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145 リュカ⑩

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知らない、というのは実に恐ろしい事だ。
それは僕らにも、サイカにも言える事で、僕たちは今、信じられない気持ちでいっぱいだった。


「…待て、待てサイカ。」

「?」

「お前のいた世界は…なんだ、まるでその、…この世界よりうんと、ずっと先の、未来の話の世界に思えてしまうんだが…。百年先とかそういう話じゃない。もっと、ずっと、ずっと先だ。」

言葉を詰まらせながらもサイカにそう伝えると、目の前の女ははた、と目を瞬かせ…“そうだと思う”と何て事のないように言う。

「ええと。勉強…と言っても、色々あるの。数学とか他国の言語を軽く学んだり、歴史も、自国の歴史だけじゃなくて、他国の歴史も学ぶんだけど…この国と似た国の過去も学ぶ機会があったの。」

「…ああ…それは、僕たちも他国の歴史を学ぶ事があるからな…どんなのかは分かる。」

「うん。…そうですね…私のいた時代から言うと…西洋史の歴史で例えるなら、ですけど…中世ヨーロッパ時代は古くて1500年前、東ローマ帝国滅亡までだと600年前くらいでしょうか…。その、詳しくはないですけど、そういう時代に似ているのかな?って思った事はあります…。でも、この世界と私のいた世界での過去が、全く同じでもないんです。」

「…どういう、こと?」

「んと、例えば、だけど。
水道の歴史は古くからありますけど…水源地から直接水を引くという簡素なもので、言えば管から流しっぱなしの状態なんだけど…この世界では当たり前に蛇口があって、そこから水が出てます。記憶違いじゃなければ…中世ヨーロッパには、蛇口とか、シャワーとか、無かった…と、学んだ記憶があって。蛇口から水を出すには、技術も必要だと思うし…日本で近代水道になったのは、確か明治…130年程前の事です。」

「え、…割りと最近の話なのですね…!」

「ええ。それに…マティアスの考えた医療制度。これは…とてもすごい事だと思います。
サーファス様から聞きました。他の国ではまだまだ、“医者に診てもらう”事自体が当たり前ではないと。医者の負担を考えて国が八割のお金を出す。患者側は一割~二割の負担で診察を受ける事が出来る。日本でも医療に関して似たような保証…まあ、細かくは違うんだけど…公的医療保険を設けていますが…それも、そう昔の事じゃないんです。」

『……。』

「私の知識は私の世界では“当たり前”の知識だけど、マティアスはこれを、マティアス自身が考えて、実行して広めたんです。
そう思うととても凄い事だって、本当に思いました。
だって、私のいた所で百何年か前…産業革命が盛んだった時代に出来た制度と似たものを考えて実施してるんですよ?」

サイカの言葉に皆の視線がマティアスに集まる。
が、マティアス本人は大した事でもなさそうにしていた。

「少し話が逸れたけど、これはごく一部で、トイレ事情とか…他にも違和感を覚えた事は色々あります。でも…だからこの世界は、私のいた世界の過去とも違って、全く別の、“異世界”なんだって思ったんです。」

過去のようであり、違う世界。
凡そ他の言葉が見つからないとサイカは言う。
ああ、本当にこいつは…驚きに事欠かない。
否、それを言ってしまえばサイカ事態が驚きの存在なんだがな。

「はあ、マティアス、サイカ…少し、休憩をしていいか…?考えを整理したい…。」

「…ええ、クライス侯爵の意見に賛成です…。…信じらない話の連続で…もう何が何だか…混乱してしまって…、」

「……俺、も。……もう、頭び中、ぐちゃぐちゃだ…」

「僕も混乱してはいるが……サイカの世界が、僕たちの思っていた以上に先の歴史を歩んでいるのは確実だと分かった。」

「ああ。子供たちは当たり前に勉学を学べ、個々が自由に人生を選択し生きていける世界。
女性の社会進出が当たり前なのも驚くべき事か。
娯楽や物に溢れ、便利な物があり、医療も驚く程発展してる。生活水準の高い世界だ。」

