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クレーマー一号(ズイちゃん)

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  数日後。なつみは前原家で、順平を指導していた。まずは共通テストで間違えた箇所を復習し、その上で早速、二次試験向けの対策に入る。順平の理解度は好調だった。きっと、自信が付いたからだろう。

 授業が終わると、なつみは絹子の部屋へと向かった。多忙な房代の代わりに、学習の進捗は、毎回絹子に報告することになっているのだ。

 だが、絹子の部屋の前まで来ると、何やら話し声が聞こえた。どうやら、客が来ているらしい。声をかけていいものか迷っていると、なつみの気配を察したらしく、中から襖が開いた。

「まあ、なつみさん。お待たせしてしもうた?」
「いえ……」

 かぶりを振りかけて、なつみはふと、室内に目を留めた。そこには、若い青年の姿があったのだ。年齢は順平と同じくらいに見えるが、雰囲気はまるで反対だった。髪を明るい茶色に染め、流行のデザインのニットと、ヴィンテージ物らしいジーンズを着こなしている。顔立ちも華やかで、いかにも女の子にもてそうなタイプだ。

「紹介するわ。こちら、次男の息子のわたる。順平とはいとこ同士やねん」

 こんにちは、と渉が微笑む。なつみも、微笑み返した。

「はじめまして、榊なつみです」

 家庭教師の件を渉が知っているかはわからないので、名前を名乗るに留める。すると、絹子がこう言いだした。

「渉は、××医大の二年生やねん。前途有望な、お医者の卵やで」

 絹子が告げたのは、大阪にある私立医大の名だ。そういえば、私大に進んだと言っていたな、となつみは思い出した。

「おばあちゃん、相変わらずいけずやなあ。僕なんか、私大やんか。F大目指して頑張ってる順平君の方が、ずっとすごいで。しかも、今年は確実らしいやんか」
「本番は、まだこれからやさかい。蓋を開けてみな、わかれへんわ」

 絹子は、ころころと笑った。いけず呼ばわりなど、意にも介していない様子だ。それよりも、長男の息子を褒められたことが、嬉しくて仕方ないらしい。

「なつみさん、授業は終わったんやね? 順平は、まだ部屋やろか。しゃあないなあ。渉君が来てるて、ゆうといたのに」

 絹子が、ふと眉をひそめる。呼んで来ましょうか、となつみは申し出た。すると、渉がかぶりを振る。

「いいですよ、なつみさん。順平君も、直前で大変でしょう。邪魔をしたら悪いから」
「ほんでも、わざわざ大阪から激励に来てくれたんやから。顔くらい見せるのが礼儀やわ。まったく、房代さんの躾が……」
「あの、私やっぱり順平君を呼んで来ます」
 
 放っておくとまたもや房代の愚痴になりそうだったので、なつみは素早く踵を返した。順平の部屋へ引き返し、渉の来訪を告げる。すると順平は、さっと顔色を変えた。

「嫌や。会いたくない」
「でも、激励に来てくれたらしいよ? ちょっと顔を出すくらい……」
「会わへん! 今集中してるって、言っておいて!」

 言うなり順平は、かがみ込むように参考書に目を落とす。尋常ではない様子に、なつみは諦めた。絹子の部屋へ戻り、集中しているそうだと伝えると、案の定彼女はぷりぷり怒った。

「しゃあない子やねえ。渉君、堪忍な?」
「急に来たのは僕の方やから、ええですよ。ほんなら、そろそろ帰ります」

 引き留める絹子をやんわり阻止して、渉は部屋を出て行った。なつみはなつみで、今日の授業の報告をする。引き続きよろしくねと拝まんばかりに頼まれて、なつみは彼女の部屋を辞した。

 屋敷を出て、駅へ向かおうとする。そこで、なつみはおやと思った。帰ったはずの渉が、近くのコンビニから出て来たのだ。

「なつみさんもお帰りですか」

 ええと答えつつ、なつみはやや驚いた。初対面だというのに、渉は先ほどから、なつみを名前呼びしてくる。さらに、これも気付いていたことだが、祖母の前では完全な関西弁を話す彼が、なつみに話しかける時は標準語になるのだ。

(私が東京出身だって、聞いているんだろうな……)

 気が利く、といえばそうなのだろうが。年齢の割には世慣れしすぎている気もした。一方渉は、気さくに話しかけてくる。

「順平、ずいぶん成績が上がったらしいじゃないですか。なつみさんのおかげですね」
「いえ、メインは予備校の授業ですから。私なんか、その補足をするくらいです」

 いやいや、と渉はかぶりを振った。

「予備校なんて、ずっと通ってるじゃないですか。短期間で伸びたのは、なつみさんの存在あってこそです」

 そこで渉は、ふう、とため息をついた。

「僕も、なつみさんのような家庭教師に巡り会っていたらよかったなあ。いえ、僕と順平は同級生なんですけどね。僕はF大なんか到底無理だって、早々に諦めたんですよ。今から考えたら、もう少し粘ればよかったのかも」

「でも渉さんは、医大生として立派にやっておられるじゃないですか。お祖母様だって、そう仰っていたでしょう?」

 だが、渉の表情は晴れなかった。

「でも、医者の世界は、学閥ってもんがありますからねえ……」

 返事に困ったなつみだったが、幸いにも渉はそれ以上愚痴ることなく、笑顔に切り替わった。

「ところで、なつみさんはいつもお一人で帰宅されるんですか?  順平のやつも、送ってあげればいいのに。気が利かないなあ」
「送ってもらうような距離じゃないですよ。第一、順平君は忙しいですから」

 本当だ。前原宅から駅までは、ほんの五分くらいである。しかも、冬とはいっても、まだ暗くなるような時間でもない。だが渉は、駅まで一緒に行くつもりのようだ。並んで歩き出す。

「若い女性の一人歩きは、危険ですよ。今日は僕が付き添いますが、後で順平には言い聞かせておきますからね」
「いえ、本当に結構……」
 
  言いかけたその時、なつみは息を呑んだ。突如、視界が真っ暗になったのだ。周辺の住宅や店は姿を消し、異様な圧迫感だけが襲いかかってくる。
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