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144 マティアス⑬

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「…これを、あいつが…?」

「ああ。」

「……はは、…もう、驚く事なんてそうそうないと思っていましたが…。」

「…まだ、知らない事…沢山ある…ってこと…?」

「そのようだ。」

サイカと出会ってまだそう多くの年月を過ごしていないが恋人になり、夫婦になって、愛しい女の全てではないにしろ多くを知ったつもりでいた。
そう、知ったつもりでいたんだ。

「…ん、ぅ……」

「おはよう、サイカ。」

朝。
目覚めたばかりのサイカが俺を見て、おはようまてぃあす…と、少し幼い舌足らずな声で呼ぶ。
ふにゃりと笑い、目を擦りながらも温もりを求めて胸にすり寄ってくる妻の愛らしさは何度供寝をしても胸が高鳴り、踊る瞬間だ。
この愛らしさを実感するたび、守ってやらなくてはと。
苦労も、後悔もさせたくないと。
毎日を穏やかに、幸せにしてやりたいと思うのだ。

レスト帝国の王妃、その役割は多岐に渡る。
世継ぎのこと。貴族たちとの交流。
何らか、大きな行事があれば参加し、他国の王族や貴族が訪れれば彼らの相手もしなくてはならない。
王の片割れとして王妃は存在する。
生まれながらの貴族ではなかったサイカは此方が目を見張るような聡明さと努力を以て貴族令嬢として相応しい教養をあっという間に身に付けた。
元々の能力の高さや俺たちの知らない経験もあったのだろう。
それでも。その苦労は並みのものではなかったに違いない。

「サイカ、今日の予定は?」

「んー…、今日はディアゴ村の仕事の残り…もう少しで資料が完成するから…。あと、午後から令嬢たちの集まりがあるだけ…かな。」

「気負わないようにな。」

「うん!」

だけ、とサイカは言うが…王妃になったサイカの元へは多くの貴族や令嬢たちから声が掛かっているし、手紙の返事にしろかなりの数が届いている為大変だ。更に言えばディアゴ村の事は本来、サイカがしなくてもいい事だった。
俺の愛しい妻は自分だけが苦労もない、穏やかに、幸せに過ごす事を良しとしなかった。
サイカと過ごす時間が中々取れず、執務室にサイカを居させ仕事をしていた時だ。
多忙な俺の様子を見て、サイカは自分が出来る事なら手伝いをする、させて欲しいと言い出したのだ。
そんな事はしなくてもいいと、そう伝えたものの…。

『私がしていい、出来る事なら手伝う。
そうすれば、マティアスの負担も少しは減るでしょう?
なら、もう少し一緒にいられる時間も増えるかもしれないし…、ね?一石二鳥じゃない?』

『…いっせきにちょう?』

『あ、…えっと、一つの石を投げたら二羽の鳥を得た…っていう言葉なんだけどね?今の話だと…私が手伝う事でマティアスの負担が減って、その分一緒に過ごせる時間も増えるかもしれないから、一つの事で二ついい事があるってことです!』

『はは、成る程!いっせきにちょうか…面白い言葉だな。
…ふむ、…では、少し手伝ってもらっても?』

『喜んで!』

とまあ、愛らしい笑顔で意気込むサイカに負けたと言った方が正しいか。
初めは簡単なものを手伝ってもらうだけのつもりだった。
走り書きしたものを清書してもらったり、まとめてもらったり、そんな程度のものだったのだが…サイカの能力の高さを侮っていたと言ってもいいだろう。

『マティアス、この書面…もう少し見やすくしてもいい?』

『…ん?』

『あのね、これ…既に内容を分かってる人はすぐ分かると思うの。でも…内容を知らない人がこの資料を手渡されて初めて見たら…何の事かよく分からないんじゃないかなって。』

『…やってみてくれないか?』

『うん!分かった!』

改めて手渡された資料は、はっきり言って出来が良すぎるものだった。
言うならばそう、詳しく説明をしなくとも読めばある程度の事が誰でも分かるようにまとめられており、比較が必要なものは見たこともない図で分かりやすくされていた。

