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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆
第百二十五話 下邳の戦い
しおりを挟む許都から主力部隊を率いて戦場へ到着した曹孟徳は、呂奉先に小沛を追われた劉玄徳らと合流すると、大軍で押し寄せ忽ち小沛を取り戻した。
その後、小沛から近い簫関の砦へ逃げ込んだ呂布軍と対峙したが、彼らは攻撃の手を緩めず苛烈に攻め立てて砦を落とすと、次は彭城まで侵攻し、そこでも呂布軍を打ち破った。
曹操軍の戦法は、小沛から一気に徐州へ攻め込み、下邳を攻略する作戦である。
戦略は、軍師の郭奉考と、荀文若の推薦で新たに曹操軍に加わった、荀攸(字を公達)と言う人物らが提案した。
荀公達は、豫州潁川郡潁陰県の人で、荀文若の従子(甥)に当たるが、年齢は文若より五つ年上である。
甥が叔父より年長とは少し想像が付き難いが、当時としては珍しくは無かった。
公達は以前、董仲穎が政治の実権を握ると、その暴虐な政治に憤り、議郎の鄭泰、何顒、更に侍中の种輯、越騎校尉の伍瓊らと共に、董卓の暗殺を図った事がある。
しかし、計画は事前に仲穎側に発覚し、公達は何顒と共に投獄され、死刑を言い渡されてしまった。
共に投獄された何顒は憂いのあまり獄死を遂げたが、公達は泰然自若として、話す時も食事を摂る時も普段と変わらぬ様子だったと言う。
その後、処刑を間近に董仲穎が奉先によって誅殺された事で、公達は獄から脱出する事が出来たのであった。
大軍を擁している曹操軍は、戦が長引けば兵糧の確保が問題となる為、短期決戦を望んでいる。
そこで呂布軍は下邳まで退くと、籠城の構えを見せ、長期戦に持ち込む作戦に出た。
同時に、袁公路との和睦交渉の為、陳公台は下邳を離れ、急ぎ寿春へと向かっていた。
しかし、公路との和睦は無条件と言う訳には行かぬであろう。
そこで奉先は、この戦で曹操、劉備の連合軍を退ける事が出来れば、徐州の領土を割譲すると言う条件を付け、公台を送り出していた。
「俊、お前は貂蝉と共に、雲月と雲彩を連れて密かに下邳を脱出し、彼女の故郷へ向かってくれ。」
居室へ呼び出した俊と貂蝉にそう告げると、俊は拳を握り締めたまま立ち尽くし、貂蝉は赤い瞳を潤ませ、二人はそれぞれ奉先の顔を凝視した。
「僕は…奉先様と共に戦いたい…!」
身を乗り出し、小さく唇を震わせて俊が訴える。
奉先は彼の肩を強く叩き、その瞳を覗き込むと、
「お前には、家族を護って貰いたいのだ。此処はやがて戦場となる。まだ産まれたばかりの雲彩には命の危険が大きすぎる…」
そう言って、強い口調で彼を説得した。
目元を赤く染めた俊はやがて俯き、大きく肩を落としながらも、小さく首を縦に振って理解を示す。
「私は行かない…!奉先と一緒に此処に残るわ…!」
しかし、貂蝉は下邳を離れる事を頑なに拒絶した。
「貂蝉、お前は雲月の支えとなってやってくれ。戦が終われば、必ず迎えに行くと約束するから…!」
「嫌…っ、私は此処から離れたく無いの…!此処で別れたら…きっと、もう貴方とは会えなくなる…!」
忽ち大きな瞳から泪が溢れ、彼女の紅潮した頬を伝い落ちる。
「皆が死ぬ覚悟だって、私には分かってるの…だから…!」
「…貂蝉」
憂いの眼差しで彼女の濡れた瞳を見詰め返すと、貂蝉は再び泪を零し、奉先の胸に強く抱き着いた。
声を震わせて泣く貂蝉の肩を撫で下ろし、奉先は瞼を閉じて、彼女の柔らかく艷やかな黒髪に頬を押し当てる。
「心配するな、貂蝉。俺は死んだりしない…」
今の彼には、泣き続ける貂蝉の頭を優しく撫で、慰めの言葉を掛ける事しか出来ない。
「この子たちも、あんたの大事な仲間だろう…望みを聞いてやってはどう?」
いつの間にか居室に姿を現した雲月が、眠る雲彩を腕に抱きながら、彼らに声を掛けた。
「それに俊は、もう立派な兵士だよ。兵は一人でも多い方が良いじゃないか…!」
雲月はそう言って笑い、俊の肩を強く叩く。
思わず顔を紅潮させながらも、俊は力強い眼差しを奉先に向け、大きく頷いて見せた。
雲月は微笑を湛え、振り返って彼女を見詰める奉先に静かに歩み寄ると、そっと指を伸ばして彼の頬を優しく撫でる。
「あたしだって、故郷へ帰る気は無いよ。あんたの妻なんだから、最後まであんたに付いて行くと決めたんだ…!」
