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薔薇の求婚
(5)
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「ではまず、その若草色の草木柄を貰おう。そしてその紫色の紫陽花の柄のもだ。あとは、そちらの格子の小花柄の良いな。それからあちらの扇の古典柄のものも頼む。あとは……」
次から次へと反物を指し示す健斗に、楓は大いに慌てた。
「だ、旦那さま。大旦那さまたちのところへ伺う時の着物を選ばれるのではなかったのですか?」
だとしたら一反選べば済むことだ。それをあれもこれもと指示している健斗に驚き、慌てて指摘すると、これは普段用だ、と健斗が言った。
「ふ、普段用!?」
目的と違う言葉が飛び出て、仰天する。
「ふ、普段など、今ある着物で間に合いますし、そんな綺麗な柄の着物を着たら、汚すことを気にして、なにも出来ません……」
健斗に請われて堂々と食事を作るようになり、その際には勿論割烹着は着るが、それでも襟元や裾が汚れないとも限らない。こんなきれいな反物で作った着物を、掃除や洗濯(これらは未だに健斗には内緒だ)、調理中に着ているところが想像できなくて、楓は言った。しかし健斗は小事に介さずといった様子で、けろりとしている。
「汚れたらまた買えばいいではないか」
「ま、またですか!?」
悲鳴に似た声を上げてしまう。もう何年も同じ着物を着続けてきた楓に、そのような無駄遣いが理解できないのは仕方ないと思って欲しい。それに無駄遣いを続けた結果、落ちぶれた堀下家の記憶もまだ新しく残っている。そう言う意味で、楓は健斗の行動が理解できずに苦しんだ。何故こうも健斗は楓に、養父母に顔見せするため以外の着物を仕立てようとしているのだろう、と頭を悩ませる。
(これはもしかして、政略結婚でありがちな、嫁を金で買うという感覚なのかしら……)
自分たちはそのものずばり政略結婚なのだし、峯山家が華族とつながりを持ちたいと思ったら、そのくらいの投資はするのかもしれない。しかし、華族とつながりを持たずとも、今現在、峯山製糸の業績がいいことは、静子から聞いている。
(何もかもを持っている旦那さまが、私ごときを買うなんて有りえないわ……)
楓には学もないし、良家の令嬢としての教育も受けていない。健斗には不似合いだと沈みそうになる思考が頭を埋め尽くしそうになった時、彼が言葉を継いだ。
「君が控えめな性質なのは、なんとなく分かって来たけれども、徐々にこういう晴れやかな着物を着て晴れ晴れしい気持ちになって行って欲しいんだ。君が普段着ている着物は動きやすいのかもしれないが、着るもので心持ちも変わると思うからね。だから、徐々にこういう着物に変えていったほうがいい。あとそれから、その薔薇の柄のも仕立ててくれ」
最後に健斗が指さした反物には淡い空色の地に白と桃色の華やかな大ぶりの薔薇の花が描かれていた。葉を持つ茎が曲線を描いており、どこか西洋風だ。琴子が言っていた、アールヌーボーとはこんな感じなのだろうか。
「薔薇は英吉利に居た頃に庭で育てていてね、国花というだけでなくなじみ深い花なんだよ。英吉利で親しまれている薔薇は、日本で古くから親しまれている種類と違って、育種家のベネットから始まった品種改良でより大きく、より多弁に、より美しく色形を変えた。そのさまざまを家で育てるのが好きだったんだ」
そうなのか。それならば、仕立てられた着物は一等大事にしよう。他の着物は、なるべく使わず、いつか愛想をつかされて出て行けと言われたら、使っていない着物を返せるようにしよう。そもそも楓には過ぎた贅沢だ。健斗に縁の深い薔薇の着物だけで十分すぎる。
「あの、旦那さま……、ありがとうございます……」
「大したことではない。養父母に会いに行くのだから、当たり前のことだ」
楓の礼に、健斗は深く微笑んだ。
小芝屋を後にした健斗が、本家への顔合わせの後に行われるであろう楓のお披露目パーティーの為のドレスを仕立てに行くと言って、楓を日本橋の有名デパート『一越』に連れてきた。義父母に認められると決まったわけではないのに、健斗がやけに乗り気な意味が分からない。
「まだ大旦那さまたちにご挨拶が済んだわけでもないのに、気が早すぎます……」
そう楓が言うと、健斗はおかしそうに笑った。
