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第八章 江東の小覇王と終焉の刻

第九十話 水蘭と風蘭

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やがて廬江郡ろこうぐんに入った彼らは、河を船で下って、大橋、小橋の住む城邑じょうゆうを目指した。
一先ひとまず彼女たちの無事を、母である橋夫人に伝えねば成らない。

暖かな南風が、船上の彼らの頬を撫でる。
大橋、小橋と侍女たちは、れ親しんだ景色が近付くにれ、船から身を乗り出し嬉しさを抑え切れない様子であった。

「大橋様と小橋様が…!お戻りになられた!」

船が港へ入り、彼女たちを連れて船を降りると、それを見た邑人むらびとたちは皆驚きの声を上げた。
彼女たちを連れて行った袁公路の配下たちが山賊に襲われ、“大橋小橋”の二人も山賊たちにさらわれたと言う情報が既に届いていたからである。

大橋たちを車に乗せ、彼女たちの屋敷へと向かうと、既にその報告を聞いていたらしく、門の前に美しい女性が立っている。
それは紛れも無く大橋たちの母、橋夫人であった。
橋夫人はまぶたに大粒の涙をたたえ、頬を紅潮させながら彼女たちを出迎える。

「お母様!」

車から駆け降り、夫人の腕に飛び込んだのは、侍女の水蘭と風蘭である。

「嗚呼、良く戻って来てくれました…!水蘭、風蘭…!」
「お母様!会いたかった…!」

二人は夫人に強く抱き着くと、途端に声を上げて泣き出してしまった。
伯符と公瑾はその光景に、互いの顔を見合わせながら瞠目どうもくする。

「こ、これは…どういう事だ…?!」

「伯符様、公瑾様…本物の“大橋小橋”は、お嬢様たちの方なのですよ。」

車からゆっくりと降りて来た大橋は、二人の様子を見てくすくすと笑った。
小橋も口元を着物で押さえ、微笑を浮かべながら答える。

わたくしたちとお嬢様たちは、それぞれ入れ替わっていたのです。」

「えっ?!でも…でも、どうして…?!」
伯符は完全に狐につままれた顔で、二人を唖然あぜんとして見詰める。

「それは、袁公路えんこうろの配下たちをあざむく為でございます。」
「もし、袁公路がわたくしたちと、お嬢様が入れ替わっている事に気付かぬ様な愚鈍ぐどんな人物であれば、お嬢様たちを差し上げる訳には参りませんので…」

大橋の侍女はそう言って、目を細めながら二人を見詰め、少し意地悪く笑った。
この二人の侍女たちも、水蘭と風蘭を袁公路の元へ行かせる事には反対であり、難癖なんくせを付けて二人を連れ帰る積りだったのであろう。

「お、俺たちは…最初から、そうではないかと疑っていたんだ…!なあ、公瑾?!」
「え、あ…そ、そうだな…!」
伯符に突然、肘で脇腹を突かれた公瑾は思わずそう答えたが、彼を振り返り「俺に振るなよ!」と言いたげな表情で顔をしかめた。
侍女たちは、再びくすくすと笑うと、

「伯符様、公瑾様。お二人は、命懸けでお嬢様たちを護って下さいました。彼女たちをめとる資格は、充分にあると思いますわ。」
そう言って、大橋の美しい侍女が二人に微笑み掛ける。
伯符と公瑾は、少し照れながら互いの顔を顔を見合わせ、頭をきつつ苦笑を浮かべた。


「わたし、公瑾様と結婚できる?」

小橋の侍女、甲琳こうりんの膝に乗りながら無邪気に問い掛ける風蘭を見て、

「風蘭ったら、本気で言っているの?!」
水蘭は刺繍ししゅうをしていた手を止めて、呆れた様にそう言った。

「あなたが公瑾様と結婚なんて、無理に決まっているじゃない!」
「どうして?お姉様は、伯符様と結婚したくないの?」
「わ、私が?!嫌だわ、だって…あのひとは意地悪だもの…」
水蘭は少し不機嫌な表情になると、再び刺繍を始める。

「お姉様は、伯符様の事がお嫌いなの?」
風蘭は小首こくびを傾げて更に問い掛ける。

「そんな事、どうでも良いでしょう…!」
「あらあら、お嬢様たち、どうなさったの?」
少し声を荒げる水蘭をなだめながら、大橋の侍女、才琳さいりんが室内へ入って来た。

