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第八章 江東の小覇王と終焉の刻

第九十一話 襄陽の戦い

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孫文台そんぶんだいは、袁公路えんこうろから襄陽じょうよう城攻略の命を受け、荊州けいしゅうの南郡へ向けて進軍を開始した。

その報を受けた劉景升りゅうけいしょうは、ただちに江夏こうか太守の黄祖こうそ樊城はんじょうへ派遣し、樊城と襄陽城とで連携して敵に当たらせ、孫堅軍の撃退を試みた。

黄祖は兵を樊城と鄧城とうじょうへ分け、攻め寄せる孫堅軍を食い止めようと奮戦したが、孫文台の率いる強兵たちによる猛攻を防ぎ切れず、黄祖の軍は大敗。
黄祖は樊城まで逃げ帰ったが、たちまち城を落とされ、漢水を渡って今度は襄陽城まで逃走した。

黄祖を追撃し漢水を渡河とかした孫堅軍は、そのまま襄陽城まで攻め寄せ、ぐ様城を包囲してしまった。
この時、襄陽城が陥落かんらくするのは、最早時間の問題と思われた。

その後、景升から兵士を補填ほてんするよう命じられた黄祖は、夜を待ち、夜闇に紛れてこっそりと城を抜け出すと密かに兵士たちを掻き集めたが、その行動は既に読まれており、待ち伏せていた文台の兵たちに襲撃されてしまう。

退路をはばまれ城へ帰還出来なくなった黄祖は、止む無く峴山けんざんへ逃げ込み、そこへ潜伏した。

黄祖は既に袋のねずみである。
文台は早速山狩りを開始し、黄祖を捕らえようと自らも手勢てぜいを率いて山へと分け入った。この時、文台はわずかな兵しか引き連れていなかった。

山深くまで足を踏み入れた時、偶然にも隠れていた黄祖の兵たちと遭遇。
文台は、黄祖を逃すまいと逃げる兵たちを追撃した。

だが、そこには伏兵が待ち構えていたのである。

途端に、樹木の陰から無数の矢が放たれ、矢は命中した文台の体を貫いた。
そのまま呆気あっけ無くも文台は絶命してしまい、総大将を失った孫堅軍はたちま瓦解がかいし、止む無く襄陽から撤退したのであった。


使者からその話を聞いた伯符はくふは言葉を失った。

父上が…死んだ……!?

報告に訪れたのは、文台の右腕とも呼べる人物である。
常に文台の近くに付き従い、黄巾党の乱や陽人の戦いで共に戦った猛将でもあった。

彼の名は程普ていふ、字を徳謀とくぼうと言う。
州群の役人であったが、風貌に優れ先見せんけんめいが有ると孫文台に見込まれて、その片腕をになうまでになった。
その彼の報告に、伯符は言い知れぬ違和感を感じていた。

孫文台は歴戦の猛者もさであり、戦に不慣れな黄祖の伏兵を見抜けぬ筈が無い。
それに、部下の将を使わず自ら黄祖の追撃を行った事にも疑問が残る。

「あの父上が、その様な軽率な行動を起こすであろうか…?!」
伯符は、無念な思いを絞り出す様に低くつぶやく。

文台はまだ壮年そうねんであり、今後益々ますますその勢いは盛んになると、誰もが期待していた。
正に、これからと言う時である。

「これは…わたしの見解ですので、聞き流して頂いても結構です。その前に、これを…」
徳謀はそう言って荷を解き、その中から小さな包みを取り出した。
その包みを広げ、伯符の前へと差し出す。

「これは…!?」
伯符は目をみはり、その黄金こがね色の輝きを見詰めた。

「これは、“伝国でんこく玉璽ぎょくじ”です。主殿あるじどのは…自分の身に何かあれば、これを必ず若様わかさまに届けよと、私に預けておられたのです。」

「父上が玉璽を持って、雒陽らくようを去ったという噂は、まことであったのか…!」
室内の光りを集め、怪しく輝く玉璽を前に伯符はうなった。

「はい。雒陽の後始末をしていた時、宮殿近くの井戸の中から引き上げた、女官にょかんの遺体が胸に抱いていたのです…」

燃え盛る雒陽で、逃げ場を失ったのであろうか。
玉璽を抱いたまま、自ら井戸に身を投じたのであろう…
そう思うと、伯符は両目を閉じて大きく溜め息を吐いた。

「袁公路は、玉璽の行方を殿にしつこく問いただしていた様なのです…」

あの時、襄陽城を包囲していた徳謀は、文台が自ら黄祖を追い、山狩りへ向かったと聞いた時は我が耳を疑った。
山に伏兵が潜んでいる可能性は充分に考えられる。
文台が戦に慣れているとはいえ、その様な危険を自らおかすとは思えなかった。

