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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆

第百二十四話 小沛の急襲

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呂奉先から同盟の使者として派遣された陳元龍ちんげんりゅうは、曹孟徳が滞在するきょへ到着すると、会談にのぞんだ。
彼が奉先からの使者だと聞き、孟徳は喜びをあらわにして彼を手厚くもてなしてくれた。
その後、広間で謁見えっけんした元龍は改まった態度で孟徳に礼を返す。

「曹司空しくう殿、此度こたびは心よりのご歓待かんたい、誠に恐縮至極きょうしゅくしごくに存じます。」

この頃、孟徳は皇帝から拝命はいめいされた大将軍の地位を袁本初に譲り、司空、車騎しゃき将軍の職にいていた。

「私は同盟の使者として此処へ参りましたが、司空殿に信を置いて頂き、これ程の厚遇こうぐうたまわりました上は、私も真実を述べねば成らぬでしょう…!」
「真実とは、どう言う意味だ…?」
元龍の言葉に、孟徳は眉をひそめる。

「この同盟は上辺うわべだけのもの。司空殿の目をあざむき、油断させる事が目的なのでございます…!」

そう言うと、元龍は稍々視線を上げて、孟徳の顔色をうかがった。
孟徳は黙ったまま、眉を動かさずに彼を見詰めている。
その表情には驚きよりも、やはりといった複雑な感情が見て取れる。
元龍は更に言葉を繋いで、彼の心情をあおろうと目論もくろんだ。

「軍師の陳公台は野心家で、呂奉先をおだてて悪知恵を与えている事は明白。袁公路が皇帝を僭称せんしょうした事で、皇帝の権威が失墜しっついしていると説き、呂奉先にも皇帝を名乗らせようと考えているのです…!」

「皇帝を…?!」
孟徳は思わず声を上げ、身を乗り出した。
彼が今まで抱いていた疑念ぎねんが、確証かくしょうへと変わった。

公台は、やはり知っているのだ…!

孟徳は拳を強く握り締め、眉間に深くしわを刻みながら考え込む。
その様子を真顔のままで見詰めている元龍だったが、彼は内心北叟笑ほくそえんでいた。

彼の話しのほとんどは当然出任でまかせである。
父子おやこは始めから呂奉先を信頼しておらず、彼らを徐州から追い出したいと考えており、曹孟徳と同盟させる気など更々さらさら無かった。

「司空殿、今こそ徐州へ攻め込み、呂奉先を滅ぼすべきです…!」
「………!」
孟徳は強く歯噛みをした。

今、皇帝を擁しているのは自分であり、万が一彼の言う通り奉先が皇帝を自称した場合、当然逆賊として討伐せねば成るまい。
それならばまだしも、もし奉先が桓帝かんていの遺児である証拠が発見され、諸侯しょこうらに認められたらどうなるのか、逆賊にされるのは自分である。
考えれば考える程、彼の胸中は複雑であった。
にわか青褪あおざめ、額に大粒の汗を浮かべた孟徳は、苦しげに両手で額を押さえる。

「司空殿…大丈夫ですか?」
その様子をいぶかり、元龍が声を掛けた。

「ああ…申し訳無いが、今日の所は此処までにして貰えるか…?頭痛がするので、少し休みたい…」
苦しげにうめく孟徳に側近らが駆け寄り、彼の体を支えて広間から連れ出して行く。
元龍は呆気に取られてその光景を眺めていたが、やがて一人の男に声を掛けられ、我に返って声の主を見上げた。

「見ての通り、司空殿は体調がすぐれぬ様子。貴殿は一先ず、宿舎へ向かうが良い。俺が案内しよう…」
男は何処か無愛想ぶあいそうな態度で彼をうながす。
元龍はむ無く彼に従って広間を後にした。