「だって、あの娘ったら…公瑾様と結婚したいとか、私が伯符様の事を好きだとか…とにかく、詰まらない事ばかり言うから…!」
「あらお嬢様、伯符様の怪我の具合ぐあいを、あれ程気に掛けていらっしゃったのに…伯符様の事がお嫌いだったのですか?」
才琳は、少し驚きの顔で水蘭を見詰める。

「そ、それは…私を護ろうとして怪我をされたのですもの…心配くらいするわ…」
そう言って少しうつむく水蘭に、才琳は微笑を向けた。
と、その時

姉上あねうえ様、あれをご覧になって…!」
部屋の外へ目を向けた甲琳が、突然驚きの声で姉の才琳に呼び掛けた。

「どうしたの?!」
才琳が窓へ近付き屋敷の外の通りを眺めると、見覚えのある男たちが屋敷の方へ向かって来ているのが見える。

「大変だわ、奥様にお知らせしなければ…!甲琳、お嬢様たちを隠して…!」
才琳はそう言い残し、急いでその部屋から出て行った。


「まさか、あのたちが本物の“大橋小橋”だったとはな…」
伯符は、橋夫人に通された屋敷の一室で荷を解き、床に転がって天井を見上げ、大きな溜め息を吐く。
彼に続いて入って来た公瑾もそこで荷を解くと、寝転ぶ伯符の側に腰を下ろした。

「ああ、驚いたな。だが、お前は始めからあの美しい侍女たちより、水蘭殿の事をずっと気に掛けていたろう?」
「それは…前にも言ったが、彼女に気に入られた方が、何かと好都合なのではと思ったから…」
「全く、お前も素直では無いな。自分の気持ちに素直にならねば、後悔するぞ…」
微笑する公瑾の顔を見ると、伯符は少し口をとがらせた。

「お前はも角、俺は完全に水蘭に嫌われてしまったからな…どの道、あの娘を嫁にするのは百年河清かせいっても無駄であろうよ…」
再び溜め息を吐き、弱音をこぼす。
そんな彼を見下ろしながら公瑾は目を細めて笑った。

「何だ、伯符。もう諦めるのか?」

やがて体を起こした伯符は、両腕を胸の前に組んで、少し考え込む様に自分の足元の床を見詰めた。

「伯符様、公瑾様…!大変でございます!」
その時、二人の部屋に狼狽うろたえた屋敷の家人かじんの一人が駆け込んだ。


「全く…貴女あなたたちには、すっかりだまされましたよ。本物の“大橋小橋”と入れ替わり、挙句あげくに我々を山賊に襲わせて、その隙きに雇っておいた用心棒に彼女たちを連れ出させるとは…」

色白で細身のその男は、忌々いまいましげに才琳を見下ろしながら冷めた口調で語る。
それを黙って聞いていた才琳は、小さく鼻で笑った。
屋敷の門前には、橋夫人を始め侍女の才琳、彼女の妹の甲琳、そして屋敷の家人たちが袁公路の配下たちの前に立ちはだかっている。

わたくしたちが、そんな姑息こそく真似まねをするとでも…?貴方あなたたちの護衛が軟弱過ぎて、もう少しでお嬢様たちは山賊共に連れ去られる所だったのですよ!そのくせ、再びお嬢様たちを寄越せとは笑止な…恥を知りなさい!」

才琳の言葉に、男は額の青筋を小さく痙攣けいれんさせ、細い目を吊り上げながら強く歯噛みをする。

「この小娘が…!さっさと“大橋小橋”を探し出して参れ!」
男がそう命じると、彼の部下たちは躊躇ちゅうちょ無く夫人や家人たちを押し退け、屋敷の中へと踏み込んだ。

男たちは手分けをして、広い屋敷の室内を次々に荒らしながら、大橋小橋の姿を探して回る。
遂に、彼女たちが隠れていると思われる部屋を見つけ出し、部下の報告を聞いた男は、表情を曇らせる家人と才琳たちを横目に睨み付け、直ぐ様その部屋へと向かった。