『この資料は今回日照りが続いてしまった村の税を今後どうするか、の資料でしょう?
マティアスから渡された資料に、この村の一昨年と昨年の税収の資料が一緒にあったから、棒グラフを使って一目で分かるようにしてみたの。』

『…ぼうぐらふ?』

『えと、比較するものがある場合に使うの。これが一昨年、これが昨年、これが今年…こんな風にね?これを使うと分かりやすいでしょう?』

『…ああ、…別の資料を見なくても済むな…、』

一枚の紙に多くの情報が記載されてあるそれには、もう驚きしかなかった。
以前にも、サイカのいた“ニホン”という国はこの世界より文明の進んだ世界なのかも知れないと思った事があるが…この時は文明どころか色んなものが進んだ世界なのかも知れないとそう確信すら持てた。
簡単な手伝いだけではなく、その後サイカに色んな仕事を手伝ってもらうと…サイカの優秀さがこれでもかという程分かった。
分からない事を分からないまま進めはしない。
俺の意見や判断が必要なもの、そうでないもの、サイカは仕事の進め方を実に良く知っていたのだ。
連絡や相談、報告は怠らない。
進捗状況や今日はどこまで進める予定かなども。
そうして、任せていたディアゴ村の仕事をサイカは完璧に仕上げていた。

「令嬢たちとはどんな話を?」

「お洒落の話ばかりだったよ~。
私の使っている小物とか、身に付けてるアクセサリーとか、ドレスはどこで?とか…凄く聞かれました…。」

「はは!皆サイカの美しさにあやかりたいのだろう。」

「うーん…、でも個性も大切だと思うな…。皆が同じ格好するのも何か詰まらないでしょう?
あ、マティアス。ディアゴ村の仕事が終わったから資料渡しますね。」

「…もう終わったのか?大変だっただろう?」

「私は皆が頑張ってくれた事を資料にまとめただけ。大変だったのは村で復興作業を続けてる皆だし、村の人たちが一番大変だよ。でも、そのお手伝いが少しでも出来たのなら嬉しいです。」

ディアゴ村で災害が起こってから、村の者たちや色んな人間が村の復興に尽力してきた。
土砂に埋もれてしまった住居の建設、村の者たちへの物資、食料に飲料、国から出した金に、今後暫く村の税をどうするか。
実際に村に行き働く者、その者たちの間に入り、サイカに報告する者。
時折サイカ自らが村へ赴き、報告と相違ないか、また村の者たちと村で作業をしている者たちへ陣中見舞いも兼ねて様子を見に行く。
サイカは俺の予想を上回る働きをしてくれたのだと、渡された資料を見て理解した。
そして冒頭に至る。

「…末恐ろしい女だな、あいつは。
今でこれなら…経験を重ねたらどうなるんだ。」

「…元々、ニホンでは働いていたと言っていましたね…偏見かもしれませんが…その、私はてっきり…店の店員だとか、皿洗いだとか、侍女のようなものをしていたのかと。」

「…でも、多分違う。
この資料、…すごいよ。…村のこと、全然知らない、俺でも、よく分かる…。」

「ああ。長々と村の事を説明しなくともこの資料を読ませるだけで分かるだろう。これまでの事や、今後何が必要なのかも。」

「マティアス。一度…ちゃんとサイカに聞いた方がいいぞ、これは。
サイカのいたニホンがどういった所なのか。恐らく…僕たちが想像も出来ない世界だ。」

「ああ、そう思ったからそなたらを呼んだ。ディーノもそろそろ到着する頃だろう。聞くなら皆が揃った方がいいと思ってな。サイカの話を聞いて考える。サイカの能力を他に見せてもよいものか、それとも隠匿すべきなのか、な。」

「隠匿…何故です?隠す必要はないのではありませんか…?サイカのあの美貌にこの能力の高さ。“私たちの王妃は素晴らしい”と皆が思うでしょう。」

「……ん、すごく、尊敬、する。サイカ、すごい…!」

「…いや、身元を探られ兼ねんな。」

「え…?」

「…リュカ、どういう、こと?」

「あいつの出生はベラトーニ伯爵家の娘という事で一応は片付いている。
しかし、だ。全員がそれに納得しているはずがない。
マティアスとクライス候のお陰で抑えられている部分が大きいだけだ。」