「あの…曹司空殿は、もしやご病気ですか?」
前を行く男の背にそう声を掛けると、男は肩越しに振り返り、目元に微笑を浮かべる。

「今、孟徳殿に死なれては困るか?」
「いや、私はただ…」
「ふっ、心配はいらぬ。所謂いわゆる持病じびょう”と言う奴だ。近頃心労がかさみ疲れが溜まっておられるので、時々あの様に頭痛を訴える事があるのだ。」
「そうでしたか…」
男と会話を交わしている内、やがて宿舎へと辿り着く。
宿舎の門まで案内されると、男は振り返って彼を凝視ぎょうしし、再びおもむろに口を開いた。

「貴殿の話しは口から出任でまかせであろうが、あながち間違ってはいないかも知れぬ…孟徳殿と呂奉先をあらそわせたいと考えているのだろう?貴殿が心を寄せているのが孟徳殿では無い事も分かっている。」

「……?!」
はっとして息をみ、思わす男の顔を見上げる。
しばし返す言葉にきゅうしていると、男は小さくふくみ笑いをし、

「安心しろ。貴殿とは方向が違っていても、目的地は同じと言う事だ。」
そう言って、意味深長しんちょうとも取れる言葉を投げ掛けられた。

「俺は、郭奉考かくほうこうと申す。機があれば、いずれまた何処かで出会う日が来るだろう…」
彼は更にそう言い残し、宿舎の門をくぐって立ち去って行く。
元龍はただ押し黙って、遠ざかる彼の背中を見送った。


息子の元龍が許へ出立しゅったつした日の朝、再び呂奉先の元を訪れた漢瑜かんゆは、次の様にべた。

「袁術軍に備える為にも、小沛しょうはいの劉玄徳に軍事を強化させておいた方が良いでしょう。劉備軍が破られれば、この下邳かひを包囲される恐れがございます。劉玄徳に兵を集めるよう指示を出しましょう。」
寿春には袁公路がおり、徐州の開陽かいようには独立勢力となっている臧覇ぞうは(字を宣高せんこう)が居る。
彼の言う通り、劉備軍を破られれば下邳の逼塞ひっそくは免れないのである。
臧宣高とは莒県きょけんの辺りでしばしば領土争いも起っており、奉先がそれを認めると、彼は自ら小沛へ向かう役をになって、翌日には漢瑜も下邳を出発した。

「奉先様、あの父子おやこは信用出来ません!彼らを捕らえて首を斬りましょう…!」

漢瑜が下邳を離れた事を知った陳公台こうだいは、何時いつに無く激しい口調で奉先に迫った。
公台は、陳元龍が許へ発つ前に彼と議論を交わした経緯けいいがあり、その時から彼ら父子がしん劉備派であると確信し、必ず自分たちをあざむくと読んでいたのである。

「確かに、彼らに全面的に信を置くのは危険かも知れない。だが、陳氏とお前は同族のよしみもあるだろう、少し様子を見た方が良いのでは無いか…?」
その時は、そう言って奉先になだめられ、少し冷静さを取り戻した公台は、
「そうですね…」
と、小さく溜め息をいて大人しく引き下がったのであった。

しかし陳元龍が許へ向かってからおよそ半月近くがとうとしていたが、未だに彼からの連絡は届かず、次第に奉先も不信感をつのらせて行った。
その間、小沛の劉玄徳は軍事を強化する為、兵を集め続けており、更に河内かだいいて、呂布軍が軍馬を購入する為の資金を劉備軍に奪われると言う事態が起こった。

「これ以上は黙って見過ごす訳に参りません…!今こそ、小沛を攻め落し劉備軍を滅ぼしましょう!」
軍議の場で、声を大にして公台が訴える。
流石さすがの奉先も今回ばかりは我慢が成らず、怒りをあらわにして士恭をかえりみた。

「士恭、文遠らと共に小沛の攻略へ向かってくれ…!」
かしこまりました!」
それに対し淀みなく答えると、士恭は奉先に向かって力強く拱手きょうしゅした。

奉先から中郎将ちゅうろうしょうに任じられた士恭は、自らの精鋭部隊を引き連れて北地ほくち太守の張文遠の元へ向かい、彼の部隊と共に小沛へ向けて出撃を開始した。
高士恭の精鋭部隊は千人に満たなかったが、その破壊力は凄まじく、数々の戦場で攻撃した敵陣を必ず陥落させる事から、“陥陣営かんじんえい”と言う異名で恐れられていた。