部屋の扉を勢い良く開くと、水蘭がおびえる風蘭の体を強く抱き締めながら、男を鋭く睨み付けている。

貴女あなた方が“大橋小橋”ですか、これはとても愛くるしい…!あるじ様もお喜びになる事でしょう。」
男は目を細め、腰をかがめて二人に腕を伸ばした。

「触らないで!あっちへ行ってよ…!」
声を震わせながらも、水蘭は気丈きじょうな態度で男を怒鳴り付ける。
すると男は小さく舌打ちをし、次の瞬間、素早く水蘭の細い腕を掴み取った。

「おい、彼女から手を放せ!!」

その時、背後から大声たいせいで呼び止められ、男は鋭く振り返り、そこに立つ少年を睨み付けた。

「伯符様…!」
水蘭は瞳をうるませて彼を見上げる。
伯符は剣をたずさえ、武器を手に取り囲む男の部下たちを睥睨へいげいしながら、男に鋭い切っ先を向けていた。

「…誰かと思えば、孫文台殿の御子息ごしそくではないか…!」
男は、彼を見上げてふんっと鼻で笑う。

「あんたか…劉子台りゅうしだい殿…!」

その男は、劉勲りゅうくん、字を子台と言う、袁公路が最も信頼し寵愛ちょうあいしている配下の一人である。
実は、父の孫文台を通じて彼らには面識があり、子台は伯符の事を良く覚えていた。

伯符に続き、公瑾が剣を手に室内へ入って来ると、彼の姿を見た風蘭は途端にその場から立ち上がり、男の足元をすり抜けて彼の腰に強く抱き着く。

「風蘭殿、怪我は無いか?」
公瑾が彼女の柔らかい髪を撫で下ろしながら優しく問い掛けると、風蘭は瞳を輝かせて彼に大きくうなずいた。

「彼女たちは、既に俺たちの妻になる事が決まっている…!彼女たちを連れて行くと言うなら、俺たちが相手になってやるっ!」

伯符が言い放ち剣を構えると、水蘭は思わず瞠目どうもくし、頬を紅潮させて彼を見詰めた。
子台は少し呆れた様に二人を嘲笑あざわらい、

「まだ豎子じゅしに過ぎないお前たちが、そのたちの夫に…?笑わせるでないか…!」
男は伯符と公瑾に向き合うと、吊り上がった目を細め不気味な笑みを浮かべて二人に近付く。

「お前の父は、主様の配下でもある。私にその様な不遜ふそんな態度を取れば、ただでは済まされぬぞ…!」
「あんたが、もし賢明な人物であれば…今後この江東こうとうの地をべる者が誰であるか、分からぬ筈は有るまい?」
伯符は視線をらさず、子台の細い目を鋭く睨み付けたまま、冷静な声でそう問い掛ける。

「……何だと…っ!」
子台は少し瞳に驚きを宿し、しばし声を失って伯符を睨み返していたが、やがて掴んでいた水蘭の腕を放すと、

「ふん、良かろう…今回の事は、“貸し”にしておいてやる…!」
鼻を突き合わせる様にして彼に顔を近付け、周りの者には聞こえぬ程の低い声でささやく。

「もう良い、行くぞ!」
そして、取り囲んだ部下たちに命じ、武器を収めさせると足早にそこを立ち去って行った。

廊下を去って行く彼らを見送った後、公瑾は笑いながら伯符を振り返った。

「伯符、良くあんな恥ずかしい台詞せりふを堂々と言えたものだな…!」
「は、恥ずかしいとか言うなよ…!これでも相当頑張ったんだぞ…っ」
赤面せきめんして声を荒げる伯符に、公瑾は笑いを抑え切れない様子である。
伯符はむっとし、面白くない顔で、捧腹大笑ほうふくたいしょうしている公瑾を横目に睨む。

「伯符様…!」

すると、水蘭が小さく震える声で彼の名を呼んだ。
伯符は慌てて振り返り、潤んだ瞳で見詰める彼女を見下ろした。

「水蘭、違うんだよ…!今のは、奴らを追い返す為の口実であって…」
「敵に囲まれ、怪我を負っているのに…!本気で戦う積もりだったの…?!」
狼狽うろたえる彼の言葉を遮り、水蘭は瞳に大きな泪を浮かべ、眉をひそめて彼を問いただす。

「ああ、いや…でも、奴ら諦めて帰って行ったろう?」
伯符が苦笑を浮かべながらそう答えると、頬を紅潮させた水蘭は途端に大粒の泪をこぼし彼の胸にすがり付いた。

「伯符様の馬鹿…っ!殺されていたかも知れないのに…!どうして、そんな無謀むぼう真似まねをするのよ!」
肩を震わせて泣き出す水蘭を見下ろし、伯符は目に微笑を浮かべながら彼女の震える細い肩を優しく撫で下ろす。