「リュカの言う通り。
サイカが貴族ではなく、娼婦でだった過去、そして異世界から来たその事実を知っているのは俺たち一部の人間だけだ。ベラトーニ伯爵家の出ではないのもな。
がしかし、他の者たちにはそれが真実なのか嘘なのかすら分からない。
ベラトーニ伯爵夫妻と親交のあったディーノが言うのだから、と納得してくれている者が多いが…疑っている者も当然いよう。」

「ただでさえあいつの容姿は他にない程整っているんだ。あれ程の容姿を持つ令嬢がいて、どうしてこれまで噂にすらならなかったのか。疑問に思う声は多かったが…マティアスとクライス候の考えた設定と、サイカの美貌があったから通じた嘘だ。
けれど、全ての者を騙せたとは思っていない。」

ベルナンド、バロウズ、フィル・アルダ・リスティア。
きっとこの者たちだけではない。サイカを狙っているのは。
もしかしたら今も、水面下ではサイカを手に入れようと何者かが動いているのかも知れない。
大国の王太子であろうとサイカに手を出すなら関係ない、そう見せしめのようにリスティア王太子を罰する事に成功したものの、不安が消える事はないのだ。
サイカがサイカである限りは。
サイカを手にいれようと思っている者だけが敵ではない。
サイカを気に入らない人間もきっといて、サイカを陥れようと企む者も必ずいよう。
敵は至る所にいると考えるべきで、サイカが危険にならないよう、俺たちは守らなくてはならない。
愛しい女を失う事だけは、断じてあってはならないのだから。

「サイカが娼婦であった事実、貴族の出ではない事実、そして…“異世界”から来たなど、信じられない話が万が一にも知れたらどうなるか。」

「…僕が敵側ならこう言うな。
“娼婦が王妃などもっての他。”
“そんな怪しい女を国母には出来ない”
サイカを手に入れたいと思うなら、色んな言い掛かりを付けて王妃から引きずり下ろし…守りが虚弱になった所で手にいれようと動くだろう。」

「ですが…“異世界の人間”など本来ならばとても信じられる話ではありません。私たちはサイカがどんな女性であるか知っているから、サイカの言葉を信じていますが…他はそうではないでしょう?」

「…多分、そういうのは…どうでも、いい。重要なのは、“つつく事の出きる弱点”。サイカが王妃なの、大半が、好意的。でも、そうでない奴らからすれば、責める事が出来る要素…。
悪意は、…周りを巻き込む影響が、すごい。一つの悪意が、周りも巻き込んで、大きくなる。」

「…ええ、…そう、でしたね…。
いい話は広まりづらいのに、悪い話はすぐに広まってしまいますから…。
それに、一つでも、事実が含まれていれば…他の、真実ではない悪意の嘘も…真実と周りは捉えるでしょう…。」

だからこそ、一つの弱味も知られてはならない。
知られない為にも、サイカの行動や考えを先に知っておかなくてはならない。

「失礼します、陛下。
クライス侯爵閣下がご到着されました。」

「ああ、来たか。入ってくれ。」

「…マティアス、手紙が簡素すぎるぞ。
“サイカの事で話がある、直ぐに来い”では分からん。…他には知られたくない話がある事は分かったが。」

「その通りだ。
ディーノ、これを読め。サイカが作ったものだ。」

「?」

城に着いたばかりのディーノに数枚の資料を手渡すと、ディーノはすぐに顔色を変えた。

「…これを、サイカが?本当か?」

「ああ。事実だ。
その資料を読んでどう思った?」

「…“危険”だ。
長く仕官して来た者でも一目で内容を把握出来るような…ここまで洗練された資料を作る事は出来ないだろう。
それに、無駄がない。何の情報が必要で、そうでないか…その無駄がこの資料にはない。議題に上がるだろう事項の補足なども別ページにある。」

「ああ。無駄もなく、また足りない事もない。足りない部分が見当たらない。」

「…これを、本当にサイカ自らが作ったのだとすれば…何処で学んだのかも問題になるぞ。まず資料の内容だ。領地の経営だとか、長くそういった仕事に関わっていなければこうも分かりやすくまとめる事など出来ん。伯爵家でも人の目に付く事なく守られ、夫妻亡き後は人目の付かない場所で老いた使用人夫婦に守られながら…の設定だととても無理がある。」