ふと、嫌な事を思う。
そんな…不便のない、指一つで明かりが灯せるような便利で豊かな世界から来たサイカは…この世界で、この国で不便を感じているんじゃないのか?と。
故郷とこの世界、この国を比べると、それは比べようもない程にこの世界の生活基準は劣っているはず。
今のこの国に似たような過去がサイカの世界にもあって、古くて1500年前、そうでなくとも600年前とサイカは言った。
考えれば考える程、途方もない年月だ。
今すぐにサイカの故郷と同じような環境に…など到底出来やしない。それこそ、最低でも600年の年月を重ねなければ。

想像してみる。例えば僕がサイカのように、“異世界”に行ったとしたら。
そこは全く知らない、未知の世界。
僕の常識も、これまでの経験も、殆ど何も通じないそんな世界だろう。
僕はそこで、どう生きていくんだ?
知り合いもいない、誰も僕を知らない、そんな世界で、僕は正気でいられるのか?
答えは“否”だ。僕には無理だ。
毎日不安で仕方がないだろう。これからどうすればいいのか、どうしたらいいのかも分からず、途方に暮れるだろう。
国に、故郷に帰りたいと毎日思い、不安と孤独を抱えながら生きていくのだとしたら…一時も、心が休まる事はないだろう。

自分に置き換えて想像してみれば、サイカの逞しさがよくよく分かる。
似た過去の世界であっても、その時代でサイカが生きて、暮らしていたわけじゃない。
知識として知っていても、実際知らない事が多い未知の世界だ。
そんな環境の中、サイカは前向きに生きている。
不安や恐れから来る心労、それはもう凄かったことだろう。
僕ならきっと耐えられないはずだ。
サイカは僕と違い、両親に愛され普通に育った女だ。
両親がいて、友人がいて、彼らを愛し、愛されながら生きてきた女だ。
寂しさも、殊更あっただろう。
それでもサイカは…この国で笑って暮らしている。

帰れるとしたら、帰りたいのではないか?
帰れるとしたら、こいつは故郷に帰ってしまうのではないか?
帰れるとしたら、こいつは、サイカは。
僕らと故郷、故郷の両親、友人を天秤に掛けた時……どちらを選ぶのだろうか。
もし、もしも。サイカが僕らではなく…故郷を選んだとすれば。…ああ、僕は耐えられない。もしもサイカが故郷に帰るような事があれば、僕は迷わず“死”を選ぶだろう。
死を選び、サイカの元へ行けるように神に祈るだろう。

そんな嫌な事を考えていたのは僕だけではなかった様子で…顔を青くしたカイルが、震えた声でサイカにこう言った。

「……サイカ、……帰り、たい…?」

その一言で、この場にいる皆の体が一瞬跳ねた。

「……帰れるとしたら、…帰り、たい…?」

「…え?」

「…もし、帰れる、なら。……どうする、」

サイカは目を閉じて、そして一言、“帰りたい”と言った。
その瞬間の絶望。悲しみよりも沸き上がるのは怒りに似た感情だった。

「…僕たちに、…二度と会えなくなってもか!?それでも、お前は帰りたいと言うのか!?
お前をこんなにも愛している僕を置いて!!お前は迷いもなく故郷を選ぶのか!!」

「リュカ!!」

怒気を含んだマティアスの言葉に、我を忘れていた自分を取り戻す。
サイカを見れば…サイカは少しだけ眉を下げて笑っていた。

「リュカ、誤解してる。」

「…誤解…?」

「マティアスは知ってると思うけど…私ね、夢で両親に会ったの。」

『!!』

「実家の、両親の枕元に立ってた。
そこで初めて…日本にいた自分が本当に死んでた事も、自覚した。
ずっと後悔してたんです。沢山愛情を貰ったのに、私は最もしてはいけない親不孝をしてしまった。
…子が、親より先に死ぬという親不孝。」