「雲月…」
初めて見る様な妻の潤んだ瞳に、強い愛おしさを懐き、奉先は彼女の額に自分の額を押し付ける様にして、その肩を腕に引き寄せた。
西の窓から差し込む落日の光芒が、雲月の腕に抱かれ、すやすやと眠る邪気ない雲彩の頬を、暖かな茜色に照らし出している。
やがて、赤い夕陽は遠い地平の彼方へと消え行き、辺りは次第に紫紺の闇へと染まって行った。
寿春へ向かった陳公台は袁公路との面会を果たし、和睦交渉に臨んでいた。
公路は和睦について一応の理解は示したものの、やはり無条件と言う訳には行かず、領土の割譲を提示して漸く納得した。
それから暫し、談笑などを交えて会話を繋いでいた公路だったが、徐に身を乗り出すと、公台に問い掛けた。
「所で…奉先殿には、娘がいると聞き及んでおる。わしには息子がおり、その娘を嫁に貰いたいと考えておるのだが…どうか?」
「お嬢様を、ですか?!」
公台は思わず瞠目し、公路の顔を驚きの表情で見上げた。
しかし、彼は直ぐに相好を崩すと、
「それは良いお考えです。公路様の御子息なら、奉先様もきっとお喜びになる事でしょう…!」
そう答えて満面の笑みを浮かべた。
奉先の娘、雲彩はまだ生まれたばかりの赤児である。
公路の息子との結婚を奉先が許すとは到底考えられない。それに、第一に妻の雲月が認める筈が無いであろう。
しかし、猜疑心の強い公路は、口約束だけでは信用出来ないと考えている。
公路は、お嬢様を人質として手元に置いて置きたいのだ…
直ぐにそう思い至った公台は、此処で難色を示し折角の交渉を決裂させてはまずいと考え、敢えて喜びを表したのである。
「それでは、必ずお嬢様をお連れして参ります。どうぞ今暫くお待ち下さいませ。」
そう言うと、公台は公路に丁寧に礼を返し交渉の場を離れると、急ぎ帰路に着いた。
下邳へ戻った公台から、袁公路に持ち掛けられた婚姻話を聞いた奉先は当然驚き、激しく困惑した。
「雲彩を、袁公路の息子と結婚させるだと…?!」
「心配には及びません、奉先様…!考えてもみて下さい。我々の条件は、曹、劉連合軍を退けたら…と言うものです。そもそも退ける事が出来なければ、公路には何の利益も有りませんから、彼は嫌でも我々に援軍を送らねばなりません。お嬢様をお連れするのは、袁術軍に援軍を要請する時で構わないのです…!」
公台は、動揺を隠し切れない様子の奉先を宥める様に説明した。
「なる程…そうか、援軍を要請する必要が無ければ、雲彩を送る必要は無いと言う事だな…」
奉先は唸る様に呟き、居室の窓から覗く庭先で、雲彩をあやしている美しい妻の姿を見詰める。
視線を感じたのか、ふと顔を上げて此方を振り返った雲月と目が合うと、奉先は咄嗟に彼女に向かって笑顔を取り繕った。
雲月はそんな彼の様子を可笑しそうに見て笑ったが、彼女は元々勘が鋭い女性である。
内心では奉先が悩みを抱いていると感じ取り、瞳に憂いを漂わせていた。
「しかし、籠城を視野に入れるとなれば、援軍を要請する時が来る事を覚悟しておいた方が良いでしょう…」
「敵の兵糧が切れるのが先か、こちらの気力が尽きるのが先か…根比べと言う訳だな。いざとなれば、雲月を説得して俺が自ら雲彩を連れて公路の元へ行こう…!」
奉先が小さく虚空を仰ぎ見て答えると、公台は彼の横顔に向かって拱手した。
下邳は天然の要害に守られている。
公台の言った通り、下邳を落とすのはそう簡単には行かない。
曹操軍は大軍で下邳を取り囲んだものの、既に半月を要しても落とす事が出来ずにいた。
このままでは兵糧が尽き、戦どころでは無くなってしまう…
孟徳は焦りを覚え、一度包囲を解いて小沛まで退く事を、軍師の郭奉考らに相談した。
「此処で兵を引いては、これまでの戦が無に帰する。敵が気力を取り戻し、軍師の陳公台が軍略を立てるのに時を与えてしまっては、再び攻めても守りは更に強固な物となり、落とすのは難しくなってしまうであろう。」
奉考の意見は尤もである。
だが、孟徳は何時に無く弱気な態度を示す。
「しかし、我々は大軍を率いており速攻で攻め落とさねば意味が無い。こうも長引けば兵たちの士気は下がり、その隙を狙われれば、忽ち突き崩されてしまうだろう…!」
皆の前で何時も強気に振る舞ってはいるが、ここの所、負け戦に見舞われ大事な寵臣や家族を相次いで亡くす等、精神的に追い詰められる事が多かった。