小沛でその報を受けた劉玄徳は、直様すぐさま迎撃部隊を送り出したが、兵力不足により各個かっこ撃破されてしまう。
数日の内に呂布軍は小沛へと辿たどり着き、激しい戦闘が繰り広げられたが、遂に小沛の居城は陥落。
城内へ雪崩なだれ込んだ敵兵に占拠せんきょされ、玄徳らの一族郎党ろうとうは忽ち捕らわれてしまった。

その頃、玄徳は義弟おとうとたちと共に城外で戦闘をしていたが、最早城の奪還だっかんは不可能とあきらめ、小沛を捨てて敗走を始めた。

「劉玄徳を逃しては成らぬ!」
士恭は文遠に命じて、逃げる劉備軍を追撃させた。
文遠が指揮するのは、当時最強をほこ并州へいしゅう騎兵部隊である。
その速さは、正に“神速しんそく”(神の領域と言えるほどの速さ)と呼ぶに相応ふさわしく、忽ち劉備軍に肉薄にくはくした。

遂に玄徳の部隊に喰らい付いた文遠は、玄徳を捕らえようと彼に迫る。
玄徳は双剣そうけんを振りかざして文遠の大刀たいとうと数合に渡り打ち合ったが、劉備軍の部隊は既に壊滅寸前であった。

その時である。
戦場に劉備軍の増援部隊が到着した。正確に言えば、それは曹操軍からの救援部隊であった。
先鋒せんぽうは、五万の大群を引き連れた夏侯元譲かこうげんじょうである。
元譲は、孟徳から小沛の救援に向かうよう命を受け、兗州えんしゅうから昼夜ちゅうや此処まで走り抜けて来たのである。

「何故此処に、曹操軍が…?!」

驚いた文遠は追撃を一旦諦め、これでは多勢たぜい無勢ぶぜいであると陣を張って守りを固めた。
しかし、文遠は幾度か陣から出ては元譲の部隊に突撃を繰り返すなど、勇猛ゆうもう果敢かかんに攻撃を仕掛け、彼らの部隊を蹴散けちらす事に成功したのであった。

小沛の救援に曹操軍が現れた事は、下邳の奉先の耳にも届いた。
同盟の使者として送り出した陳元龍は、奉先を裏切った上、有ろう事か孟徳と劉玄徳を同盟させていたのである。

宿舎で二日を過ごし、陳元龍は再び会談の場へ呼び出された。
そこで劉玄徳との同盟を提案したのだが、既に配下たちとの話し合いが行われていたらしく、孟徳は迷いを断ち切った様子であった。

「劉玄徳と結び、徐州を攻める…!奉先とは、いくさで決着をつけるのも悪くない…!」

孟徳はそう言って拳を強く握り締め、かたい決意を述べた。

あの郭奉考と言う人物が後押しをしたに違いない。
去り行く奉考の姿を脳裏に思い浮かべながら、元龍はそう思った。

「近い内に、小沛の劉玄徳から援軍の要請ようせいが有るでしょう。軍備を整えておくべきだと思われます。」
元龍に裏切られた事を知れば、奉先は恐らく小沛へ兵を向ける筈である。
彼の読み通り、奉先は小沛を急襲きゅうしゅうした。
この時から既に、奉先は彼らの術中じゅっちゅうはまっていたと言えるであろう。

曹操軍の主力が迫っている事を知り、小沛の高士恭と張文遠はむ無く捕らえた玄徳の一族郎党を解放し、下邳へと撤退した。

「公台、俺がお前の意見を採用していれば、こうは成らなかったかも知れぬ…」
軍議の場には重苦しい空気が漂っている。
酷く憔悴しょうすいした様子の奉先を見上げると、陳公台は彼をはげます様に言った。

「過ぎた事を言っても仕方が有りません。奉先様、まだ活路かつろはございます。袁公路と和睦わぼくなさるのです…!」
「公台殿、本気なのか…?!」
思わず文遠が声を上げる。