『……。』

「日本にいた頃の私は、気恥ずかしさもあって…二人に感謝の言葉も、大好きという言葉もそう伝えた事はなかった。
子供の頃は別としてね?
親元を離れて、一人で暮らして。仕事仕事の毎日で、休みがあっても、自分のしたい事を優先して…両親に会いには行かなかった。また今度帰ればいい。また今度、それを繰り返して。」

訥々と。サイカは穏やかな顔で話す。
きっと両親を思い出しながら。

「死ぬ前、最後に二人に伝えた言葉も“また今度帰るね”だよ?
…沢山会っておけばよかった。沢山伝えておけばよかった。そう、ずっと後悔してた。」

「サイカ…。」

「でも夢の中で、ちゃんと伝えられた。大好きだって、二人の子供でよかったって。私は元気で、幸せに暮らしてるって。二人も幸せになってって。
私の未練は、そこで無くなった。」

「…なら、何故…。」

「ふふ、だってやっぱり欲が出ちゃうよ。会えるなら、触れて、抱き締めて別れを言いたいもの。
一日だけでもいい。夢の時間は短くて、伝えたい事だけは伝えられたんだけど…でもやっぱり、もしも帰れるのなら…お父さんとお母さんに沢山話したい事があるの。」

サイカの目はそれまでとは違い、輝いていた。
嬉しそうに笑いながら、この世界での事、出会った僕たちの事、恋をし、結婚した事、僕たち三人とも結婚をする事、義両親も出来、可愛い弟たちがいる事、色んな事を話したいとそう言った。

「帰れるなら帰りたい。帰って、二人の子供で私がどれだけ幸せだったか、今の私がどれだけ幸せかを知って欲しい。
貴方たちの娘は、二人から一番最初にもらった贈り物…その名前の通り。自分の人生を彩り豊かに謳歌していますよーって!
でもそれは、皆の元に帰れるって事が大前提なの。そうでないなら、答えは“帰らない”、です。」

いっそ清々しい笑顔程ので言い切ったサイカは、次の瞬間には怒っています!という表情を浮かべる。
僕が、サイカの愛情を疑った事に対してだ。

「“こんなに愛してるのに!”は私の台詞ですけど?
…私の居場所は、皆のところだよ。
マティアス、リュカ、ヴァレ、カイル。
お義父様のいるこの場所が、今の私の居場所なんです。」

「…悪かった。…もう、二度と言わない…。」

「マティアスも、ヴァレも、カイルも、お義父様も。
私の気持ちを疑わないで。どっちも比べられない程大切で愛しているけど。
でも、もう私は選択したんです。自分で決めたの。
この国で、マティアスたちと一緒に生きて、死ぬ事を選んでるんだから。」

ああ、この強さが眩しい。
強さが、逞しさが。この女の心の豊かさがとてつもなく眩しい。
サイカの隣に座るマティアスがあいつを抱き締めているのを見て、僕も無性にサイカを抱き締めたくなった。

「それに…私、この国が好きです。
不便も多いけど、すごく楽しいよ。」

「ですが…サイカの世界はこの世界に比べ随分と便利ではありませんか。
来た頃はとても大変だったでしょう?」

「ふふ、確かに大変でした。
でも、その不便を消してしまうくらい…いい事も多いんです。
日本で、働きながら一人で生活をしていた私と、今の私…どっちが幸せかなんて、すぐ答えが出る。
今の方がずっと、幸せなの。」

サイカの世界は娯楽と沢山の便利な物で溢れた世界。
けれど、便利になった分失ったものがある。
世界中の人間と繋がりを持てる、そんな多様性が増したその一方で、失ったものもある。