彼は元々繊細で、心配性な質なのである。
孟徳の幕下に入って間も無い奉考だが、今迄に此程共に過ごす時間が楽しいと思える人物に巡り会った事は無く、彼とは非常に肌が合うと感じていた。
そんな奉考には、彼の気持ちが痛い程良く理解出来る。
仕方が無いな…あの男を呼び寄せるか…
実の所、奉考は余り乗り気では無かったが、孟徳は奪い返した小沛を再び劉玄徳に与え、彼に小沛を守らせていた。
玄徳と孟徳が知己の間柄である事は知っていたが、彼としては玄徳との同盟は小沛を通過する為だけのものであり、本気で同盟関係を築く積りでは無い。
だが、今の孟徳には彼の助けが必要だと感じ、奉考は小沛へ伝達の者を送って、玄徳に兵を率いて下邳へ来るよう促した。
奉考の求めに応じて下邳へ向かった玄徳は、曹操軍の陣営に到着すると早速、義弟たちを伴って孟徳の幕舎を訪れた。
「お前にしては、随分と攻め倦ねている様子だな。」
不躾な態度で言いながら微笑を浮かべる玄徳を見上げると、孟徳は苦笑し、
「玄徳、良く来てくれたな。お前の予言を聞かせてくれよ。良い兆しか、それとも悪い兆しか?」
そう言って、少し皮肉を込めて返す。
微笑を湛えたまま、暫し黙して彼を見詰め返していた玄徳だったが、ふと笑いを収めると、瞳に憂いの陰を落とした。
「良い兆し…とは言えぬが、悪いとも言えない。」
「何だ、お前にしては歯切れの悪い言い方だな…!」
煮え切らない答えを返され、孟徳は少し不満の表情を見せる。
落胆した様子の孟徳を暫し見詰めていた玄徳は、やかて感情を押し殺した様な声色で冷静に彼に問い掛けた。
「良いか悪いかはお前次第。奉先を、お前はどうしたい?殺すのか、それとも生かすのか…?お前の望む未来とは何だ?」
「…先の事は、まだ何も考えていない…今は、兎に角この戦に勝利する事だけだ。」
「ならば、今お前が立ち向かわねば成らぬ敵は…己自身だな。」
彼の言葉に一瞬眉を顰めたが、孟徳は直ぐに愁眉を開き、
「ふっ…そうだな、その通りだ…!」
そう言って小さく笑うと、幕舎の外に控えていた側近を呼び寄せる。
「軍師に伝えてくれ。このまま包囲を続ける。撤退はしないとな…!」
「畏まりました!」
側近は素早く拱手し、その場から立ち去って行った。
それを見送った後、玄徳の傍らに立つ翼徳が孟徳を顧みる。
「ちびすけ、お前もすっかり偉くなったものだな…!」
そう言って笑うと、孟徳も白い歯を見せて笑い返し、彼らの肩を強く叩いた。
「お前たちは相変わらずだな!あれから、落ち着いて話す機会が無かったが、今日はゆっくりとして行けよ。」
彼らは小さいながらも酒宴を開き、思い出話しに花を咲かせて談笑などしていたが、やがて夕刻に近付くと、幕舎の外から小さな雨音が聞こえ始めた。
「外は雨だな…ここには泗水、沂水、沐水と言う三河が流れ、低い土地に陣を置くと河が氾濫を起こした時、危険ではないか?」
ふと、そちらを振り返った玄徳が小さく憂慮の言葉を口にする。
「ああ、軍師の公達や奉考とも話したのだが、上流に大きな水門が設置されていて、水の流れを調節すれば大丈夫なのだそうだ。それに、丘へ上がって糧道を絶たれる事の方が危険だと言ってな。」
「なる程、そうか…」
玄徳は小さく呟くと瞼を閉じ、手に酒坏を取って向き直る。
それから静かに瞼を上げると、向かいに座す孟徳に視線を送った。
「孟徳、“降龍の谷”での戦を覚えているか…?」
「勿論だ、今でも鮮明に覚えている…!
孟徳は頬を紅潮させ、少し興奮気味に答える。
「あの時は長雨が続き、蓄えられた水が、砦の岩肌から一気に溢れ出し、何本もの滝になって呂興将軍の部隊を襲ったのだ。」
玄徳が語るのを聞けば、その光景が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
「ああ…あの光景は幻想的で、実に美しかった…!」
「ふっ、あれは偶然の産物だったが、結果的には敵の部隊を壊滅させる事に成功した。水の破壊力とは凄まじい…」
「そうだな、あれは見事な水計だったよ…!」
そう言うと孟徳は膝を打って笑い、彼らは再び酒坏を交わして夜更け近くまで語り合った。
気付けば、幕舎の外から聞こえていた雨音は何時の間にか大きく鳴り響き、雨は何時止むとも知れず降り続いた。
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