらおうよ!」
「まさか付き合ってるわけじゃないだろうしねー。大屋さんって全然目立たないし、一年生の時委員会で一緒だったんだけど暗くて超つまんなかった」
「あたしも二組の子に聞いたよ、真面目すぎてノリ悪いし怖いって!」
 
 どうやら彼女たちは、その「暗くて超つまんなくてノリが悪くて怖い大屋さん」がすぐ隣に座っていることには気付いていないようだ。
 こんな陰口を叩かれるのには慣れているし、私自身委員会が一緒だったという彼女の名前すら思い出せないのだから何か言い返すわけにもいかない。
 
 そんなことより問題なのは、私の陰口を言っている彼女たちが平原さんのファンだということだ。無駄に気の強そうな彼女たちが、私と平原さんの関係を知ったらどうなるだろう。私に対して変なちょっかいを出されてもそれは別にいいのだが、平原さんに何かしでかすかもしれない。私の評判が悪いせいで彼に迷惑がかかるのだけは避けたい。
 
 でも、彼女たちに何か聞かれたら親戚のお兄さんとでも言えばいい話だ。実際付き合っているわけではないし、彼女たちにもそうは見えていないのは好都合だ。本当のことは七海にしか言っていないし、七海は口が堅いから話が漏れるわけがない。
 だから、前みたいに平原さんが校門まで来てしまうようなことさえ無ければ何の問題もない。それは彼にこの前もお願いしたし大丈夫だろう。
 
 そう結論づけて目を開けると、ちょうど道の先からバスがやってくるのが見えた。とりあえず今日は、彼女たちに見つからないようにバスに乗って家に帰れれば大丈夫だ。
 
 目立たない人間でよかったな、とまた卑屈なことを思いながら立ち上がり、バスの運転席を見る。これはここ最近ついた癖だ。
 でも、あれから平原さんの運転するバスに巡り合えたことはなかったのに、神様ってやつは意地悪というか性悪というか、とにかくタイミングの悪いことをする。
 
 運転席には、紺地の制服に帽子を被った平原さんがいた。
 
「あっ、イケメン運転手さんだー! ラッキー!」
「やだぁ、あたし今日メイクしてくればよかったー!」
 
 さっき私の陰口を叩いていた彼女たちも平原さんに気付いたらしい。おかげで私は気付かれることなく、運転席の真後ろ、いつもの特等席に座ることができた。彼女たちは一番後方のロングシートに座ってまだきゃあきゃあと騒いでいる。
 
 平原さんも私の存在に気付いたらしく、私が席に座る直前にバックミラー越しに目が合ってにっこりと笑ってくれた。それだけで焦りも忘れて優越感に浸れるのだから私って単純だ。
 
「発車します」
 
 乗客が全員乗り込んだのを確認してバスが動き出す。これが八時台の最終バスだから、もう辺りは真っ暗だ。
 
 思い返してみれば、初めて平原さんと出会ったのも最終バスだった。平原さんはこの最終バスに乗務していることが多いらしい。
 バスの運転手さんがどういうシフト形態で働いているのかはよく分からないが、自分がどのバスを運転するだとか、そういうことはあまり部外者に言ってはいけない規程になっているらしい。テロやバスジャックなんかもあるからね、とこの前平原さんが教えてくれた。でも彼の休日が知れればそれでいいから、私も勤務日程を事細かに知りたいとは思わなかった。
 
 でも、今日ぐらいは聞いておけばよかった。こんなにヒヤヒヤした気分でバスを乗るのは、あの日バスを乗り過ごして以来だ。
 
「笹屋町、笹屋町です。お降りのお客様……」
「あっ、ありがとうございましたっ!」
「はい、ありがとうございます」
「あのっ、運転手さんかっこいいですね!」
「え? ああ、ありがとうございます」
 
 バス停で一緒になった平原さんファンの彼女たちも、一人ずつバスを降りていく。そのうちの一人が興奮した様子で平原さんに話しかけていたが、彼は気に留める素振りもなくその褒め言葉にさらりとお礼を言うだけだった。きっとよくあることなのだろう。

 私がかっこいいと言ったときは、なぜかは分からないけどもっと動揺してくれた。ちょっとだけ優越感を覚える。
 また性格の悪い私が顔を出してしまった。平原さんを好きになってから、卑屈・ネガティブ・意地っ張りに嫉妬深さまで加わった。恋をしたらもっと可愛げのある性格になれるかと思って期待していたのに。
 
「次は、一条団地前、一条団地前です」
 
 次で私の降りるバス停だ。
 パスケースを取り出そうとして、そういえば今日はパスケースごと定期券を家に忘れてきたことを思い出す。
 仕方なく現金で払おうと思って小銭入れを見ると、小銭も少ししかない。バスが赤信号で停まった隙に席を降りて、運転席―――平原さんのすぐ隣にある両替機に千円札を入れた。
 
「定期、忘れたの?」
 
 驚いて顔を上げると、平原さんがにこにこと私を見ていた。
 心臓が跳ねるのを感じながら、私は黙って頷く。
 
「ふふっ、意外と抜けてるんだねぇ、倫は」
「いえっ、ちょっと朝ぼーっとしてただけでっ……!」
「そうなの? ああ、倫って寝起き悪かったもんね」
 
 この前、平原さんの家で醜態をさらしてしまったことを思い出して私の顔はさらに赤くなる。
 彼は楽しそうに笑って、青信号になった交差点を直進した。もうすぐバス停に着く。
 
「一条団地前、一条団地前です」
 
 このバス停で降りるのはどうやら私だけらしい。
 少し名残惜しさを感じながらお礼を言って小銭を運賃箱に入れて降りようとしたら、手首をぐっと掴まれた。
 
「ひぃっ!?」
「よく見たら袖まで汚してる。可愛いなぁ、倫は」
「あっ……こ、これはっ……!」
「じゃあね、倫。ぼーっとして転ばないでよ」
 
 前方から降りて、ドアの閉まったバスを茫然と見送る。平原さんが笑顔で手を振ってくれたので、私もぎこちなく手を振り返した。胸がきゅんきゅんして苦しい。これが恋か。
 とぼとぼと家に向かって歩きながら、顔がにやけてしまう。平原さんの言葉だけで私はおかしくなってしまったみたいだ。
 
「……可愛い、って……どこまで本気なんだろ」
 
 普段はしない独り言までする始末だ。彼の言葉を疑いながら、それでも浮かれずにはいられなかった。

 彼に掴まれた手首を撫でる。災難だと思っていたけれど、ブラウスを汚してよかったかも、なんて思っている。なぜこれを見て可愛いと思えるのかは分からないが、彼は嘘をつかないからきっと本心だ。そう思ったらなおさら嬉しい。
 
 スキップでもしそうな勢いで家に辿り着いた私は、そんな平原さんとのやり取りを悪意に満ちた視線で見られていたことに、この時まったく気付いていなかった。
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