「手間を掛けて絆を深める。
便利な物がないからこそ、そうした事が出来る。そうして築いた絆は、簡単に壊れない。だって、それだけの手間が掛かっているから。」

『……。』

「仲を深めるにも、直接会う必要があって、仲直りをするのもそう。手紙という手段があるけど、その手紙だって内容を見れば心が込もっているものなのかそうでないかが分かる。
きっと…あの世界は私には合わなかったのかも知れない。大勢と繋がらなくていい。狭く深くでいい。心から信頼出来て、自分の弱い所、駄目な所を見せる事の出来る…そんな人が一人でもいれば私はそれだけでいい。」

互いに労り、互いに支え合う。
人と人が手を取り、協力し合い、分かり合い、分かち合いながら生きる。
ここは、憧れた関係を築ける世界。
そう、サイカは笑って言う。

「…生きてる。そう、生きてるんだって強く実感するの。
苦労も、不便も多いけど…その分、返ってくるものが大きい。
こんなにも、生きるのが楽しいって思ったのは大人になって初めてかも知れない。」

何の為に生きているのだろう。
生きる為に仕事をし、休みはただ、体を休ませるだけ。
したいと思う事も特になく、外に出るのが億劫になる時も。
友人たちも結婚をしたり子が出来たりとそれぞれ自分の人生を生き、在りし日のように皆で集まり、楽しむ事も少ない。
恋人もおらず、また欲しいとも思わず。
夢もなく、結婚したいと思う事もなく、自身の、先の未来も想像出来ず。
ただ日々を何となしに生きていくその虚しさよ。

故郷で仕事をしながら生きていたサイカは毎日そんな事を思っていたと聞いて信じられない思いだった。
僕の知っているサイカは、会うたび生きている力強さを感じる女だった。
自分の人生を後悔せず、楽しんで生きる姿はいつだって輝いていて…その強さに憧れた。
何事にも感謝し、礼をもって人と接する。
大切にした分、大切にされる。大切にしたいと思わせる尊い女だったんだ。
それが、故郷ではそうではなかったというのだから…今のサイカしか知らない僕が驚き、信じられないと思うのも無理はない。

「何の為に人は生きる?生きるとは何か。
そんなものは人それぞれで…私はこの国に来て、それを見つけたの。
私は、この国に来て心の底から良かったと思ってる。
皆と出会えて、心の底から嬉しいと思ってる。
だってね。私の生きる意味…その大きな部分に皆がいるから。」

「…僕もだ。…僕も、お前が、僕の生きる意味だ。この先だって、ずっと。」

「私もです。勿論、家族も私にとって大切ですけれど。でも、サイカ…貴女は誰とも、比べようもない程、私にとって大切で、私の生きる意味なのです。」

「…俺も、そう。
サイカがいるから、生きたいって、出会ってから、ずっと…そう思ってる。
いつ、死んでもいい…じゃない。うんと、長生きして、長く、サイカと一緒に生きて、…それで、よぼよぼのお爺ちゃんになって、お婆ちゃんになったサイカと、いちゃいちゃしたい…。」

「ははは!カイル殿は相変わらずだな!!
だが…そうだな。俺も、うんと長生きしなくては。でなければ大切な娘を泣かせてしまう。」

「うん…!」

幸せそうな顔で笑うサイカ。
この笑顔は僕の一番好きな顔だ。
少し前の僕を殴ってやりたい。サイカの故郷とこの世界、国を比較して一人で勝手にもだもだと考えて、挙げ句サイカの気持ちを勘違いして勝手に決めつけて。
何をやっているんだと。
そんな下らない事を考えるより、故郷にいた頃よりも幸せにすると考えるべきだったんだ。馬鹿か、僕は。こんなにサイカに愛されておきながら!
だからマティアスに先を越されるんだよ、いつだってな。

「この国がサイカのいた世界のように豊かになるよう、近付けるように努力する。
それから…何度でも同じ事を言おう。
そなたがこの国に来て失ったものは大きい。だがその分、必ず幸せにする。
この先もずっとだ。そなたが選んだ道を、絶対に後悔はさせない。」

そう誓いのような言葉を伝えた後、サイカに口付けするマティアスは本当、いつも美味しい所を持っていく男だと、嫉妬を感じながらそう思った。
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