「では君は、自分が義父母のお眼鏡にかなわないと思っているのかい? 紹介する私の顔に泥を塗るつもり?」
「そ、そういうわけではございませんが……」
次から次へと反物を指し示す健斗に、楓は大いに慌てた。
「だ、旦那さま。大旦那さまたちのところへ伺う時の着物を選ばれるのではなかったのですか?」
だとしたら一反選べば済むことだ。それをあれもこれもと指示している健斗に驚き、慌てて指摘すると、これは普段用だ、と健斗が言った。
「ふ、普段用!?」
目的と違う言葉が飛び出て、仰天する。
「ふ、普段など、今ある着物で間に合いますし、そんな綺麗な柄の着物を着たら、汚すことを気にして、なにも出来ません……」
健斗に請われて堂々と食事を作るようになり、その際には勿論割烹着は着るが、それでも襟元や裾が汚れないとも限らない。こんなきれいな反物で作った着物を、掃除や洗濯(これらは未だに健斗には内緒だ)、調理中に着ているところが想像できなくて、楓は言った。しかし健斗は小事に介さずといった様子で、けろりとしている。
「汚れたらまた買えばいいではないか」
「ま、またですか!?」
悲鳴に似た声を上げてしまう。もう何年も同じ着物を着続けてきた楓に、そのような無駄遣いが理解できないのは仕方ないと思って欲しい。それに無駄遣いを続けた結果、落ちぶれた堀下家の記憶もまだ新しく残っている。そう言う意味で、楓は健斗の行動が理解できずに苦しんだ。何故こうも健斗は楓に、養父母に顔見せするため以外の着物を仕立てようとしているのだろう、と頭を悩ませる。
(これはもしかして、政略結婚でありがちな、嫁を金で買うという感覚なのかしら……)
自分たちはそのものずばり政略結婚なのだし、峯山家が華族とつながりを持ちたいと思ったら、そのくらいの投資はするのかもしれない。しかし、華族とつながりを持たずとも、今現在、峯山製糸の業績がいいことは、静子から聞いている。
(何もかもを持っている旦那さまが、私ごときを買うなんて有りえないわ……)
楓には学もないし、良家の令嬢としての教育も受けていない。健斗には不似合いだと沈みそうになる思考が頭を埋め尽くしそうになった時、彼が言葉を継いだ。
「君が控えめな性質なのは、なんとなく分かって来たけれども、徐々にこういう晴れやかな着物を着て晴れ晴れしい気持ちになって行って欲しいんだ。君が普段着ている着物は動きやすいのかもしれないが、着るもので心持ちも変わると思うからね。だから、徐々にこういう着物に変えていったほうがいい。あとそれから、その薔薇の柄のも仕立ててくれ」
最後に健斗が指さした反物には淡い空色の地に白と桃色の華やかな大ぶりの薔薇の花が描かれていた。葉を持つ茎が曲線を描いており、どこか西洋風だ。琴子が言っていた、アールヌーボーとはこんな感じなのだろうか。
「薔薇は英吉利に居た頃に庭で育てていてね、国花というだけでなくなじみ深い花なんだよ。英吉利で親しまれている薔薇は、日本で古くから親しまれている種類と違って、育種家のベネットから始まった品種改良でより大きく、より多弁に、より美しく色形を変えた。そのさまざまを家で育てるのが好きだったんだ」
そうなのか。それならば、仕立てられた着物は一等大事にしよう。他の着物は、なるべく使わず、いつか愛想をつかされて出て行けと言われたら、使っていない着物を返せるようにしよう。そもそも楓には過ぎた贅沢だ。健斗に縁の深い薔薇の着物だけで十分すぎる。
「あの、旦那さま……、ありがとうございます……」
「大したことではない。養父母に会いに行くのだから、当たり前のことだ」
楓の礼に、健斗は深く微笑んだ。
小芝屋を後にした健斗が、本家への顔合わせの後に行われるであろう楓のお披露目パーティーの為のドレスを仕立てに行くと言って、楓を日本橋の有名デパート『一越』に連れてきた。義父母に認められると決まったわけではないのに、健斗がやけに乗り気な意味が分からない。
「まだ大旦那さまたちにご挨拶が済んだわけでもないのに、気が早すぎます……」
そう楓が言うと、健斗はおかしそうに笑った。
「では君は、自分が義父母のお眼鏡にかなわないと思っているのかい? 紹介する私の顔に泥を塗るつもり?」
「そ、そういうわけではございませんが……」
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