「だからこそ、サイカ自身から故郷の事、そこでの生活を改めて聞く必要がある。…詳しく。そう、一つも漏れがないように。」

ただの異世界ではない。
この世界とサイカの世界、その差が大きく感じるのだ。
“確認をお願いします”とサイカからディアゴ村の資料を貰うまでは、そこまで大きな差があるとは思わなかった。
差があったとしても想像の範疇で、こういう事か?と出来る範囲での差だと思っていたからだ。
想像出来るのと想像出来ないのとでは全く違う。以前サイカの話を聞いて、俺たちがいる世界より文明の進んでいる世界なのかも知れない、とは思っていた。
だが…これはまるで、別世界だ。
サイカ自身の話だけではなく、サイカのいた世界の話も詳しく聞く必要があったのだと、もっと早くに気付くべきだった。
男五人で難しい表情を浮かべていた所でサイカが部屋に到着する。
着いて来ていた侍女たちを下がらせ、俺の隣にサイカを座らせた。

「呼び出してすまないな、サイカ。」

「ううん、皆に会えて嬉しいから全然大丈夫です!
それで…話って?」

「今日は改めて、そなたのいた“ニホン”の話を聞きたい。」

「日本の…?」

「ニホン、と言うか…そなたのいた世界が、どんな世界か、だな。時代もそうか…。
サイカのしていた仕事がどんなものか、文明、生活水準、色々だ。
これまで何度か故郷での生活の話は聞いた。だが…サイカの生活だけでなく、そもそもサイカのいた世界、時代がどんなものなのかを聞く必要があるんだ。」

「…えと…?」

「そなたはこの資料を、当たり前のように作った。まるで、これが“普通”であるかのように。
サイカは…ニホンにいた頃、こういった資料をよく作っていたのではないか?」

「え?あ、はい。それが仕事でした。
会議用の資料を作ったり、営業さんの持ってきた情報とか、えと、次に営業さんがお客さんに会う時とか、役立つような資料を作るお仕事と言いますか…会社で働く人たちのサポートをするのがお仕事でした。」

「詳しく教えてくれ。カイシャとは何だ?商会のようなものか?」

そこからのサイカの話は衝撃の連続だった。
子供の頃から勉学を学べる、“ガッコウ”というものの存在事は聞いていたが、それが年齢に合わせ、学ぶものの難度が変わるというのだから驚きしかない。
大体六歳頃から十五歳頃までは義務として教育を受け、“コウコウ”というのと“ダイガク”というものに通うのは本人の自由。しかし大体が“コウコウ”まで勉学を学び、働くのだと言う。

サイカのいたニホンには沢山の娯楽と物に溢れ、世界中の国と貿易をしているという事実。
職も沢山あり、似た職種でも仕事内容は違ったり。
サイカは十八から働き出し、二十五になる八年間で三つのカイシャに勤めたと言った。
一つは接客業、雑貨屋の店員をしていたらしく、そこで客商売を学んだと言った。
二つ目はコールセンターという職。信じられないが離れていても会話が出来る道具があり、コールセンターで一番精神が鍛えられたと言った。
三つ目はこの世界に来るまで働いていたカイシャで、今回の資料はこのカイシャで学んだものだと言う。

サイカが説明し辛い事は図にしたり絵にしてもらったが…もう信じられない話ばかりだった。
箱が人を乗せて空を飛ぶだとか、道を走るだとか。
走る箱、“クルマ”はサイカがニホンで死んだ原因でもあるのだが。
世界のどこでも、とはいかないが多くの世界に行き来出来るだとか。
会わなくとも会話が出来るだとか。
シャンデリアのような照明を指一つで明かりを灯す事が出来るだとか、火をおこしたり水を出すのも片手で事足りるだとか。
未知だ。これはもう、想像すら出来ない未知の世界でしかない。
知ったつもりでいた事が、正しく、知った“つもり”だったのだと、俺たちは改めて頭を抱えるのだった。
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