「心配を掛けて、悪かった…ごめんよ…」

抱き締めた水蘭の体からは、ほんのりと柔らかな花のが漂って来る。
暫しその香りに酔いれ、伯符がそっとまぶたを閉じると、何時いつしか水蘭も泣くのを止め、うっとりとした眼差しで彼の背中に回した腕に強く力を込めた。


小さな薄紅色の花弁はなびらが風に舞い、暖かな日差しが降り注ぐ街道を通り抜けて行く。
そんな暖かな午後、城邑の門の下には旅立つ伯符と公瑾を見送る為、大勢の人々が集まって来ていた。

「公瑾様、また会いに来てくれる?」
一緒に手を繋いで街道を歩いて来た風蘭が、彼を見上げて問い掛ける。
公瑾は微笑を浮かべ、無邪気な眼差しで見詰める彼女を見下ろした。

「ああ、また会いに来るよ。」
「その時は…わたしを、公瑾様のお嫁さんにしてくれる?」
不意に立ち止まり、風蘭の前に腰を下ろした公瑾は、彼女の小さな手を優しく握り、悲しげな瞳で見詰めるその顔を見上げる。

「そうだね。風蘭殿がもう少し大きくなったら、きっと良いお嫁さんになれるだろう。その時は、必ず君を迎えに来るよ。」
公瑾が笑顔で答えると、風蘭は頬を紅く染めながら嬉しそうに微笑み、彼の首に抱き着いた。

その様子を、微笑を浮かべて眺めていた水蘭だったが、やがて同じ様に彼らを眺めている伯符を振り返り、少しまぶしそうに目を細めて彼の横顔を見詰めた。
その視線に振り返った伯符は、彼女の紅い顔を見ると、何処と無く照れ臭そうな笑みを浮かべる。

「伯符様、私…」
水蘭は少し口篭くちごもり、高鳴る胸の鼓動を抑える様に、胸の前で合わせた手を強く胸に押し当てた。

「私…伯符様の事を、おしたいしております…!」

目元を紅く染めながら震える声でそう言うと、水蘭は着物の胸元から何かを取り出し、それを伯符の前に差し出した。

それは、紅い糸で丁寧に虎が刺繍ししゅうされた、小さな薄紫色の手巾しゅきん(ハンカチ)である。

「おお、これは見事な…」
伯符が感心しながらそれを手に取り、その虎の刺繍を指で撫でていると、

「お嬢様の刺繍の腕前は素晴らしいでしょう?」
微笑をたたえた才琳が声を掛けて来る。
そして、着物の袖を口元に当てながら水蘭に視線を送ると、才琳はくすくすと小さく笑った。
水蘭は少しむくれ顔で、

「才琳ったら、意地悪なひとだわ…!」
そう言って頬をふくらませる。

「有難う、水蘭。大切に持っておくよ。」

怒った顔もとても可愛い…とは、とても言えなかったが、伯符は彼女の顔を眺めてそう思いながら、手巾を自分の懐に収めた。

「伯符様、何時いつしか…私を妻として、迎えに来て下さいますか…?」

恥じらいながら問い掛ける水蘭は、春の日差しの中に咲く小さな花の様に愛おしく美しい。

「ああ…でも、どうかな…?だって…」
「伯符様…」
思わず口篭る伯符を見上げ、水蘭は落胆の表情を浮かべる。

「はは、嘘だよ。必ず迎えに来るから、その時まで待っていてくれ…!」

「もう…!伯符様ったら、本当に意地悪だわ…!」
伯符が笑うと、水蘭は再び怒って頬を膨らませたが、その瞳には微笑を漂わせていた。

やがて馬に跨がった伯符と公瑾は、邑人たちに見送られながら城の門を潜り、暖かな風の中を次第に遠ざかって行く。
水蘭と風蘭は手を繋ぎ、何時までも彼らに手を振り続けた。


水蘭と風蘭の愛くるしい面影を胸にいだきながら、彼らが暮らすじょ県へと帰り着くと、待っていたのは信じられない知らせであった。


「何だって…?!父上が…!!」


伯符は驚愕きょうがくし、伝達の使者を前に声を震わせた。

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