「袁公路は、曹操軍に徐州を奪われたくないと考えているでしょう。必ず和睦に応じる筈です…!」
「だが、彼は猜疑心さいぎしんが強く、友好関係を保つのは難しいだろう?」
「背後から襲われなければ、それで良いのです。下邳は天然の要害ようがいに守られており、地の利がございます。奉先様、どうか僕を信じて和睦交渉に向かわせて下さい…!」
必死に訴える公台を、奉先は押し黙ったまま見詰めている。

「公台殿、いい加減に目をませ、これ以上の戦いは無意味だ…!」
それまで黙って聞いていた士恭が、声を荒げて叫んだ。

「俺も奉先殿も、今までお前の事を信じて見守って来た…だが、今のお前は常軌じょうきいっしているぞ…!お前の行動は、奉先殿と我々を破滅へと導いている。それが分からぬのか…?!」
「違います…!僕はただ…」
「曹孟徳の元にいた頃、彼の陣営には優秀な人材が多く、お前はそこまで重用されていなかった。だが此処なら、奉先殿はお前を重用し、必要としてくれる。だから降伏を受け入れたく無いのであろう…?!」
彼の言葉をさえぎり、瞳を赤くして見詰める公台に迫ると、士恭は更に激しく追究ついきゅうする。
周りの空気は一気に張り詰め、皆押し黙ったまま二人の様子を見守った。

「僕は…僕はただ、奉先様を…!」
不意ふいに公台の瞳から大粒の泪があふれ出し、彼の頬を止めなく流れ落ちる。

「士恭、公台…もう良い、止めろ…!」

二人の間に奉先が割って入り、小さく肩をふるわせている公台をかえりみた。
やがて奉先は瞳に憐憫れんびんの情を浮かべると、彼の肩を掴んで大きくさ振る。

公台と俺は同じだ…
彼は士恭の言葉を聞きながら、強く胸が痛むのを感じていた。

誰でも、自分が必要とされる場所を望んでいるのだ。
それが例え困難な状況であっても、そこでしか得られない“生きる”と言う強い感情。それが無ければ、生きている価値が無いとさえ思える。
奉先はまぶたを閉じ、胸に込み上げる熱い物を、外へ吐き出そうと大きく息を吸い込んだ。

「公台、お前の気持ちは俺にも良く分かる…こんな事を言うのは、不謹慎ふきんしんだと思われるだろうが…孟徳殿との幾多いくたの戦場で、俺は生きていると言う強い実感を得ていた。孟徳殿の存在は、俺にとって良くも悪くも“生きる”と言う感情を与えてくれる。だから…俺は公台と共に、最後まで戦いたいと思う…!」

「奉先様…っ」
その言葉を聞いた公台は、れた瞳で奉先を見上げ小さく唇をふるわせた。

みなの者に強要はしない。去りたい者は去ってくれ…」

奉先は、一様いちように暗い表情でうつむく将たちの顔を見渡す。
彼らは皆黙したまま、それぞれに深い感慨かんがいを覚えている様子であったが、その場から立ち去ろうとする者は誰一人いなかった。

「奉先殿…俺は、最後まで貴方に付き従うと誓った。貴方がそうと決めたなら、異存いぞんは無い…!」
士恭は奉先に歩み寄り、微笑を浮かべて彼の肩を強く叩く。
やがて将たちも顔を上げ、皆力強くうなずき合った。

「皆、お前を信じて此処まで付いて来た。降伏するのは、まだ先でも良い。最後まで全力で戦い、俺たちの精強せいきょうさを敵に見せ付けてやろうではないか…!」

文遠が暗い空気を一蹴いっしゅうする様に声高こわだかに言うと、将たちの間からも気合いを込めた掛け声が上がる。

皆の思いが一丸いちがんとなっている。
そう感じると、胸に熱い思いが込み上げてくる。
奉先は、一人一人の顔を見渡すと仲間たちに微笑を向け、彼らと共に曹孟徳との最終決戦に挑む決意を誓い合ったのであった。
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