何か、事情があったのでは…
彼は胸騒ぎを覚えたが、まさかこの様な結果になるとは想像もしていなかった。

「殿を襲撃したのは…果して本当に、黄祖の部下たちだったのでしょうか…?」

徳謀は、俯いたまま玉璽を凝視している伯符の横顔に疑問を投げ掛けた。

「父上が殺されたのは…陰謀の可能性がある、と言う事か…?」
赤い目を上げて彼の顔を見た伯符は、眉根まゆねを寄せ、眉間に深く皺を刻む。

「…少なくとも、殿は自らの死を予見されていたのではないかと思うのです…」
「………」
伯符は黙したまま、おもむろに包みの上に置かれた玉璽に手を伸ばした。

「こんな…こんな物の為に、父上は命を落としたと言うのか…!」
「若様?!」

次の瞬間、徳謀が驚いて彼の顔を見上げた時には、彼は素早く玉璽を掴み取っていた。
そして、立ち上がって机の上にそれを乗せると、壁に掛かった剣を手に取って抜き放つ。

「わ、若様…?!何をなさるのです?!」
徳謀は思わず腰を浮かせて狼狽うろたえたが、ただそれを見ているしか無い。

「若様、その玉璽は始皇帝が失われた九鼎きゅうていに替わり、皇帝のあかしとして作らせた物ですが、一説によると…楚漢そかん戦争で敗れた、あの“覇王項羽こうう”の“呪い”が込められていると言う噂がございます…!粗末に扱えばたたられますぞ!」
それを聞くと、伯符は剣を振り上げたまま徳謀の方を振り返った。

「“呪い”だと…?!ならば今此処ここで、俺がその呪いを絶ち切ってやる…!」

伯符は目を吊り上げると怪しく輝く玉璽の真上から、振り上げた剣を一閃いっせんさせた。

「若様…!!」

二人の間に暫し沈黙の時が流れた。

「………っ!」

振り下ろした剣は、玉璽に飾られた龍の鼻先で止まっている。
その剣を小刻みに震わせ、伯符は目を赤く充血させたまま小さく呟いた。

「父上が…身命しんめいして、この俺にたくしたのだ…これが役に立つ時が、きっと来るに違いない…」

彼は目を伏せ力無く肩を落とすと、静かに剣を鞘に収めた。

「母上や弟たちは、既に知っているのか?」
「いえ、先ずは、若様にご報告をと思い…」

「そうか…」
伯符は俯いたまま、胡乱うろんな眼差しを背後に控える徳謀に送った。

屋敷の外に広がる庭から、まだ幼い弟の仲謀ちゅうぼうと、妹たちがはしゃいでいる可愛い笑い声が聞こえて来る。
廊下を通り、爽やかな風に吹かれながらその様子を眺めていると、彼に気付いた仲謀が急いで走り寄って来た。

「兄上、父上は何時いつお戻りになられるのですか?」
仲謀は頬を紅潮させ、息を弾ませながら笑顔で伯符に問い掛ける。
伯符は、暫し目を細めじっと彼の顔を見詰めていたが、おもむろに腰を下ろすと、彼の小さな肩を引き寄せ強く抱き締めた。

少し驚いた仲謀だったが、兄の肩が小さく震えている事に気付き、戸惑いの表情を浮かべながら小さく問い掛ける。

「兄上…泣いているのですか…?」

二人の姿を、降り注ぐ木漏こもれ日の中から、妹たちが心配げな眼差しで見詰めていた。



父殿ちちどのの話は聞いた…残念だ…」
彼はそう言って、伯符の肩を強く叩いた。

公瑾の屋敷を訪れ、居室へ通された伯符は酷く憔悴しょうすいした様子であった。
いつもの覇気はきは一切感じられず、こんなにも口数の少ない彼を見たのは初めての事である。

こんな痛ましい彼の姿は、見るに忍びない…
しかし公瑾には、失意の友をなぐめる適当な言葉が思い浮かばない。

「だが…人には必ず死が訪れる。誰でも、死ぬ時は死ぬものだ。それは仕方の無い事であろう…」
出来るだけ感情を抑えさとす様に声を掛けると、やがて赤い目を上げた伯符は、うっすらと口元に笑みを浮かべて公瑾の瞳を見詰めた。

「お前はきっと、俺が死んでも同じ事を言うのであろうな…」

「…伯符、縁起でも無い事を、言うものでは無い…」
そう答え、公瑾は少し悲しげな眼差しを向ける。

「だが、お前の言う事は正しい。お前が嘘やいつわりを言えぬ人間だからこそ、俺はお前を友とし、誰よりも信頼出来るのだ。」
伯符はようやく瞳の奥に生気せいきの灯った光を宿し、白い歯を見せた。

「もしお前が死んだら、誰が俺の部屋を片付けるのだ?まだ死んでもらっては困る…!」
「はは、その頃には風蘭ふうらんがお前の嫁になっているから、心配する事はないだろう…!」

二人は肩を並べて暫し笑い合った。
やがて伯符は笑いを収め、

一先ひとまず、従兄いとこ伯陽はくようが父上の軍を受け継ぎ、父上の亡骸なきがら此方こちらへ送り届けてくれるそうだ…俺は暫く父上のに服した後、袁公路の元へ行き、伯陽から軍権を引き継ぐ積もりだ…」
と、胸に秘めた決意を語る。

