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オフの日 Ⅴ(有栖視点)
しおりを挟む「……ん」
目覚ましの音で目が覚めた。時間を見ると、スマホの時計は五時を示している。
いつも起きている時間だった。
ベッドから起き上がって伸びをする。昨日昼寝をしたからか、いつもよりすっきりと目覚めることが出来た。ベッドから降りて、動きやすい服に着替える。髪は適当に一纏めにして背中に流しておく。
一階に降りて顔を洗う。玄関から外に出ると、軽く準備運動をした。休暇であっても、日課のランニングは欠かしたくない。
道がよく分からないのでコテージをぐるぐる回ることにした。
何周したか分からないが、何回目かの玄関到達で歩調を緩めた。徐々に速度を落としてから、歩いてもう一週する。ランニング後は急に止まると心臓に悪い。
息を整えると、明るくなってきた空を見上げる。今日も良い天気だ。
ふと目線を下げると、二階のバルコニーからこちらを見下ろしていた遊沙と目が合った。いつから見ていたのだろうか。
「お疲れ様」
上から声が降ってくる。俺は無言で見上げていた。彼の口が何か物言いたげに動く。
「何か言いたいことでも?」
「いや、努力してるんだなって思って」
「何だ? 俺は生まれたときから完璧だとでも思っていたのか?」
つい鼻で嗤ってしまった。そんなつもりなかったのに、言葉にトゲが入ってしまった。
「……ううん。誰も見てないのに、すごいなって思っただけなんだ。気を悪くしたのならごめん」
遊沙は若干申し訳なさそうにして、部屋に引っ込んだ。彼はただ俺を労ってくれただけだ。それなのに、俺はそれを歪めて受け取ってしまった。……こういう仕事をしていると、猜疑心ばかり強くなってどんどん心が汚くなる。それが大人になるということでもあるのだけど。
普段痛まない良心が、ほんの少しだけチクリと痛んだ。
朝食は冴木が用意してくれた。俺がシャワーを浴びている間に用意されたそれは、パンとスープというシンプルなものだが、昨日の脂っこさを鎮めるには丁度良いものだった。
簡素な黒い服に身を包んだ遊沙は、パンを両手で持って食べていて、アーモンド型の黒目と合わせてリスみたいだった。冴木は逆に白いシャツを着ていて、パンを千切って食べている。
俺は先程のことを謝ろうかと考えていたが、完璧にタイミングを逃してしまった。
人に謝るというのは難しいことだ。自分が悪いと自覚している場合でも、何故だか言い出しにくいし、時間が経つごとにそれがどんどん悪化する。しかも、気にしているのは俺だけで、遊沙は気にしていないかもしれないとか考えて、結局いつまでも言い出せないのだ。たった一言「ごめん」で済むのに。それだけでこの胸のモヤモヤは消えるのに。
結局もだもだしている内に、遊沙はコテージを出て行ってしまった。きっとまた散歩に行くのだろう。
このままではいけない気がした。俺はそっと遊沙の後を追いかけた。
遊沙は木の下にしゃがんで、梢の辺りを見上げていた。何を見ているのかと目線を追うと、その先にあったのは蜘蛛の巣だった。蝶が一匹かかっていて、まだ動いていた。蜘蛛がその振動を感じ取ってゆっくりと蝶に向かっていく。このままでは、蝶は捕食されてしまうだろう。だと言うのに、遊沙はそれをただ眺めているだけだった。
遊沙は、虫であっても命を大切にしているのではなかったのか?
昨日の行動との矛盾を感じて、思わず声をかける。
「……助けないのか」
遊沙は、今日は振り返ることもせずに答えた。
「助けないよ」
「昨日と言っていることが違わないか? 蛾には手を差し伸べて、蝶にはそれはしないのか?」
遊沙はすぐには答えず、違う話をし始めた。
「有栖って動物番組見る?」
訳が分からないながらも、考えてみる。動物番組か。見ないわけじゃない。だけど、仕事で忙しくてテレビなんて見ている時間がないから、点けてやっていたら眺める程度だ。
「そう。……あれってさ、スタジオの人はみんな草食獣の味方をするんだ。ライオンとガゼルだったら、みんな『ガゼル、逃げて!』って言う。ライオンだって生きるためには食べないといけないのに。自分たちだって、肉食獣側なのにね」
「……何が言いたいんだ?」
「僕らの可哀想だとかいうエゴで、生き物の生を歪めるのはどうなんだろうってこと。蝶を助けないのは、蜘蛛だって生きているからだよ。僕が助けたら蝶は確かに助かるけれど、蜘蛛は生きるための食事を奪われたことになる。それがきっかけで死んでしまうかもしれない。そんな何かに加担するのは傲慢だなって」
分かるような、分からないような話だった。朝からそんなことを考えて、頭が痛くならないのだろうか。
まあ、つまり、遊沙は命を大切にはするけれど、だからといってむやみに手は差し伸べないということか。なんとかかんとかその結論に行き着いたとき、ふと嫌な予感がした。
「なあ、もしかして俺、お前のこと助けない方が良かったのか……?」
今の話から、もしかしたら俺を責めているのではないかと思ったのだ。余計なことしやがってと。
しかし、杞憂だったらしい。遊沙は振り返って、とても不思議そうな顔をしている。
「なんで?」
「いや、今の話聞いてたら、俺を非難しているのかと」
遊沙は黙って立ち上がると、俺をまっすぐ見つめてきた。
「……あの人たちから僕のことを助けてくれた人、初めてなんだ」
「え……」
まっすぐ見つめられたことと、急な話に呆けた顔をしてしまう。
「僕はね、あの人たちの遊び道具で、サンドバッグで、憂さ晴らしのための存在だったんだ。みんなそうなるのが怖いから、誰も助けてくれない。僕もそれが当たり前で。見て見ぬ振りにも慣れてた。クラスみんなが共犯だから、他は誰も気付かない。……特にあの日は久しぶりだったから、三人ともたがが外れてた。あのまま僕を殺していてもおかしくなかった」
あの三人は知り合いじゃないと冴木には言っていたようだが、やっぱり嘘だったのか。日常的にやられていたんだ。
「だからね」
暗い顔をした俺に、遊沙は優しく微笑んだ。
「僕を助けてくれて、嬉しかった。ああ、人間も意外と捨てたもんじゃないなって、思わせてくれたから。……それに、彼らは捕食者じゃない。有栖が僕を助けても、彼らの生死が危ぶまれることはないから」
作り笑顔ではない静かな微笑みで、遊沙は頭を下げる。
「ありがとう、有栖」
俺の顔がぶわっと熱くなるのを感じた。こんなまっすぐ感謝されるのは初めてのことで、気恥ずかしいやら嬉しいやらいろんな感情が込み上げた。俺が赤くなった顔を手で覆いながら遊沙を見ると、彼は既にいつもの顔に戻っていて、きょとんとこちらを見ていた。
そうだ、俺も、言わなきゃいけないことがあったんだった。
「なあ、遊沙。……さっきはごめんな」
彼は首を傾げる。
「何のこと?」
ほら、やっぱり気にしているのは俺だけだったんじゃないか。……でもおかげで胸につかえていた何かはなくなった。
「努力を褒められて、嬉しかったのに、つい変なこと言った。悪かった」
遊沙はああ、という。
「気にしてない。僕も上から目線だったなって思ったから」
彼はそう言って、散歩の続きを始めた。俺もついて行く。遊沙は時折立ち止まりながら、飛ぶ鳥や歩く虫のことを話してくれた。正直虫の話はもういい、と思ったが、わざわざ言うことはしなかった。
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