「公瑾、お前には、いつも世話になってばかりだが…これからも俺の力になって欲しい。」
更に、そう言って赤い目を公瑾に向けると、公瑾は少し険しい表情を浮かべた。

「馬鹿を言うな。俺は、お前にとって親友であろう?どんな時でも、お前の力になるに決まっている…!」

瞳をうるませた伯符は、力強く答える公瑾の言葉に胸が熱くなるのを感じ、溢れる泪をこらえる様に強く瞼を閉じた。
白い歯を見せて笑う公瑾は、そんな彼の肩に手を置き、

「俺は丁度、丹陽たんよう従父おじの元へ向かう所だ。そこで有能なつのり兵士を集めて来る。必要になれば、いつでも呼んでくれ。」
そう言って、力強く彼の体を揺さ振った。

父の孫文台を失い、孫家の存亡は若くして当主とうしゅとなる伯符の肩に掛かっている。
彼には、父の死をなけき悲しんでいる時間も余裕も無かった。

古来から、父母の死にいて子の服すべきの期間は、三年とされている。  
それは儒家じゅか始祖しそ孔子こうしの思想によるものだが、漢の時代には喪の期間は短縮され、前漢の第五代皇帝、文帝ぶんていが“喪の期間は三十六日”と定めたと言われてからは、それが庶民の間でも定着していた。
後漢の時代では、三年の服喪ふくもを遣り遂げる事は、ある種の美談とされており、ことに周囲の評価や名声を気にするこの時代では、名のある人物はこぞって三年喪さんねんもに服したと言う。


広陵こうりょう県の江都こうとに、張紘ちょうこう、字を子綱しこうと言う人物が住んでいる。
彼は孫文台と若い頃から親交があり、生前から文台は息子の伯符に、何かあれば彼を頼る様伝えていた為、伯符は母と弟たちを伴って張子綱の元を訪ねた。

子綱は、突然の彼らの訪問に嫌な顔一つ見せず、喜んで迎え入れてくれた。
伯符は一目で彼を信の置ける人物だと見抜き、母と弟たちを彼に託して、自身は父の喪が明けるのを待たず寿春じゅしゅんの袁公路の元へと向かったのであった。


従兄いとこ孫賁そんふん(字を伯陽)が引き継いだ文台の軍は、袁公路に吸収され、彼の手に掌握されている。
袁公路は、伯符が自分を頼って来た事を非常に喜び、自分の傘下さんかに置いて重用したが、まだ若い彼に軍権を引き渡す事はしなかった。

そこで伯符は、丹陽太守だった叔父の呉景ごけいを頼って彼の元で挙兵すると、一揆いっきの首領、祖郎そろうと戦い、初戦こそ大敗をきっするも、その後見事に撃ち破って敵を敗走させてみせた。

「父の軍を、私にお譲り頂けないでしょうか?」
寿春の公路の元へ帰還した伯符が、そう言って頭を下げると、公路は渋い表情でそれを見た。

「私は父を殺した劉表りゅうひょうと、その配下である黄祖こうそを討ち、何としても父のかたきを取りたいと思います。親の仇を取るのは、子のつとめ。どうか、お力添え願いたく…!」
「そなたの気持ちは良く分かる。だが、彼らは孫文台殿の下で長く仕えていた者ばかりで、そなたが統率するのはまだ難しいであろう…」
公路はそう言って渋った。

彼が反対する姿勢を崩さぬ事は、最初から分かっている。
伯符は赤い目を上げ、公路をじっと見詰めると、

「勿論、ただで…と言う訳ではありません…」
そう言って、徐ろに自分の膝元に置いていた包みを開き、それを公路の前に差し出す。

「おお、こ、これは…!」
公路は思わず身を乗り出し、目を瞠った。


「若様…あれを、袁公路殿に差し上げると言うのですか?!」
訪れた伯符の幕舎で、程徳謀が驚きの声を上げていた。
それは昨夜の出来事である。

「俺は…ずっと考えていたのだ…以前、“玉璽の呪い”について話してくれたであろう?」
小さな燭台しょくだいの灯りがともる幕舎で、伯符は真剣な眼差しを彼に向けてそう言った。

「あの父上が、誰かの罠に掛かって命を落とすとは…俺には、どうしても考えられぬ…だがもし、あの玉璽を手にした事で、その呪いによって父上の寿命が削られたとしたなら…そんな物は、一刻も早く手放してしまった方が良いのではないかと思うのだ…」

「…若様…」

伯符が憂いの眼差しを送る先を、徳謀も同じ様に見詰めると、燭台の灯りの下に置かれあやしい輝きを放っている玉璽が彼の瞳にも映った。


伯符は、袁公路に玉璽を預かってもらう代わりに、父の軍から千人余りの兵を譲り受ける事が出来たのである。
兵数は少ないとはいえ、その中には、孫堅軍の中核とも言うべき武将たちが揃っており、朱治しゅち黄蓋こうがい韓当かんとう程普ていふらは、その後も孫家の覇業を支え続ける事になる。

父、孫文台に劣らぬ武勇で次第に頭角とうかくを現し、周囲から期待と人望を集める様になった彼を、人々は何時いつしか

“江東の小覇王”

と呼んだ。

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